十五品目 生のカリブディス3
「何かあったの?」
「ああ、カルキノスの死骸だ。それもかなり分解が進んでいるが、見える限りで少なくとも三匹分はある。ただここまで簡単に見つけられたとなると、辺りには見えていないだけで、かなりの数が転がっているだろうな」
「蟹かあ……ああ、それで貝があんなに増えてたんだね」
「天敵が減ればそれだけはびこるか。シンのほうが身近なぶん厄介だからな。その天敵でもあるカルキノスにはもう少し頑張ってもらいたいところだが――少し喋りすぎたな。魔力も空気も頃合いだ、戻るか」
そう言って海底を蹴るように弾みをつけては、勢いよく上昇を始める。暗視はもういいか……カワマタのところに戻ったところで、身体変化がもし解けるようなことがあれば、あとが面倒だ。そう思って魔力の節約に努めようとしたその瞬間――そいつは前触れもなく、悠然と目の前を横切るように現れた。いや、前触れならあった。そう、海底のカルキノスだ。
「アザレアさん!」
咄嗟に回避するように動いては、そびえたつような壁から距離をとる。そして不意に覗き込んでくる巨大ないくつもの目。幸いなことにこちらには興味がなさそうだが、もし衝突していたらと背筋が冷たくなる。
捕食者ゆえの余裕か……その気まぐれに感謝しつつ、魔力を速度に変えては、とにかく上を目指す。もはや出し惜しみなどしてはいられない。そんなこちらの考えをあざ笑うように湾曲する壁。明らかに差し向けられたヒレを遠目に、私は人知れず覚悟を決めた。
どうやらこいつは、私たちを珍しいおもちゃか何かと勘違いしているらしい。
「それで遊んでいるつもりか?」
思わず不敵に笑っては、剣を抜くと同時に思い出されるカワマタとの会話。まさか海中の化け物相手に、本当に剣を振り回して戦うことになるとはな……。
「キリボシ、信じるぞ」
海中で足を止めては頭上に振りかぶる刃。極限に研ぎ澄まされた集中力が思い描くのは、記憶に新しいキリボシの手刀。天使の羽すら切り落とした一刀をなぞるように、眼前へと迫るヒレへと振り下ろしては、お見事という声に確信を得る。
「あとは任せたぞ――」
闇の中で暗くなる視界。気力を振り絞るようにないものをねだっては、意識が途切れるよりも先に、思考と体が切り離される。ああ……そうだ。寂しかったんだ。だから私はあのとき置いていかないでと子供みたいに……キリボシはいったい何と答えたんだろう。きっと馬鹿みたいに頷いたに違いない。だから次どこで目を覚まそうとも、キリボシは変わらずそばにいてくれる。そう信じて私は眠りについた。
それからいったいどれだけの時間が経ったのだろう。鼻をつく妙な生臭さに、あり得ないほど重い瞼を叩かれては、やっとのことで体を起こす。
辺りは寝ぼけた頭でまだ海中かと見間違うほど暗くなっていたが、焚き火に照らし出されたそこは、確かに砂浜だった。
「おはよう……」
「おはよう。よく眠れた?」
「いや……まだ眠い」
「そっか。まあ、今日はもうここを動くつもりはないし、ゆっくりしてて大丈夫だよ」
キリボシはそう言って微笑むとまたすぐに食事を再開する。しかし何を食べているのだろうか。手に持った白い人の頭ほどの大きさの物体は、やけに生臭い。
「私の分はないのか?」
「疲れた体でこんなの食べちゃダメだよ」
「そう言われると余計に興味がわくな。なんなんだ? その白いのは」
「アザレアさんが斬ったやつだよ。覚えてない?」
「こんな色をしてたのか……無我夢中だったからな」
いま思い出してもよく生きてるなと我ながら感心する。もちろんキリボシのおかげでもあるのだが、そもそもあれはいったいなんだったのだろうか。
「あれが世に言うカリブディスの正体なのかもな」
「そうなの? カワマタさんには現象だとか言ってたけど」
「いや、別にいまもそうは思ってるが……なんだかな。渦ができる原因はカルキノス――魔物の死骸で間違いないんだがな」
「それも僕はよく分かってないんだけどね」
「正確には多くの魔力を持って生まれた生物、その死骸が水の下に沈むと、魔力を発散する過程で渦を作る。聞いたことがないか? 魔力は巡るものだと」
「うーん、血に近いってのは聞いたことがあるけど」
「そうだな。魔法を扱わない者にとっては、それが一番イメージしやすいかもな。むろん自然に存在するものもあるが、それも同様に巡っている。まれにそれが滞ることで魔力溜まりといった、危険な場所を作り出したりすることもあるんだが……今回は偶然にもカルキノスの死骸でそれが起こったというわけだな」
「あー、そういうことか。アザレアさんが言い渋っていた理由がいまわかったよ」
「やろうと思えば人為的にもそれは起こせるからな。そこに悪意がなくとも、知れば人に話さないとも限らない。そしていつか悪用されたときにああ、やっぱり話さなければよかったでは済まないからな」
「でもそれなら――あ、いや、別に話したくなかったらいいんだけど」
「私が知っている理由か? 別にエルフの間では珍しくもないことだったからな。よく処刑されたものが、湖に沈められては渦を作っていた。むしろそれができないと、ああ、大したことなかったんだなと馬鹿にされていたものだ」
「なんか……別に否定する気はないけど……」
「嫌な文化か? それは私も思う。ただそれがエルフというものだからな。私が言うのもなんだが」
「僕も身に染みて分かってたはずなんだけどね。アザレアさんがいい意味でエルフ離れしてるから、ついこの間まで忘れてたよ」
キリボシはそう言って、少しだけ誇らしそうに笑う。
「エルフ離れか……いい言葉だな。だがそんな私から見ても、お前はかなり人間離れしてると思うけどな」
「いい意味で?」
「まあ、そういうことにしておいてやるさ」
言葉の上ではなんとでも言える。とはいえ――途中でおかしくなってはつい笑ってしまう。ただキリボシまでひどいなあと笑い出しては、それはそれでどうなんだと、お互いに顔を見合わせる。
「それにしてもその、切り身? 美味いのか?」
「うーん……臭い、かな」
「あえて味には触れないあたり、相当なものなんだろうな。まあ、なんでも勧めるお前が、私に食うなと言ったぐらいだからな」
「それは食感、かな。とりあえずゴブリンの比じゃない硬さだね。それに火を受け付けないし……そう考えると、アザレアさんもよく斬ったね?」
「自分でもそれは不思議なんだが……あのときはなぜか斬れる気がしてな。まあ、もう一度やれと言われたら遠慮させてもらうが」
「大丈夫、アザレアさんならまたあれが現れても斬れるよ」
「大丈夫か。お前に言われるとそんな気がしてくるから不思議だな。そういえばここまでどうやって来たんだ? かなりの深さだったと思ったが……カワマタのほうはどうなった?」
「ここまでは普通に泳いできたけど。カワマタさんには一応、倒したって伝えておいたよ。波がひどくて合流はできなかったけどね。それから剣なんだけど……」
「剣なんてどうでもいいさ。カワマタに伝えられたのならそれでいい」
「ごめん。斬った拍子に折れたところまでは目で追ってたんだけど……」
「それどころじゃなかったのは私のほうもだからな。よく生きてたと褒めてほしいぐらいだ」
「えらいえらい」
「お前に褒められてもな……あ」
それで大事なことを思い出す。今回の旅の理由、ただカリブディスという名の渦をどうにかするためだけに、わざわざ海に出たわけではない。
「しまった、報酬の首飾りをもらうのを忘れた」
「奥さんの形見でしょ? カワマタさんが持ってたほうがいいよ」
「なんだ、そういう気遣いもできるんだな?」
「まったく、僕をなんだと思ってるんだか……あ、そういえば泳いでる途中でマリーナを見かけたよ。潮にかなり流されたけど、ここからだとかなり近いみたい」
「服を着ておいてよかったな?」
「服を着てなかったらマリーナにそのまま泳いで行けたかもね」
「どう考えても、全裸の男に連れられたエルフはやばいだろ……」
「そ、それもそうかも……」
二人揃ってそっと海を見つめる。よくは分からないが、海もそうだとつぶやいているような気がした。




