十四品目 天使の羽3
「無様ね。無様、無様。そうよ。あなたみたいな出来損ないは、そうして地べたを這いずり、恨みがましく他者を見上げてるのがお似合いなのよ。気まぐれに虐げられ、踏みつぶされるのがあなたの運命なのよ!」
「好き放題言ってくれるな……」
私は言いながら立ち上がり、体についた砂を手で払う。危うく砂の海に沈むところだったが、キリボシのおかげで助かった。
しかし状況はいいとは言えない。
とりあえず一撃で終わりという結末は避けられたが、その代わりに消費した魔力は少なくなく、何ならそのうえでしっかり身体変化が解けるほどの衝撃を受けているため、体は内外ともに疲弊しきっていると言っていい。
キリボシはどうだろうか。
先に体勢を立て直して、私を砂の中から引き上げるくらいだ。それなりに元気ではあるのだろうが、相手が魔物ならまだしも、天使ともなるとどこまで頼りにしていいものか分からない。
そう、相手は力の権化のような天使なのだ。それもバカみたいに高いところから見下ろされたのでは、どうしようもない。
言いたくはないが、このまま天使が降りてきてくれなければ私たちは終わりだ。
となるとどうにかして引きずり降ろすほかない。ただ厄介なのは、それが相手視点に立てば簡単に分かってしまうということだ。
要するに近づかせまいとする相手に、私たちは近づかなければならない。
それは至難の業だろう。しかしやりようはある。
相手が傲慢な天使で助かった。
「それにしても天使か。お前がエルダーの血筋だということはよく分かったが、他はどうした? いや、言わなくてもいいぞ? 飼い犬になるくらいなら死を選ぶ。そんな連中だ。だからこそ余計に分からないんだが……」
私は挑発するように、本当に分からないと首をかしげて頭をかく。
「お前はなぜそんな屈辱に耐えられる? いや、受け入れられる? お前は私に無様だと言うが、お前のほうこそどうなんだ? 魔王軍として天使の力を振るうことに、疑問はないのか? お前は知らず知らずのうちに考えることを放棄しているんじゃないのか? 本当は自由な私が羨ましいんじゃないのか? 気まぐれに虐げられ、踏みつけられたのはお前自身のことなんじゃないのか?」
「くだらない。くだらないくだらないくだらない! 他がどうしようと私は私、それだけのことでしょ! それにこの力は私が持って生まれたもの。どう使おうと、私の勝手。そもそも持ってないあなたに言われると、妬みにしか聞こえないんだけど? ああ、そういえばあなたにも持って生まれたものがあったわね? その赤い髪、似合ってるわよ? 売り物みたいで」
「その言い方はよくないよ」
私は思わず天使へと向かって開きかけた口を閉ざす。その優しい声音に自分の目的を忘れそうになる。ただそれも一瞬のこと。
すぐに隣に立つキリボシへと邪魔をするなと目を向けたところで、なぜかまあいいかという気持ちになってしまう。
いや、理由なら分かっている。はっきりしている。
天使を見上げて真っすぐ叱りつけるキリボシの横顔が、あまりにも自然で、まるで子供を相手にしているかのような優しさを帯びていたからだった。
「まあ、似合ってるってことには同意だけどね。コルジリネみたいで」
「コルジリネ? どこでその名前を聞いたのか知らないけど、こいつの髪がそんな上等なものなわけないでしょ。人間やオークの汚らわしい血の色に似てるって言うのならまだしもね」
「そうかなあ、似てると思うんだけどなあ、コルジリネ」
キリボシは腕を組んで独り言のように呟く。その不服は天使に対してのものだろうが、肝心の天使にまで届いていないのか、声は返ってこない。
それで私は仕方なく目の前の会話を拾うように、二度目だなと苦笑した。
「キリボシ、前にも言ったが、私の知らないもので例えられても反応に困るだけだぞ」
「うーん、こうなったら、是が非でもアザレアさんには見てもらいたいところだけど……あっ、そうだ。知ってるってことはそういうことだよね。ねえ! エルフさん! コルジリネがどこに生えてたか教えてもらえないかな!」
「お前……」
呆れて声もでないとはこのことかと私は思わず頭を抱える。見ると天使も同じように片手で頭を抱えていた。
「そういう……ああ、そういうこと。魔王軍に人間がいない理由がいま、よく分かったわ。人間と話していると、その馬鹿さ加減にイライラしてくるもの」
「こいつを人間の基準にすると痛い目にあうぞ。すでに何度もあっている私が言うんだから間違いない。とくに最近でいうとシ――いや何でもない。とにかく気になるなら、こっちへ来て確かめてみたらどうだ? それとも怖くて出来ないか?」
「何? 私と剣でも交えようってわけ? そんなこと頼まれたってするわけないでしょ? 泣いて喚いて地べたに頭をこすりつけてお願いするならまだしもね」
「確かに私には無理だな。だがキリボシなら出来る」
「え?」
「嘘でしょ?」
嘘だよと私は跪こうとするキリボシの肩を掴んだ。どうやら言葉で煽ったくらいでは降りてはきてくれないらしい。
こうなってくると途中で入ったキリボシの邪魔が痛かったと言えなくもないが、いまするべきは反省ではない。
しかしどうするか。
相手は魔力の量もその扱いも私より数段格上のエルダーだ。魔法で引きずりおろすのは現実的ではない。ただ私が逆に飛び上がって近づくことは出来る。いや、それもまた避けられたら終わりな時点で現実的ではないだろう。
だが現状、自分から近づかなければこのまま何事もなく終わることになる。
参ったな。個人的には無謀な賭けをするくらいなら、今からでも逃げられる可能性に賭けたほうがマシという感じだが……。
まあ、それもこれも私が一人ならの話だ。
「キリボシ」
「アザレアさん、一応やってみるけど、僕でダメだったら次はアザレアさんだからね?」
「分かった分かった。って、お前が泣き喚いたところで私が腹を抱えて笑うだけだからやめておけ」
私はまた跪こうとするキリボシの頭頂部に、やめろと軽く手刀を振り下ろす。
「それよりもエルフは食わない約束だったが……天使なら別だろう? 食べる方法があるのなら教えてほしいところなんだが」
「天使かあ、アザレアさん。僕を彼女のところまで投げられたりする?」
「それは――できるが。できたとして、その先に何か考えでもあるのか?」
「考えっていうか、まあ……」
キリボシは苦笑に似た笑みを浮かべる。どうやらその先は言いたくないらしい。
「お前……まったく。投げる側の身にもなれ。それでお前に何かあったら――」
「あはっ」
それは一瞬の出来事だった。キリボシの背後に前触れもなく現れた天使を前に、私は咄嗟に斬りかかるか、それとも防御を固めるか選択を迫られ、迷っている暇はないと体が勝手に前者を選択したのとほぼ同時――。
否、それよりもわずかに早く振り向いたキリボシが、瞬く間に天使の片翼を素手で切り落とした。
「この人間に何かあったら、って、ええっ?」
「キリボシ!」
私は天使からではなく、キリボシから飛び散った鮮血に動揺を隠せない。本来なら反撃すべき場面だと言うのに、私はそうすることができなかった。
天使によってキリボシの腹部に突き立てられた、お世辞にも細身とは言えない剣が、背中にまで突き抜けていたからだ。
ただ同様に畳みかけるべきところでそうしてこない天使もまた、羽を切り落とされた動揺から動けなくなっているようだった。
お互いに今という瞬間に立っていられるのは相手のおかげ。
要するに、ここから先は動揺からどれだけ早く立ち直れるか、そういう勝負。串刺しにされて動けないキリボシを挟んで、先手を取ったのは天使だった。
「わ、私の羽……」
「失せろ!」
声と共に唇をかすかに震わせる天使を前に、後手に回ってしまった私は力いっぱい叫んだ。またそうする以外に、たとえば天使に斬りかかれば、剣が刺さったままのキリボシを余計に傷つけてしまうのではないかと怖くてできなかった。
ただ動かず、叫ぶにとどめた甲斐あってか。天使は今にも泣きだしそうな顔で剣を引き抜くと、数歩後退りして尻もちをつき、怯えた様子で背中を向けるとそのまま覚束ない足取りで砂浜を駆けていく。
どうやら片翼では飛ぶことも出来ないらしい。
天使のその無防備な背中を追いかけて斬りつけることは簡単だったが、キリボシの傷口を前と後ろから両手で必死に押さえる私にとって、どちらが重要か、またどちらを優先すべきかは考えるまでもないことだった。
「キリボシ、そっとでいい。横になれるか」
「大丈夫、大丈夫」
キリボシはなぜか横になりたがらない。もしかするとそのほうが辛いという意思表示なのかもしれない。何にせよ、まずは止血を急ぐべきだろう。
幸いにも傷は一直線。自分にではなく他者に、そして人体の構造を完璧に理解しているわけでもない私にとって、難易度が高いことに変わりはないが、この場で完全に治そうというのでなければ可能性はある。
「キリボシ、私にどこまで出来るかは分からないが、これから治癒の魔法をお前に施す。もし途中で私が気絶するようなことがあっても心配するな。そのときは一人でマリーナまで走れ。いいな?」
「大丈夫だって」
キリボシはそう言いながら、天使から切り落とした羽を足元の砂浜からそっと拾い上げる。
「あー、軽いね。食べられるところがあるといいんだけど」
「そんなこと言ってる場合か!」
「アザレアさん、手を離してみて?」
「ふざけるな!」
そんなことできるわけないだろと私が睨みつけると、キリボシはきょとんとした顔で、羽を足元に置く。そうして当たり前のように私の手を両手で掴んだかと思うと、次の瞬間には傷口から離してしまう。
「おい!」
私は叫ぶ。当然のようにまた傷口を押さえようと抵抗する。しかし片手では両手に敵わない。結局まじまじと目にすることになる傷。私は自然と目を瞠る。
「そんな……私はまだ何も――」
「筋肉で締め上げてるだけだけどね。内臓も心配ないよ。刺されないようにまとめて上にずらしたから」
「ず――なんだって?」
「要するに僕は無事ってこと」
キリボシは微笑を浮かべて、また羽を拾い上げる。私はそんなキリボシを前に、血に濡れた手で頭を抱えそうになって、寸前で拳を握る。
ここまで来ると、もう何が何やら分からない。
とにかく目の前の傷口から血が漏れ出ていないことだけは確かだった。
「そういえば言ってなかったっけ。僕は天狗にそだ――」
「待て、待ってくれ。私は別にお前が嘘をついていると思っているわけじゃない。ただお前の言っていることを信じたとして、だ。私はどうするのが正解なんだ?」
「そうだね。とりあえずいつもみたいに火を、って、え、ちょっ、ええっ!」
分かりやすく狼狽えるキリボシの手の中で、急速に色を失っていく天使の羽。ほんの数秒で見えなくなったところで、がっくしと砂浜に両手と両膝をつくキリボシを見て、私はようやく心底から安堵のため息を漏らす。
腹に穴が開いても平気な顔をしているというのに、羽が食べられないと分かった途端にこれか。
「まったく」
と、私は精根尽き果てたようにその場に座り込んだ。
「あ! は、羽根! 羽根さえむしってれば、生でも一口ぐらい……」
「天使をかじろうとするな。罰が当たるぞ」
「食べようって言いだしたのはアザレアさん――」
「はいはい、そうだったな」
私は適当に相づちを打って、天を仰ぐ。一面青の下には偶然か、天使の羽によく似た形の雲が浮かんでいた。
「こっちも片翼か」
それが誰のものかは分からないが、私のものでないことだけは確かだった。とりあえず治癒魔法を練習しよう。また動揺して動けなくなってしまわないように。
ふと地上のキリボシを見やれば、いつの間にかその額が砂浜に埋まっている。別にそのまま放っておいてもよかったのだが、一応けが人だしなと、私は元気づけるように、そっとその肩をつついた。
「もう天使はいないんだ。無様に泣き喚く必要も、地べたに頭をこすり付ける必要もないんだぞ?」
「ならせめて腹を抱えて笑ってよ」
「また今度な」
キリボシのジトっとした視線に、これはつける薬がないなと、私は砂浜に手足を投げ出した。
「増えてるし」
少し目を離した隙に、空には物好き以外に欲しがらないような――少なくとも天使のものではない――不格好な羽が一枚増えていた。




