十三品目 シンの浜焼き
「海だー!」
頭上には雲一つない青空、その下には水平線まで続く透明度の高い海。喜びのあまり靴を片手に波打ち際まで砂浜を駆け抜けた私は、歓迎するように正面から吹きつける潮風の中でバカみたいに声を弾ませる。
それを恥ずかしいことだと思ったりはしない。
私はついに大森林を抜けたのだから。もうオークだハーピィだのと森で魔物を食べなくても済むのだから。
そう、私はいま海を前にしている。
海藻に貝に魚と選び放題な食材の宝庫を前にしているのだ。
「可能性としてはいてもおかしくはなかったが、魔王軍も見当たらないし、海を目指して正解だったな!」
「そうだね。このまま海沿いに進んで港湾都市を目指す。何の問題もないと思うよ。それに海と森とがこれだけ近ければ、これまで通り食料には困らないだろうし」
キリボシはそう言いながら後からゆっくり歩いてきて、私の横を平然と全裸で通り過ぎていったかと思うと、そのまま当たり前のように海に入っていく。
「ええ……」
声をかける機会を逃したが最後、その場に一人残される私。ふとした瞬間にそういえばあいつ服はどうしたんだと振り返ると、キリボシの荷物一式が砂浜にポツンと置かれているのが目に入る。
どうやら私は海を目の前にしながら、栄えある荷物の監視役に選ばれてしまったようだ。
まさか土壇場で先を越されるとは。
足先に触れては離れるを繰り返す冷たい波を小突くように蹴って、私はぼんやりと海を眺める。
レティシアを拠点にしてからというもの、冒険者といえば大森林ということでしばらく目にしてなかった海だが、久しぶりに見るとやはりいいものだなと心からそう思わせられる。
ただなぜそう思うのか、具体的な理由までは分からない。恐らくその圧倒的な広さからしか得られない何かがあるのだろう。
別に珍しくもないことだが、わざわざ内陸から遠く海沿いに移り住む者の気持ちも今なら何となく分かるような気がする。
ただその移住者のほとんどの目的はいわゆる海の幸にあるのだろうが。
思えばレティシアで食べられる海の幸といえば干物くらいしかなかった。それでも食べれば美味しかったし、少々値は張ったが、それ相応の満足感というものは得られていたような気がする。
「しかし海か」
と私はしみじみとつぶやく。キリボシは今ごろ食材を探しているのだろうが、いったい何を持って帰ってくるのだろうか?
気温は少し暑いくらいだが、足先で感じた海は十分冷たかった。
キリボシが暑さや寒さ程度でどうにかなるとも思えないが、それでも体を冷やさないに越したことはない。
とりあえず火は起こしておいて損はないだろう。
そうと決まればと波打ち際に背を向けた私は、退屈しのぎも兼ねて、砂浜に打ち上げられた流木を拾い集めていく。
それにしても潮風が気持ちいい。
いつもはさっさと終わらせるところだが、たまにはだらだらと穏やかな波の音を聞きながらというのも悪くはないのかもしれない。
そうしてただただゆっくり火をおこし、砂浜に座り込んで荷物の番をしていると海辺の陽気に誘われてか、急に眠気が押し寄せてくる。
思えば日中だというのに移動していないというのも珍しい。
ここまで歩き詰めだったというのもあるだろうが、軽い運動後のような心地よい疲労感が余計に眠気を後押しする。
今日はここで野宿だろうか? それともまだこのあと歩くつもりなのだろうか?
キリボシと話さなくては。
そう考えたところで、私の意識はそっと沈んでいった。
「さん――アザレアさん」
私は近づいてきた手を無意識に掴む。そして目を開けてすぐに手を離す。
「なんだキリボシか」
「起きてたんだ」
「いや寝てた。それもかなりぐっすりとな」
私は苦笑する。中腰で手を引っ込めるキリボシの背後では、目を閉じる前にはあれだけ青かった空も海も、いつの間にやら赤く染まり始めていた。
「ごめんね、遅くなっちゃって。でも疲れてたのかな? ここまで近づいてようやく目が覚めたみたいだし」
「無防備にも程があるな。野盗に寝起きを襲われて以来、かなり気を付けてはいたんだが」
「一応聞くけど、調子が悪いわけではないんだよね?」
「むしろ体の調子はこれ以上ないくらいだ。何なら今からでも久々の海を堪能したっていいくらいにな」
「あ、それなんだけど……」
キリボシは何やら言いにくそうにしながら視線を逸らす。その視線を自然と目で追いかけた私は、火にかけられた鉄板の上で口を開ける、拳ほどの大きさもある二枚貝を見つけて、思わず目が釘付けになる。
「なるほどな、今日はシンか。美味そうだな?」
私はそう言って目で座るようにキリボシに促し、目の前に腰を下ろしたところでその肩を掴む。
「ただお前は知らないかもしれないが、そいつは立派な魔物でな。見た目こそ普通だが、そいつが吐く息を浴びると幻を見ることになるんだ。そして幻を見るということは意識を失うことに等しい。だからこそ海に入る際、特に潜る際には注意しなければならない魔物だ。まあ、お前は知らないかもしれないがな」
「あ、アザレアさん?」
「しかし浅瀬にはいないから安心しろ。だが絶対ではない。そう、たとえば運よく他の貝に混ざって持ち帰ることもあるだろう。実際にない話でもないしな。そこで気づくことが出来れば捨てるだけで済むかもしれない。だが誤って熱を加えたならどうなるか。お前は知らないかもしれないが――」
「じょ、蒸気が出る、でしょ?」
「いいや? お前はそれを知らないはずだ」
私はキリボシの肩を掴む手に力を入れる。
「あの、もしかしなくても、謝った方がよかったり?」
私は首を横に振る。
「その必要はない。お前は知らないんだからな。そしてシンの息ならまだしも、蒸気を浴びた者は最悪二度と現実には戻ってこられなくなる。だから海でシンを見かけたら近づいてはいけないし、ましてや捕まえて火にかけて食べようなどと思ってはいけない。お前は知らないだろうがな」
私はそう言ってキリボシの肩から手を離す。とりあえず言いたいことは言えた。あとはどれだけ反省してくれるかだが、キリボシの捨て身というか、危険を顧みない行動は本当に心臓に悪い。
ただキリボシがそうしてしまうのも分からないでもない。
私もキリボシと同じくらい知識と経験があれば、恐らく同じように傍から見れば無茶をしてしまうだろう。
それがたとえ軽率だったとしてもだ。私なら大丈夫。無茶を繰り返すうちについてしまった自信から、きっとそう思うことだろう。
まあ極論、一人なら誰にも迷惑がかからない、強いて言えば自分に迷惑がかかるだけなのでそれでもいいのかもしれないが、今は違うのだ。
キリボシが軽率な行動を起こすたびに私もその危険を一緒に背負うことになるわけで、せめて一言相談でもしてくれればいいものの、現状では私の意思が入り込む余地もない。
ただし今回ばかりは寝てしまった私にも落ち度がある。
危うく幻に閉じ込められてしまうところだったが、そこについては大目に見ることにしよう。
いや、一発くらい思いっきり殴っておきたいところではあるのだが。
「で? お前は私に何を言いづらそうにしていたんだ?」
「海には入らないほうがいいよって、その……楽しみにしてたみたいだから。深さ関係なくシンが大量発生してるなんて、聞きたくないことだろうし」
「何を言い出すかと思えば」
そういうことなら仕方ないだろうに。
海の異変をまるで自分がしでかした失敗のように語るキリボシを前に、私は努めて優しい微笑を浮かべる。
「気にするな。そんなことよりも、だ。お前は大丈夫なのか? まあ大丈夫でなければ今ごろ海の藻屑だろうが」
「大丈夫。昔は眠たくなってたんだけどね。それも最近はないし」
「最近は、ね」
私は苦笑する。
「どうせ悪食が原因だろ。しかし眠くなるか。幻を見せる過程でそうなるのかもしれないが、私が寝てしまったのも、もしかすると浅瀬にいたシンが原因かもな」
「一応シンの下処理――蒸気抜きは十分に距離を取ってやったから、今ここにあるシンは関係ないと思うけど……」
「シンの蒸気抜きか。できれば一生聞きたくない恐ろしい言葉だな」
「本当にごめん。ネズミの一件で僕が大丈夫だからってアザレアさんもそうだとは限らないって、分かってたことなのに」
「別に謝る必要はないけどな。反省するのはいいことだし、今回ばかりは大いにしてもらいたいところではあるが」
私はそう言っておどけるように一度肩を竦めてから、少しだけ表情を引き締める。
「これまでは大丈夫だったとしても、これからも大丈夫だとは限らない。お前が私を心配するように、私もお前を心配している。要するにだ。少しくらい相談しろ。今は一人じゃないんだからな」
お互いに。と私は最後に付け加えて自分にも言い聞かせる。
今回はたまたまキリボシだったが、海に飛び込む順番が逆だったらどうなっていたことか。
むしろ今回に限って言えば、キリボシの軽率さに助けられたと言えなくもない。
ただそれを口にして、せっかくの反省をなかったことにされても困るので、あくまでも思うだけで言葉にすることはないのだが。
「まあ相談しろと言っても最初は難しいだろうしな。私が相談を持ち掛けたときくらいは、しっかり乗ってくれ?」
「僕にアザレアさんの望むような答えが出せればいいけど。でも言葉に出して整理する。その相手くらいにはなれるかな」
「なんだ、自信がないのか? なら練習あるのみだ。キリボシ、私は実を言うと腹が減っている。だがどうしたらいいか分からない。何かいい案はないか?」
「食事にするっていうのはどうかな。だからええと、これから僕たちはシンを食べることになるわけだけど、アザレアさんはどう思う?」
「どう思う?」
そんな風に聞かれたらもちろん食べたくはないと、そう言ってしまいたくなるわけだが……。
練習と言った手前、ここまでの素直な流れを私のほうから断ち切りたくはない。
それで私は本音を飲み込み、否定ではなく、肯定するために鉄板の上へと目を落とす。
「まあ匂いはいいし、食べ応えもありそうだ。しかしシンはシン。どれだけ言い繕ったところで魔物であることには変わりないからな。あまり期待せずに食べることにするさ」
「シンは……まあ、前情報なしだからこそ得られる感動ってのもあるよね」
「どうだか」
私がそう言うとキリボシは確かめてみろと言わんばかりにフォークを手渡してくる。どうやらもう食べていいらしい。
それで私はすぐにキリボシといただきますと声を重ねて、握ったフォークを軽く振り上げ、鉄板の上で大口を開ける二枚貝の一つへとさっそく突き立てる。
そうして持ち上げる拳大の身。そのどう考えても食べづらい大きさに、なんでキリボシは切り分けていないんだ? とキリボシのほうに目を向ければ、なるほど吸い込むようにして口に収めるのかと、すぐにその答えが出る。
いや、普通に切って食べたほうがいいような……。
私は咄嗟に頭を振る。これから魔物を食べようというときに冷静になってもいいことはない。
そう、私にいま必要なのは一歩目を踏み出す勇気だけだ。
よし! と私はあれこれ考えるのをやめて、キリボシを真似するようにシンを吸い込む。
そして歯を突き立てた途端に口から鼻へと抜けていくアツアツの空気。驚いた拍子にシンを丸呑みしてしまった私は、順を追って問題を一つずつ片付けるように、まずはその熱さに悶絶する。
「あっつ!」
でも確かに美味しいような? あとに残されたほどよく海を感じさせる塩味に、私がそう思ったのも束の間。飲み込んだはずのシンがつるんと口から飛び出すのに合わせて、反射的に肩が跳ねる。
「ひゃっ」
喉を通り過ぎて行った不快感に一瞬遅れて、自分の口から出たものとは思えないくらい高い声を上げる私。ただそんなことよりもと私は鉄板の上を凝視する。
「な、なな、な……」
「ああだめだよ、ちゃんと噛んでとどめを刺さないと」
ちゃんと噛んでとどめを刺さないと? こいつはいったい何を言っているんだ?
私は鉄板の上でうねる細身のシンを見下ろしたまま、理解できずに二度三度と瞬きを繰り返す。
「悪い、もう一回言ってくれるか」
「シンはしぶとくてね。一番手間がかからなくて確実なのが噛むことなんだよ」
「確実? つまりなんだ、このシンはまだ生きているということか?」
「大丈夫。中に溜まってる空気は上手く調理できてる証拠で――」
キリボシの声が遠のいていくのに合わせて、私の意識も同じ分だけ遠のいていく。それを現実に繋ぎとめるのは、思い出したくもないトレントの記憶。
ああ、もう、やるしかないな、これは……。
気が付くと私は激情に駆られて、キリボシの持つフォークを手刀でへし折っていた。
「え?」
「キリボシ、私はもうトレントは嫌だと言ったよな。だからもうやらなくちゃいけないんだ」
「あ、アザレアさん?」
「逃げろ。お前をこのフォークのようにはしたくない」
「ご、ごご、ごめーん! でもトレントとシンは違うってー!」
私は逃げるキリボシを横目に、最初で最後のシンを口の中へと詰め込んだ。その数三体。しっかりと胃に収め、口から飛び出してこないのを確認したのち、私は新たな決意を胸に立ち上がる。
シンはもう食べない。だがそう決意したところであいつの価値観が変わらなければ意味がない。
「キリボシィイイ!」
私は握ったままのフォークを振りかざし、前のめりに砂浜を駆け出した。




