二品目 焼きゴブリン
無慈悲な決定、飛び交う怒号。欲にまみれた馬車の荷台で、目を閉じ耳をふさぐ私はまだ何者でもなかった。
幼い日の懐かしい記憶。それが苦いものにならなかったのは、幸運にも手を差し伸べてくれた彼がこの世界の広さを教えてくれたから。
あのとき食べさせられた肉の匂いとその味は今でも忘れない。そうだ、あの時もこんな風に煙の奥から獣がやってきて……。
「やあ、よく眠れたみたいだね」
「ああ……」
辺りを見回してはようやく現実に追いついてくる頭、空を見上げては認めざるを得ない時間の経過。ふと昨日の自分を思い出しては、少しだけ恥ずかしくなる。
「まさか駆け出しに一服盛られた挙句に、朝寝坊とはな。これで体が楽になっていなければ……いや、違うな。まずは礼を言わせてくれ。助かった。ありがとう」
両ひざに手をついては頭を下げる。そうして目に入る底の浅い鍋――獣臭い薄切り肉を箸でつつくキリボシは、すぐにそれは違うよと訂正する。
「礼を言うのは僕の方さ。実のところ昨日アザレアさんから話を聞くまで何も分からなくてね。街に帰るわけにもいかないし……別の場所を目指すにしても、ね」
「それで? どうするか決まったのか?」
「うーん……とりあえず、ご飯にしない?」
そうしてキリボシに促されるがまま昼食、もとい遅い朝食をとることになった。
「いただきます」
「待て」
木皿に盛られた赤黒い肉。箸でつまんでみれば、両面共に火はしっかりと通されているのがよくわかる。しかしその表面から立ち昇る湯気がやけに鼻については、口に運ぶことを躊躇させる。
「何の肉なんだ?」
「ゴブリンだよ。昨日アザレアさんが食べたいって言ってたからね。早起きして捕ってきたんだ」
「ゴブ――いや、待て。私が好きなのは新鮮な野菜や果物であってだな……」
「そうなの? まあ僕もあんまり食べようとは思わないけど。脂肪をため込みにくい体質なのかな? 筋肉質で食べられるところも少ないし。それに魔王軍が近くにいるからかな。奥の方に逃げちゃったのか、探してたらこんな時間になっちゃったよ」
「それは……苦労をかけたな。しかし味はどうなんだ。あと匂いとか……」
「アザレアさんは昨日のテングダケが相当堪えたみたいだね。まあ、食べられなくはないから」
キリボシは笑う。その平気そうな顔に騙されて昨日はえらい目にあった。だが如何せん腹は減っている。ここは思い切って一口目は慎重に、そして二口目からは何も考えずにただ完食を目指すべきだ。
「ゴブリンか……いただきます」
意を決して口の中に放り込む。うっ……獣臭い。だがそれは予想の範疇。そして予想を大きく超えてきたのはその歯ごたえ、舌触り、異常なまでの硬さだった。
「どう? 食べやすいように出来るだけ薄くは切ってみたんだけど」
格闘中に話しかけるな。そうは思ったが、飲み込めるタイミングが分からないので悪態をつく暇もない。やっとのことで無理やり飲み込んではようやく一息つく。
そうしていなくなったはずのゴブリンがまだ口内に残っていることに気付いては、急いで次を放り込む。
まずい……このままでは顎のほうが先に限界を迎えてしまう。気を紛らわせるように、行儀の悪さに目を瞑っては結局キリボシに悪態をつく。
「薄いとか厚いとかそういう問題じゃない。それにゴブリンを口の中に一日飼うぐらいなら、まだテングダケのほうが百倍マシだった」
「夕食は決まったね」
「冗談に決まっているだろう。私はもっと――そうだな。とにかく素材そのものを生かした料理はもう十分に堪能した。ありがとう。そこで私から提案だ。ここから最も近い村を目指そう。そこで塩か砂糖でも手に入れば、たとえ素材が何であれ、我々の食卓は今以上に豊かになる。そうは思わないか? 料理長」
「そうだね。このままゴブリンを食べ続けて、アザレアさんの顎が壊れないか心配し続けるよりはいいかな。だけどここから一番近いっていうと……魔王軍がすでに通ったあとかも」
「その可能性はあるが……魔王軍は多種多様な種族によって構成されている。大森林を避けて進軍してきたのも、多種族ゆえに揃わない足並みをそろえておくためだろう。そしてこの場に奴らが居ない以上、今も道なりに進んでいるとしたら――」
「大森林を最短距離で抜けていく僕たちのほうが早いと」
そうだと、私は軽くうなずく。もはや喋るのも億劫になってきた。かつてない顎の疲労に辟易しながらも、最後の一山に箸を伸ばしては勝利を確信する。
「でもよかったよ。ゴブリンは特に雑食だから病気や寄生虫がついてることも少なくないし、分解できない毒素を内蔵にためこむ割りに見た目じゃ判断できないし」
「おい」
「なんとか食べられるところと言えば手足の肉付きが良いところだけ。もし今後も食べたいって言われたら――」
「おい、それ以上言ってみろ。吐くぞ」
「ここからだと明日の夜には到着かな? そういえばあそこのワインで煮込んだ料理は絶品だったよ」
「ワインか……」
もしグラス一杯のそれがあったなら。いや、それでも口内に一度住み着いた獣たちを追い出すのは不可能だろう。
「もうなんでもいいから顎に負担がかからなくて、それでいてみずみずしい……できれば甘いものが食べたい」
そんなものがこの世界にあるとしたら――それはきっと果物に違いない。
「そんなのあったかなぁ……?」
ブドウブドウブドウブドウブドウブドウブドウ――キリボシには今一度ワインが何から作られているのか思い出してもらいたい、そう思った。