幕間 生き血をすするまで
吸血鬼の朝は遅い。日が完全に暮れるのを待ってから私の一日は始まる。しかし一族の中にはそんな私を疑問に思う者もいる。光を遮断すれば日中も活動できるのに。だが、私はそうしない。
なぜ? そんなのは決まっている。私は夜明けとともに眠りにつき、待ちに待った夜を万全で迎えたいからだ。
そして心身ともに万全でなければ果たせない職責というものが、私にはあった。
「おはようございます。ネド様」
執務室の前にて扉を開けて、私の入室を待つのはサキュバスのレダ。魔王軍の将たる私の部下であり、優秀な参謀の一人でもある彼女に軽く挨拶を返して、私はいつものように雑多な執務机へと納まる。
机の上には見慣れた書類の束。それ自体は珍しくないが、一見してここ最近では一番ではないかというその量に、私の表情は自然と険しくなる。
「王国方面で何かあったか?」
「掃討作戦は順調に。バルバラの一件で少々問題が――」
やはりかと私はレダの報告を手で遮る。
「もういい。話は後で聞く。それよりも一杯ついでくれ」
「ただいま用意してまいります」
一礼と共に執務室を後にしようとするレダ。その背中を待てと呼び止めた私は、続けてどこのだと産地を問う。
「本日はエドアルド産、一桁の人間の血でございます」
「そうか」
もう行っていいぞとレダに手で促して、私は一人執務室に残される。そして降りる静寂。ふと視線を落とせば、嫌な情報ばかりが目につく書類の束、その一番上。
書類は私が目を通す前に一度レダが目を通し並び変える都合上、上であればあるほどその重要度が増し、比重としては質よりも速度を求められる案件になってくるわけだが、それにしてもよりによってこれが一番上かとうんざりする。
「バルバラねぇ」
ここ数日でいったい何度その単語を耳にし、目にしたかも分からない街の名前。そしてバルバラと並んで書類に何度も出てくるギドという名前。軽く目を通しただけだが、軍の中から規律違反者が出てしまったらしいことだけはすぐに分かった。
「バカ者が」
ギドというのは同じ吸血鬼であり、レダと同じで部下ではあるが古くからの友でもあった。
だからこそしっかり言い聞かせたつもりだったのだが……その甲斐なくといったところらしい。
まあ私としては出来ることはやったうえでの結果であるからして、相手が同族であろうと友であろうと粛々と処分を下すだけだ。
そこに何か思うようでは、魔王軍の将は務まらない。
私も甘く見られたものだな。通常であれば違反者の処罰など一番最後でもいいものを。
ギドとの関係性を少なからず知るレダは私に気を利かせたつもりなのかもしれないが、これでは私より先に書類に目を通させている意味がない。
私としてもやりたくはないが、レダが帰ってきたら叱らなければならないだろう。
そう考えていると、見計らったように聞こえてくる部屋の扉を叩く音。すぐに入室を許可すると、顔を見せたレダの奥から、噂をすればと厄介な男が止める間もなく部屋に飛び込んでくる。
「ギ、ギド様! 困ります!」
「うるさい! サキュバスは引っ込んでろ! ネド!」
同族であり古くからの友でもあるギドは、部屋に入るや否や、顔を真っ赤にして叫ぶ。
その剣幕たるや、尋常なものではなかったが、付き合いが長いゆえに辛うじて正気を失ってはいないであろうことだけは分かった。
それで私は上に立つ者として、同時に友としても慣れたものだとギドを宥めることにする。
「落ち着け。それにレダはお前と同じ参謀だ。そんな風に邪険に扱っていいものじゃない」
「そんなことはどうでもいい! バルバラだ! すぐに全軍を向かわせろ!」
「何を言いだすかと思えば……」
私はこれ見よがしに書類の一番上を手に取り、ギドへと投げ出す。それをギドが手に取ることはないが、視線を落としただけでも上々だ。
落ち着く第一歩として怒りから目を逸らさせる、意識の分散は経験上とても効果的だからだ。
あとは適当に喋って書類を何度か投げ出せば、嫌でも冷静になるだろう。
「独断でラミアを送ったんだってな? お前はそれが大したことのないように考えているのかもしれないが――」
「そんなのは今どうだっていいんだよ! いいからバルバラに軍を向かわせろ!」
「聞け!」
私はまた書類の一番上をギドへと投げ出し、視線を誘導する。
「そういった甘えが今後、他の参謀の独断を許すことにも繋がりかねないと、そうは考えられなかったのか? 言っておくが、ここで甘い処分を下せば他の参謀への示しがつかない。悪いがしばらくの間、降格は免れないぞ」
「こ、降格? ふざけるな! いったい俺がどれだけ軍に……お前に尽くしてきたか! 息子はお前の命令で一人村に残され――それであんな無残な、最期を……」
ギドは言いながらその場に崩れ落ちる。それで私は書類を投げるのをやめた。
正直なところギドの言い分は分かるし、独断に走ったのも理解できる。だが魔王様から一軍を預かる身として、職務に私情は持ち込めない。
私はやはり万全でよかったなと、日中を休息に充てていた自分に感謝する。
でなければ微々たる可能性だとしても私はギドに対して同情し、また自分の判断と選択に疑問を抱いていたかもしれない。
そんなことでは一軍の将は務まらないというのに。
「犠牲が出た以上、村の件は私に落ち度がある。だがお前の息子を正当に評価したうえでの配置だった。苦しいのは分かるが、私がお前にしてやれるのは頭を下げることぐらいだ。悲しみに寄り添うことまではできない。犠牲をただの犠牲にしないためにも、いま軍の歩みを止めることはできないのだ」
「分かっている。分かっているさ……ああ、そうさ。分かっているんだ。息子のマルタ村行きに参謀として俺も賛成したんだからな。でも、でもよ……」
「ギド、しばらく休め。ラミアの件なら気にするな。いずれほとぼりが冷めたら参謀に復帰するといい。お前の力は誰もが認めるところなんだからな」
「ネド、違う。違うんだ。俺は……」
「何も違わない。どこでお前と息子の話を聞きつけたのかは知らないが、新入りで手柄に飢えていたラミアのことだ。それ相応の責任を押し付けたところで文句は言わないさ。レダ、ギドのことを家族のところにまでつれていってやってくれ」
「承知しました」
レダはそう言うとギドの隣に膝をつく。そうしてギドの手を取り、直後に振り払われるレダの手。ぶつぶつと何事か呟き続けるギドは、急におかしくなったかのように笑いながら泣き始める。
「悪いなネド。俺はもうおしまいなんだ。メデューサの目を使ったからあ!」
「お前――ギド! どこからそんなものを! レダ!」
「はい!」
私は思わず叫び、レダを確認に走らせる。いや、その必要はなかったかもしれない。目の前のギドの姿を見れば、それは明らかだった。
「俺は終わりだあ! あは、あはははは……」
「笑っている場合か! お前だけで済むならまだしも――家族だって、いや! 一族だって危ういぞ!」
「だから全軍出撃だって言ったんだよう! なあ! ネドお! 助けてくれよう!」
部屋に響くギドの情けない声。まさか村での一件がここまで尾を引く結果をもたらすとは……。
いや、今ならまだ間に合うかもしれない。
思えば村の一件からずっと、こんな機会を待ちわびていたような気さえする。
そう、メデューサの目という分かりやすい理由を得た今なら、軍を動かすことに何の躊躇いもいらない。
今まではただ謝罪することしか出来なかったが、ギドが暴走してくれたおかげで、私は欲しかった建前を手に入れることができたのだ。
「ギド、全軍出撃だ」
「へ……?」
「私自ら軍を率いてバルバラに攻める。目的は目の奪還。そのついでにお前の言う息子の仇がそこにいるかもしれないというのであれば、勝手に探して狩るといい。だが街は必要以上に傷つけてくれるな? 折を見て街への補給路を断ち――おい」
私は聞いてるか? と席を立ち、呆然とするギドの下まで歩み寄る。それと一緒にぎょろりと動くギドの目玉。見開かれた目が私を追ったのを見て、なんだ聞いているじゃないかとすぐに言葉を続ける。
「戦わずして綺麗にもらい受け、拠点として再利用するつもりだったのはお前も知るところだが、その前段階として街に貯め込んでいるであろう食料を吐き出させるために、わざわざレティシアからバルバラに逃げた連中は見逃したんだからな」
「あ、ああ。分かっている。分かっているが、ネド、お前……」
「ギド、お前ならどうする。敵はメデューサの石化と戦えるだけの戦力を持っている。油断はできないぞ?」
「ネド……すまない。いや、お前がいま聞きたいのはそんな言葉じゃないよな」
ギドは言いながら涙を腕でごしごしと拭う。思えばいつからこうしてギドとの立場が入れ替わってしまったのだろう。
昔は自分が今のギドのように涙を拭い、慰められる側だったというのに。
「そうだ、俺なら包囲する。その上で一か所、あえて穴をあけておく」
「流れを作って手荷物検査か。それなら誘導は私がしよう。目の回収は頼んだぞ」
「ああ。ありがとう、ネド」
「礼を言うのは早いぞ。私も前線で指揮を執るのは久しぶりだからな。負けないのは得意だが、勝てるかまでは分からない」
「お前はいつもそう言って勝ってたよ。だから心配はいらないさ」
「そうか?」
「そうだよ」
自信満々なギド。それに私が笑うと、ギドもまた笑みを浮かべる。もはや会話に言葉は必要ない。ただ私がなんで私のことなのにお前が自信満々なんだと目で聞けば、ギドもまた目で友達だからと返してくる。
もうギドは大丈夫だ。心配いらない。ギドはこれで元のギドに戻ってくれる。
バルバラで目を取り返し、仇を討てばきっと――。




