九品目 ラミアのハンバーグ4
それからいったいどれだけの時間をその闇の中で過ごしたのかは分からない。
ただ真っ暗で光はないというのに不思議と不安はなく、むしろ居心地がよかったように思う。だから私はそこから出ることをたびたび見送ったのだろう。
不意にぼんやりとした光がその底に差し込むまで。
「朝か……」
体をなでるひんやりとした微風、いつまでも耳を澄ませていたくなるような鳥の囀り。一日の始まりを自然と肌で感じ取り、もう少しだけと目を閉じたまま深呼吸する。
直後に朝の新鮮な空気と共に鼻の奥に入ってくる、爽やかさの欠片もない肉の臭い。そのあまりの濃厚さに、もう少しなどと言っていられなくなった私は、たまらず眉間に皺を寄せて思わず飛び起きる。
「どこの馬鹿だ……」
寝台の上で辺りを見回し、脱がされた靴を探す。それで気づいたが部屋がやけに広い。いや、家具の数からして一人用の部屋なのだろうが、だとしたら限られた空間の無駄遣いもいいところだ。
こんな無駄遣いというか、贅沢をバルバラで出来るのは商人の中でもかなりの上澄みであろうが、キリボシはいったいどこの誰の屋敷に私を運び込んだのだろうか。
たとえばだが私を担ぐキリボシを見て、商人が足元を見ていたとしたら。
高そうな絨毯の上に揃えて置かれた靴を見つけた私は、その時は逃げるしかないなと音もたてずに靴を履く。
それから足早に向かう窓際。半端に開いた窓を外側に開け放てば、見計らったように気持ちのいい風が吹き込んでくる。
ああ、肉の焼ける匂いさえなければ完璧なのに……。
上空へと昇る薄い煙を下へと辿って、朝日の差し込んだ庭を建物の二階から見下ろした私は、まあそうだろうと思ってたけどなと苦笑する。
「キリボシ、朝起こすならせめて肉以外の匂いで起こしてくれ。特に病み上がりのときはな」
「そんなときにこそ精のつく物を食べないと。なんてね。アザレアさんが倒れたときには驚いたけど、元気になったみたいでよかったよ」
「おかげさまでな。一応聞いておくが私はどれくらい寝ていた?」
「うーん、結構?」
「結構か。まあ朝が来たと思ったら、また朝が来ているぐらいだしな」
私は言いながら庭に差し込む朝日を見据える。結構というのが丸一日か丸二日なのか。それとももっとなのか。まあ何日でもいいか。
今はそれよりも――不意に小さくお腹が鳴ったところで、またキリボシに目を落とす。
「それで? お前は私が寝ているのをいいことに、一人でこそこそと朝食か?」
「部屋の窓を開けてたでしょ? アザレアさんならきっと起きると思ってたよ。一人で降りてこられる?」
「なんだ、手を叩けば執事でも出てくるのか?」
「僕が迎えに行くだけだよ」
「そうか、こんなに広い屋敷だというのに執事はいないのか」
私はそっと窓際を離れ、部屋の扉の前まで移動する。そうして部屋を出るのではなく、扉の脇に立てかけられた剣を手に取って、また窓際へと戻る。
「キリボシ、念のため聞いておくが、この屋敷には私たち以外に人がいるのか?」
「いないと思うけど」
「そうか」
私は言うが早いか、窓枠へと足をかけて、庭へと飛び降りた。それは体の調子を確かめる意味もあったが、その着地の軽さに私は内心で安堵する。
さすがに万全とまでは言えないが、どうやら最悪な状態は抜け出したようだ。
「アザレアさん……は知らなくて当然だけど、ここ、あの依頼を持ち掛けてきた商人の家だから」
「ふーん、で? その商人は庭で肉を焼いてもいいって?」
私はキリボシのそばへと歩み寄り、火を起こすために引き抜かれた芝生の山を見下ろす。
「大丈夫、好きに使っていいって言ってたよ」
「そうか」
あの商人、路地で依頼を持ちかけてきた初老の男性も、まさかそう言っただけで庭で肉を焼かれるとは思っていなかったことであろう。
好きにしろと言ったのは初老の男性であるからして、私たちに明確な落ち度はないが、この屋敷に何日滞在することになるのかもまだ分からない。
持ち主が初老の男性なら、近いうちにまた会うこともあるであろう。その際には感謝を述べるのはもちろんのこと、謝罪もしておいたほうがいいかもしれない。
ただし、代わりにと何かを要求されない程度にだが。
「で? 何を焼いてるんだ?」
「ラミア」
「だろうな」
私はキリボシの横に立って、火にかけられた鉄板の上を眺める。乗っているのは手のひら大の肉団子。ジュウジュウと音を立てる平たいそれは、ありがたいことに一見してラミアの肉とは分からないようにひと手間加えられている。
「わざわざひき肉にしたのか」
「うん、ラミアは骨が多いからね。バルバラや帝国ではこういうのをハンバーグって言うんだって」
「ハンバーグか。そういえばラミアは雑食だぞ。それに寄生虫に困っていると聞いたこともある。大丈夫か?」
「そうだね。だから上半身は食べない。まあ、腕ぐらいは食べてもいいんだけどね。病み上がりだし、念には念を入れてね」
「まあその辺のさじ加減は任せるさ。食後に食べ損ねたブドウが食べられるならな」
「ブドウかあ……それにも関係することなんだけど、どうもアザレアさんが体調を崩したのは、この街で食べたネズミが原因みたいなんだよね」
「あの黒焦げの? ネズミが?」
言われて思い返すが、生焼けに感じられたということ以外に、特に印象には残っていない。むしろ私が倒れた原因と言えばその前にあるような気さえする。
「それなら街の外で食べたスライムのほうが圧倒的に体には悪そうだったが。スライムが森を綺麗にしているのは分かるが、その代わりに汚れを一手に引き受けているイメージはあるしな。そんなスライムよりもネズミはやばいということか?」
「その答えはアザレアさんも知ってるというか、分かると思うけどね。この街はなんていうか……その、汚いよ」
「金にか? まあ、ブドウ三つに金貨十八枚はな」
「それだけならよかったんだけどね。僕らの健康には関係ないし」
私が冗談めかして肩を竦めると、キリボシはそう言って笑う。
「ただできることなら、アザレアさんにはこの街のものをこれ以上食べてほしくない、かも……」
「お前がそう言うならしばらくは控えるさ。それにしてもネズミが原因だとはな。だがいま思えばバルバラに入ってすぐ、追い回されたときに見た路地の汚さは異常だった。いや、大通りが綺麗すぎるからそう思うのかもしれないが」
「大通りにはまだ森でいうところのスライムがいるんだろうね」
「ああ、そういうことか」
私は頭をかく。要するに人の選別をバルバラはすでにやっているのだ。そして街から人を追い出したツケがもう回ってきているのだ。
「門を閉められなかったのは痛かったな。それなりに街の人口も減ったとはいえ、石化騒ぎの中で食料もかなり外に持ち出されただろうからな。街を立て直すためにも外の人間の協力が欲しいところだが、今のバルバラにそこまで余力があるかどうか。なければ街の衛生はこれからさらに悪化するだろうな」
「そうだね。僕は正直、この街を早く離れたいよ。食料が汚染されてるだけならまだしも、水まで汚染されたら周囲の森にも影響が出るかもしれないし」
「そうだな。私も衛生とは言ったが、治安も漏れなく悪化するだろう。そうなれば面倒ごとは避けられない。いや、今なら避けられる、か。しかし症状だけならテングダケに近いような気がするんだがな」
「テングダケのほうがいいよ。すぐに動けなくなるのが分かってる分、周りも自分も備えやすいから」
キリボシはそれに比べてと、まるでネズミに文句でも言うように語気を強める。
「ネズミのはそうなるまでに時間があるし、アザレアさんは否定してたけど匂いにも気配にも明らかに鈍くなってたし、そのせいでラミアにも石化されちゃうし」
「それはだな」
と、それをキリボシに指摘された時には言い訳できると思っていた手前、口を開いてみるも、確かに今になって思えばおかしいことだらけだ。
キリボシに青果店を先に見つけられたこと然り、その後に近づく衛兵や冒険者の存在に気づけなかったこと然り、何よりラミアに気づけず石化されたことに関していえば、右手という証拠の存在もあって、弁明のしようがない。
もっと言えばラミアを探していた際に、わざわざ石化される危険を冒してまで目視したことについては、もはやそのとき正常だったとは自分でも思いたくない。
「……反省しているところだ。いま正にな」
私はそう言って深くため息を吐く。今回はキリボシがいたから大事に至らなかったが、これが一人だったらと思うとぞっとする。
「まあ、そういうことだからお前がおかしくなったときには教えてやる。たとえば朝から肉を食べなくなったり、他人の家の庭で肉を焼くことに抵抗を示したり、仕留めたラミアを食べようとしていなかったりしたときにはな」
「実はアザレアさん、自分が反省する振りをして、僕に反省を促してたりする?」
「振りじゃなくてついでだ。最初と最後はまだしも、二番目は相手の言葉を額面通りに受け取り過ぎだ。どうせお前のことだから、後で植えなおしておけばいいとか思っているんだろうが……いや、屋敷の中でラミアを焼かないだけマシなのか?」
私は自分で言っていて急に正しさを見失う。もしかしなくても今回、キリボシに落ち度はないのではないか? そんな風にさえ思えてくる。
「だめだ、食材がラミアなせいでよく分からなくなってきた。そもそも普通とは何なのか、常識とは何なのか。子供の頃の経験がそっくりそのままそれになるらしいという話は私も聞いたことがあるが……」
「アザレアさん」
「何だ」
「またネズミでも食べた?」
そんなわけあるか、と目だけで異議を唱えてみたはいいものの、次の瞬間には面倒になってもういいやと私はそっとその場に腰を下ろす。
そうして何となく眺めるキリボシの調理風景。いつしか鳥の囀りよりも遠くから聞こえてくる朝の喧騒のほうが大きくなり始めた頃、キリボシは完成を無言で告げるように、一本のフォークだけを私に手渡してくる。
「いや、皿は?」
「これもバルバラ流、なんてね。帝国だと鉄板で焼きながら食べるらしいよ?」
ふーんと、正直皿で食べたほうが焦がす心配をしながら急いで食べる必要もなくていいだろうにとは思ったが、そういう食べ方もあるんだなとすぐに納得する。
「いただきます」
「好きなだけ食べていいからね」
「言われずとも」
私はさっそく鉄板の上でこんがりと焼けたハンバーグにフォークの先を突き刺し、硬くはないようだなと真っ二つに割る。
しかしそれでも一口で食べるにはまだ大きい。
さらに半分に割ってこれぐらいならと口に運ぶ。そこまではラミアといえど、特に抵抗感はない。
否、原型をとどめていないおかげで無駄にラミアだと意識せずに済む。
ただやはりと言うべきか、私はというべきか。鉄板から直接食べるより、皿で食べたほうが絶対にいいと思う。
というか熱すぎるんだが?
味も何も分からずにはふはふ言っていると、キリボシが横から水を差しだしてくる。それをありがたく飲み干し、私は残った後味と匂いに頭を抱える。
「蛇しかいない」
「まあラミアだからね」




