九品目 ラミアのハンバーグ3
「のわっ!」
私は素っ頓狂な声を上げた。それが自分でも聞いたことがないほど間の抜けた声だったために、食べようと頭上に掲げていたブドウが手を離れ、空中へと投げ出されたことへの反応が遅れてしまった。
だから何? と思われるかもしれないが、咄嗟に伸ばした私の手がブドウに届くことはなかった。否、たとえすぐに伸ばしたとしても私の手がブドウを掴むことはなかっただろう。
背中に強烈な衝撃を感じた次の瞬間には、私は地面へとうつ伏せで倒れ伏していた。
それでも。諦めきれずに、意味など無いというのにまた未練がましく伸ばし続けた手が、宙を舞うブドウと共に仲良く灰色に変わったところで、私はようやくそれどころではないらしいなと、キリボシに助けられたことを理解する。
そう、私の右手、その手首から先は一瞬で、それも一切の抵抗を受け付けず、またその猶予も間もなく、石へと変貌していた。
だというのに。
私は迂闊にもほとんど反射的に背後へと振り返る。振り返った先で私を見るキリボシの驚きの眼に、自分でも何をやっているんだろうと驚く。
ただ振り向いてしまったものは仕方がない。
結果的に大通りを目の端に収めた私は、完全に動きを止めた灰色の世界で、唯一動き続ける、ある者の後ろ姿をはっきりと見ることになる。
そして余計に分からなくなる状況。目の前の石化と建物の影に消えていった後ろ姿――半人半蛇が結びつかずに、今すぐにでも後を追いかけてその関係性を問い詰めたくなる。
無論、思うだけでそんなバカなことはしないのだが。
しかしどういうことだろうか。
ラミアがバルバラにいるのもそうだが、街の人々と私の右手、そしてブドウを石化したのがラミアだとするのなら、バルバラは魔王軍の前にラミアと一戦交えることになるのだが……。
「ブドウ?」
と私は頭に引っ掛かった言葉を声に出して繰り返す。
そういえばブドウは二つあったのだ。
その内の一つは投げ出し、一つは正面に抱えていたわけだが……緊急的な回避の果てに私は今うつ伏せに倒れている。
そして私を押し倒したキリボシもまた、私の背中の上でうつ伏せに倒れていた。
「キリボシ、そろそろいいんじゃないか?」
「そうだね」
先にキリボシが立ち上がり、私も覚悟を決めて立ち上がる。それだけで分かる残酷な結果。ああ、あのラミア許すまじ。
正面を紫に染める私とキリボシは、爽やかな甘い香りを漂わせながら、どちらからともなく足早に路地を引き返し、周囲を警戒しながらそっと大通りをのぞく。
「もういないみたいだね。相手は随分と足が速いみたいだ」
「ラミアを見た。だからこそ余計に状況が分からなくて困ってるんだが……見ろ、向かいの寝具屋。いくらなんでも形がよいだけの石の枕に、白金貨一枚は高すぎると思わないか?」
「石になってるのは人だけじゃないみたいだね。アザレアさんのほうは大丈夫?」
「大丈夫、と言いたいのは山々なんだがな」
私はブドウを掴もうとして、無様にも開いたまま石化した右手をチラと見る。
「完全に血は止まっているな。それにこんなことを言うのもなんだが、ここまで見事な石化を見たのは初めてだ。マンドラゴラ程度で元に戻るのならいいが、有効でなかった場合に一生このままだろうなと思えるほどにな」
私は自分の至らなさに苦笑する。
「お前の判断は早かったというのに、この始末。それもよりによって利き手を石化されるとはな。だが心配は無用だ。剣を振るうのに腕は二本も必要ない」
「そっか、でも大丈夫。石化を解く方法には心当たりがあるから。まずはラミアをどうするか考えようか」
キリボシはあっけらかんと言う。
そもそもラミアと現状の関係性すら不明なわけだが、仮にキリボシの言うように石化を解く方法があるとして、高度な石化だけでなく、それを使えるかもしれないラミアまで問題視しないのはどうなのだろうか?
少しは動揺しろと思うのも変な話だが、もしかするとキリボシには、私にはない前例というものがすでにあるのかもしれない。
「キリボシ、お前もしかして今と似たような状況にでも、出くわしたことがあるのか?」
「似たような状況? うーん、まっ、全身石にされたことはあるかな。それにラミアなら狩ったことがあるからね。だから大丈夫。アザレアさんも全身石にされたことはないかもしれないけど、ラミアなら狩ったことがあるでしょ?」
「あるわけないだろ。そもそも冒険者がラミアを狩ること自体、稀なことだ。それに人にとってと私がお前に人を語るのも変な話だが……」
私は言いながら強い呆れからか、不意に目が眩むような感覚を覚えて、そっと目頭を指で押さえる。
「同じ魔王軍を相手取るラミアはまず積極的に狩るべき対象ではないし、ゴブリンやハーピィといった蛮族とも違って対話も不可能ではない。要するに、だ。種族は違えど、人にとってのラミアはそれなりに良き隣人と呼べなくもない」
「そうなの? って、ああ、僕も別に積極的に狩ってたわけじゃないよ? ただどういうわけか、よく襲われたから……」
「それはお前の悪食が原因だろ。同じ人間でもゴブリンを食べていたら、魔物と勘違いされるさ」
「そうかなあ」
そうだ、と思ったが私は口には出さなかった。
ゴブリンならつい先日食べたばかりだし、最近の食生活を思えば私も漏れなく魔物と勘違いされる側だ。
そもそもキリボシのことをとやかく言える立場ではない。
ただ食べておいて良かったとも思う。
そう、仮に私がこの場にゴブリンやハーピィを食べることなく居合わせていたとしたら。
きっとラミアを狩ることに強い抵抗感を抱いていただろうし、何なら反対するか、キリボシ相手に人間とはかくあるべしと、借り物の倫理観を振りかざしていたかもしれない。
まあ片手を石にされ、ブドウを台無しにされた時点で、私はたとえ相手がラミアだろうと何だろうと、それが人でもエルフでも容赦しなかっただろうが。
「それよりもだ。お前はラミアをどうにかすればいいと考えているようだが、そもそも石化の原因が他にある可能性もあるわけで、仮にラミアならラミアで、ここまでの石化を使う相手だ。石化を潜り抜けたとしても、勝負になるかすら怪しいぞ」
「だからってラミアをこのまま放っておくわけにもいかない。そうでしょ?」
キリボシは否定しづらいことを言う。ただ私が否定も肯定もせずに黙っていると、分かりやすく困った顔で頭をかき始める。
「アザレアさんはその……たぶんだけど、石化がラミアの使う魔法だった場合を心配してるんだよね? アザレアさんはこれが魔法だと思う?」
「さあな。魔法であってくれたなら分かりやすいし、何ならそうあってくれとさえ思うが――他者へ直接働きかけることができ、それも即座に一方的となるとな」
私はそう言って大通りを指さす。
「見ろ。石像が足元まで石化している。だが私はというと、ブドウのために咄嗟に高く上げた右の手首から先だけだ。ラミアを中心に円状に行使された魔法ならこれはおかしい。お前も私も仲良く石像になっていなければならないからな」
そうだろう? と私が目を向けると、キリボシは無言でうなずく。
「なら球状だ。球状なら高さと距離の違いで石化を免れたことにも説明がつく。ただそうなるとおかしな点も出てくる。なぜ確実に機能する横方向にではなく、あえて縦方向に労力を割いているのか。頭上からの攻撃を恐れているにしてもこれはおかしい。街中なら遮蔽物などいくらでもあるからだ。要するに――」
私は言っていいものか逡巡する。この石化が本当にただとんでもなく才能があるだけのラミアの魔法であってくれたならよかったのに。
「この石化は少なくとも、円状や球状に範囲を指定して行使されたものではないだろう。何より魔力量には限りがある。そんな無駄な使い方は現実的じゃない。だが大通りの様子はどうか。石化は円状や球状で行使されたように見える」
ただし。私はそう言いながら路地から大通りへと出る。
「それならなぜ大通りは混雑していないのか。私がブドウを買いに行ったときには、道の反対側など見ようと思っても見えなかったというのに。そしてその答えはラミアと同じように、大通りを歩いてみれば分かる。人を追い立てるようにな」
そう言って私が歩き出すと、キリボシもまた後を追うように歩き出す。
たったの数歩。それだけで私の仮説は証明された。いや、されてしまった。
「重なってないね。みんな誰かの陰から飛び出した瞬間に石化してるみたいだ」
「陰から飛び出した瞬間に、ね。それはつまりどういうことか。お前は今ラミアの視点を追体験している」
「石化は見ること、見られることがきっかけで起きる。そう言いたいんだね?」
「まるでどこかで聞いたことのあるような化け物みたいにな」
自分で言っていて馬鹿らしい。だが否定しづらい状況。私はそんなわけあるかとまた目頭を強く指で押さえる。
「アザレアさんがやけに慎重になってる理由がいま分かったよ。でも逆にそこまで分かってしまえばもう怖くない。でしょ? アザレアさん?」
キリボシはそう言ってまるで私を勇気づけるように微笑する。
私はただおかしな現状に筋道を立てているだけで、別に怖がってなどいないのだが……。
いや、キリボシには問題ないと言ったが、利き手を封じられて知らず知らずのうちに弱気になっていたのかもしれない。
だが戦うとして実際はどうだろう。見られなければいいと言っても、その先に残されている謎は多い。
たとえばなぜガラスは石になっていないのか。鏡に映った自分をラミアに見られたらどうなるのか。ガラスに反射した自分は? 服程度では防げないとしても、分厚い皮や鎧なら?
できることならば思い浮かぶ限りの疑問を解消し、対策に対策を重ねたうえで挑みたいところだが――いや、違うなと私は苦笑する。
それならもう、私である必要がない。
そう、そこまで時間をかけて万全を期すなら、何も私である必要はないのだ。
「勝算はあるんだろうな?」
「金貨十四枚分くらいはね」
私は笑いながら目頭を押さえた。あと金貨が四枚あればブドウが買えるじゃないか。
それから自信ありげなキリボシの声にしばし耳を傾け、キリボシは街の外、私は内とで完全に二手に分かれることになる。
そこからは早かった。足早に、同時に慎重すぎるほど慎重に。追うのには困らない大量の痕跡を頼りに、ラミアを探して一人石像の間を縫うように進む。
しかし見つからない。長話が過ぎただろうか?
結局走り続けてラミアを見つけたのは、バルバラが城塞都市と呼ばれる所以である、二枚目の防壁近くだった。
「街はもので溢れているというのにな」
脇目も振らずに真っすぐに中心地を目指すとは、さては観光目的ではないらしいな? などと住民を石化させておいて今さらそんなはずもないのだが、そのやりたい放題なラミアの後ろ姿は嫌でもレティシアでの魔王軍を想起させる。
そもそもバルバラに単身で乗り込んでくるくらいだ。命令でもされなければ誰もやろうとは思わないだろう。
しかしいよいよもってラミアも魔王軍か。
「これからいったい、何度ラミアを食べることになるのやら」
キリボシと行動を共にする限り、これからもそんな心配ばかりしなければならないような気がする。
ラミアには知り合いもいるわけだが……そういえばキリボシは相手がたとえ顔見知りだったとしても食べるのだろうか?
私は気分を落ち着かせるように、そんなどうでもいいことばかり考えながら来た道を少しだけ戻り、曲がり角という分かりやすい死角に入ったところでいよいよだと呼吸を整える。
さて、今回キリボシから私に任された役割は一つ。街で暴れるラミアを勝手知ったる森へと連れ出すこと。
そしてそれは私に言わせればひどく簡単なことだった。
「おい! そこのトカゲ! 蜥蜴の亜人! こっちだ! こっちへこい!」
そう、ラミアは他種族と言葉で意思疎通ができるほどに賢い。そしてその高い知性は同時に、恐ろしく高い自尊心を彼女らに与えた。
「こっちだ! そうだ! トカゲ野郎ー!」
私は思いっきり叫んだ分、大きく息を吸い込んで走り出す。ラミアが餌に食いついたかどうかなどと確認するまでもない。
彼女は来る。きっと来る。あとはただ森を目指して走り続けるだけだ。
角を曲がるごとに追加で煽ることも忘れない。追いつかれても困るが、引き離すのが目的ではないのだ。
ほどなくして街を抜け、門をくぐる。勢いそのままに森へ。
木々の間を抜けるのは石像の間を抜けるのに比べて、気を使わない分、遥かに容易い。
ただ角を曲がれば簡単に身を隠せる街とは違い、森は背中を預ける木を間違えた瞬間、即石化という嫌な難しさもある。
だが死角は多い。そう思っていたのだが……予想以上に木の本数が少ない気がする。それに前に見たときよりも横幅が狭いような――いやそんなわけはない。気のせいだろう。
死角が重要になってただ神経質になっているだけだ。そうに違いない。
「にしてもここまでするか?」
バルバラに入る前にも思ったことだが、周囲の森への力の入れように感心すると同時に、それが原因でもし石化したら私はいったい誰に文句を言えばいいんだと、訳の分からない感情が内から湧き上がってくる。
まあキリボシは石化を解く方法に心当たりがあると言っていたが……仮に私が石化して、その当てが外れたときにはどうするのだろうか?
キリボシは食べられないからと、この場に私を置いていくのだろうか? それとも変人さに磨きをかけて、世にも珍しい石像を背負って歩く男になるのだろうか?
どちらもキリボシらしいといえばそうだが――。
「トカゲー!」
あれ? 叫んだ瞬間に視界が揺れて、私は走りながらまたかと目頭を押さえる。
しかし収まらない視界の揺れ。それでも足だけは止めまいと必死に前へと動かし続けるも、私の意思とは裏腹に、急速に流れていく景色が緩やかになる。
「アザレアさん!」
どうやら私は冗談ではなく、本当に石化してしまったらしい。ついには完全に止まった足で、せめて最後に見るのは地面より空の方がいいなと仰向けに倒れていく。
直後に背中に感じる強烈な浮遊感。覗き込むようにして現れたキリボシの余裕のない表情に、私は似合わないなと思わず笑って、咄嗟に心配ないと声を絞り出す。
「ラミアは、どうなった?」
「大丈夫。ちゃんと仕留めたよ。目に付く限りのお店から拝借した香辛料をありったけ投げつけてやったんだ。もちろん、あのお婆さんの店のものね」
「ついでにあの、青果店のも……」
「そうだね。でもそれはアザレアさんが自分で――」
「置いていかないでくれ……」
「うん。置いていかないよ。絶対に」
「絶対か……それなら、いいんだ」
「うん。だからおやすみ。アザレアさん」
私を上からのぞき込む優しい眼差し。ああ、やはり仰向けに倒れてよかった。
幼き日の情景を今に重ねて、私の意識は穏やかな闇の中へと落ちていった。




