四十三品目 ベルゼブブ3
夜。と言ってもほとんど夜明け前のこと。
タチバナから魔法の講義を受けたついでに二人で夕食を済ませ、寄宿舎の自室で休んでいた私は、不意に部屋の窓がコツコツと音を上げたことで目を覚ました。
どうやらやっと帰ってきたらしい。
すぐに布団から這い出ては、いつでも飛び出せるようにと水をためていた桶で顔を洗う。それから飲み干すコップ一杯の水。一息で喉を潤しては、部屋の鍵と布製の手提げ袋を手に窓を開ける。
直後に部屋へと飛び込んでくる冷たい風。空はまだ夜だと言いたげだが、それもあと数分のことだろう。
下を見下ろすとキリボシが笑顔で手を振っている。
あまりにも帰りが遅いので何かやらかしたのではないかと思っていたが、ただの杞憂だったらしい。
とにかく元気そうで何よりと窓枠を越えては降り立つ地面。歩きながら話そうかと言うキリボシに袋をおしつけては、人目を避けるように寄宿舎を離れていく。
「助かるよ」
袋からパンを取り出しては頬張るキリボシ。相当腹が減っていたのか、すぐに完食しては袋から水筒を取り出したところで、それで? と話を切り出す。
「ほぼ丸一日ヒイラギに付き合わされたようだが、成果はあったのか?」
「結論だけ言うと、アシッドスライムはやっぱりダメだったよ。ただその原因が毒なのか何なのか判然としなくてね。何度か帰ろうとはしたんだけど、その度にヒイラギさんに引き留められちゃって」
「原因を突き止めれば結論を覆せる自信があったんだろうな。だが話を聞くにどうにもならなかった。そういうことだろ?」
「うん。今も調べてるとは思うけど、結局なにが原因かは分からなくてね。ただ意外と退屈はしなかったよ。目の前で次々とお腹が開かれていく様もそうだけど、その手際の良さというか躊躇のなさに、終始圧倒されっぱなしだったし」
キリボシはやや興奮気味に語る。それが良いか悪いかはさておき、もともと興味なさそうにしていたキリボシにそこまで言わせるからには、検証の場には人を惹きつける何かがあったのであろう。
しかし次々とか。今の帝都で檻の中に入ればどうなるか。それは明らかだった。
「どうせ罪人とかなんだろうが、いったい何人犠牲になったのやら」
私がそう言うと、キリボシはえ? と分かりやすく頭上に疑問符を浮かべる。
「なんだ、まさかその辺の人間を捕まえてというわけでもないだろう。こんな状況下だ。兵士の腹を開くとも思えないしな。研究者の中に希望者でもいたのか?」
「帝国は秘薬の試験も兼ねてたんだよ。効力が本物だってことは前日の夜の内に分かってたみたいだからね。だから兵士も研究者も、その家族だって希望者がいればお腹を開いてた。帝国がどうやってその人たちを集めたのかは知らないけど、とにかく魔法や薬で眠らせては壊して治してを繰り返してたよ。だからその、見られたくなかったんじゃないかな? 一人も罪人はいなかったよ」
「なるほどな。アシッドスライムはもののついでか。しかし帝国の倉庫はどれだけでかいのやら」
「種も葉も、帝国にしてみれば高級食材ぐらいの位置づけなのかもね」
キリボシが苦笑しては、私も苦笑する。ロサがあれほどしぶった挙句に結局くれなかったアムブロシアの種。それがここ帝都には万が一に備えて残しておくのではなく、事前に何度も試せるほど有り余っているらしい。
何より驚愕すべきは、帝都がこれですでに半身を失っているという事実。
本当になぜそうなってしまったのか、帝国の自力の高さを知れば知るほどに、自然とローランドなる者の異常さが際立ってくる。
軍を圧倒する個か……。
まるで吟遊詩人にうたわれる英雄のようだが、それが敵だと分かったときの恐怖や絶望はいかほどのものだろうか。
もう何日も経っているとはいえ、落ち着ている帝都を見るに――外から余計な情報を持ち込ませない、戦火を逃れてきた者たちの負の感情を伝播させないという意味でも――門を閉めるというのはとんでもない英断だったのかもしれない。
しかし門か。確か外の帝国民を見捨てているのはヒイラギだとかサエグサは言っていたが……待てよ、門?
私は思わずと足を止める。ただそれも一瞬のこと。すぐに歩き出しては、なんだこの引っ掛かりはと考え込んでいる内に、そういえばとキリボシが声を上げる。
「帝都は門を開けるみたいだよ」
「それか……」
寝起きでもそれぐらいは分かれよと、同時になぜ前もってその可能性に気づけなかったのだろうと天を仰いでは、反省は後だと白んだ空にため息を吐く。
「アシッドスライムだな?」
「うん。しばらくは大丈夫そうだったけど、少し個人差があったから早めに対処するってことなのかな。ただ門を開けるとなると帝都全体の人数も増えるわけだし、完全には食事を切り替えられないと思うけど、その辺はどうするんだろう」
「私なら外に流すな。問題のアシッドスライムを」




