一品目 テングダケのスープ
「はぁ……はぁ……」
日が落ちてからいったいどれほどの時間が経っただろうか。踏み入れたが最後、右も左も分からなくなってしまいそうな鬱蒼とした森の中で、背の高い木々の合間から足元へと差し込む月明かりを頼りに、ただ当てもなく先を急ぐ。
乱れた呼吸、不規則な鼓動――絶えず休息を求める体に、半ば倒れこむようにして木の幹へと手をついては、ほんの数秒のつもりで背中を預ける。
自然と目を閉じれば瞼の裏に蘇る、鮮烈な赤にむせかえるような熱気。気のせいだと分かっているのに妙な息苦しさを感じては、深く息を吸い込むと同時に鼻を突く、体に染みついてしまった焦げた匂い……そして空腹をつく芳醇な香り。
「え……?」
思わずと歩き出しては、それまでの疲労も忘れて、ただ真っ直ぐに漂ってくる香りを辿る。次第に早くなる歩調、すぐに見えてくる炎特有の煌めき。木の影から一人の男の姿を視界に捉えては、ようやくと我に返る。
落ち着け――そう心の中で自分に言い聞かせたのとほぼ同時、不意に立ち上がった男が暗闇を見据えては微笑みかけてくる。
「レティシアから来たのかい? 災難だったね」
やけに勘の良い危険人物……そう普段の自分であれば警戒し、即座にその場を離れていたことだろう。ただ友人でも相手するかのような男の空気感、見る限り丸腰で手招きさえしてみせる大胆不敵さに迷ったが最後――妙な懐かしさまで感じ始めては、結局辺りを警戒しながらも歩み出ていく。
「ちょうどよかった。いま出来上がったところなんだ。食べるでしょ? って、大丈夫? 顔色が悪いけど……」
正面から顔をのぞき込んできては、まあ座りなよと自身が腰かけていた丸太を明け渡す男。その首から下げられた親指ほどの木製の板は、確かに男がレティシアの冒険者であることを指し示していた。
「駆け出しか……運がよかったな」
「どうだろう。採取の依頼を受けたはいいけど、まさかレティシアが魔王軍の標的になっちゃうなんてね。とりあえず一人でも無事が確認できてよかったよ」
「言っておくが私は上から二番目、お前から数えれば……いや、今となってはどうでもいいことか」
レティシアがなくなってしまった以上、そこで築いてきた地位や身分に意味はない。話題を変えようと丸太に腰を下ろしては、それとなく鍋の中を覗き込む。
「いい香りだ」
「うん。魔物も少なくないこの辺りでも比較的よく採れるこのキノコは、その独特な見た目から敬遠されがちだけど、この森に自生する他のキノコと比べても――」
「食べられるならそれでいい」
「もちろん。でも食べ過ぎには注意してね」
「私が遠慮知らずだとでも?」
「たくさん食べて元気にならなきゃね」
ニコニコと笑う男。手にしたお玉で二つのお椀を満たしては、当たり前のように差し出されるスープと一本の匙。感謝と共に受け取っては、静かにその時を待つ。
いただきます――手を合わせては、まだだと逸る気持ちを抑え込む。毒は……なさそうだな。男が飲み込んだのを見届けたのち、まずはとそのスープを味見する。
「少し苦いな……」
「乾燥させるともっと味も香りも強くなるんだけどね」
「そうか」
男が顔色一つ変えずに食べている手前、少しとは言ったものの、正直なところかなり苦い。ただ美味しくないのかと言われたらそうでもない。
口に含んだその瞬間だけは、香りの良さも相まって美味しいと思わされる。ただそれ以降――特に後味は二口目を躊躇する程度には最悪だ。
スープでこれか……具材のほうも何となく想像はつくが……。
軸ごと薄くスライスされたキノコを優しく匙ですくい上げては、そのままの勢いで口に運ぶ。そして思わず天を仰ぐ。
「臭い!」
苦みがどうだとか食感がどうだとか、もはやそんなことはどうでもいい。食欲をそそる芳醇な香りも、ここまで強さに振り切れると不快以外の何物でもない。
いや、匂いに目を瞑れば……そう、食べられないわけではないのだ。今は回復に努める。薬だと思って咀嚼は最低限に、飲み込んでしまえばそれで済む。
「しかし……なんだ。お前はよく平気な顔をして食べていられるな」
「しいて言うなら慣れかな。まあ、初めて食べたときは僕も君同様に叫んだけど」
「お前が店主で私が客なら間違いなく殴っていた。まあ今が平時でここがレティシアであればの話だが」
「レティシア……少しは聞いてもいいのかな」
「予想はついているんだろう。外壁は穴だらけ、ギルドも教会も行き着けの宿屋もなくなった。城に立てこもった連中は……そうだな。まず生きてはいないだろう」
レティシアで最後に見たのは赤い空。そしてその下で燃え盛る城。戦わずに立てこもった連中を今さら臆病者と蔑む気はないが、もし違う選択をしていたならば。
レティシアの――ひいてはエドアルド王国の今は、また違ったものになっていたのかもしれない。
「まあ、生き残ったところで食べることになるのがこんなキノコではな。私もこの森には何度も足を運んでいるが一度も見た覚えがない。もしかしたら新種かもな」
「そう? 同じ冒険者ならたぶん見かけたことぐらいはあると思うけど」
「謙遜するな。それとも秘密にしておきたい理由でもあるのか? もしそうならこれ以上は聞かないが」
「たぶん勘違いしているだけだと思うよ。テングダケは熱を加えると斑点が消えて元々の紫が黒っぽく変色するんだ」
「なんだ、テングダケか。それなら私も知っている。有名な毒キノ、コ……」
ありえないと手から滑り落ちていく軽いお椀。大地に打ち付けては、無情にも空の音色を短く上げる。
「大丈夫。テングダケの毒の症状で一般に知られているのは呼吸困難や心停止が有名だけど、自分で食べる分には致死量に至る前に先に手が動かなくなるから、基本的にはそこまで悪化することはないんだよね」
「だからと言って他人に食べさせていい理由にはならないと思うが?」
「そうだね。でも今の君には必要だ。今すぐにでも横になって無理にでも休息をとる、その理由がね」
余計なお世話だと視線をきつくしては、目の前で平然とおかわりされるスープ。男がその場から一歩でも動いていたならば――自衛のためにももはや切り伏せる他なかったが、男はそれを分かっていて回避しているのだろうか?
分からない、つかみどころがない。ただ全身の感覚が薄れていくのと同時に、それまで熱を持っていた体が気にならなくなったのもまた事実だった。
「テングダケは熱を下げるわけでもないし、傷を癒すわけでもない。でも君が休める状態にはしてくれる。本当は採取した薬草が少しでも残ってればよかったんだけど……君に会う前に全部食べちゃって」
おいおい、そう思わず突っ込みたくなるような告白だが、現状を鑑みれば当然だろう。何より、私自身も食べ物に困った挙句、浅はかにも毒キノコの香りに釣られてしまうぐらいには窮していたのだから。
「アザレア。それが私の名前……あんたは?」
「キリボシ。まあ実際は天狗に育てられたあとに――」
「はいはい……」
丸太に座ったまま目の前のたき火を眺めては、うつらうつらとしてくる意識。ああ、人前で眠りにつくなんていつぶりだろう……。
瞬きを繰り返しては、その度に浮かんでは消えていくみずみずしい野菜に艶のある果物たち。口では否定したが、どうやら体は厚かましくも更なる栄養を求めているらしい。
「ゴ……」
「うん?」
「リン……食べ……い……」
閉ざされた瞼の裏に最後に見たのは、両手でも抱えきれないほどに大きく実った、真っ赤なリンゴだった。