8話
▷ ◆ ▷ ▷ ▷
ニ〇ニ〇年六月ニ十一日。午後十一時五〇分。
雨上がりで視界も足元も飲食店の看板が眩しい、新宿の繁華街。多くの人で賑わう中を、東斗は『黒須』と歩いていた。この日の東斗はワインを一本空けたあとバーでも飲み、いつもより少し飲み過ぎてしまっていたが、不思議と目は覚めていた。このまま朝まで起きていられそうなくらい、飲み過ぎたという感覚は麻痺していた。
「信じれ下さいよ。本当の話なんれすから〜」
「でも、芸能界の噂話ってどこまで本当かわからないですし」
「わかりまひた! そこまれ疑うらら、こんろ会う時まれに証拠を用意しれおきまふ!」
若干ろれつが回っていない東斗が芸能界の面白い噂話があると言っても、『黒須』は話半分で聞いていた。
「じゃあ、ここで。さようなら」
「はぁ〜い」
十字路に差し掛かると電車で帰る『黒須』と別れ、東斗は千鳥足で大通りへと歩いて行く。水溜りに足を突っ込みそうになりながら無事に通りに出て、路肩に停まっていたタクシーを見つけて乗ろうとした。するとそこで、見知らぬ男性に声をかけられた。
「すみません。森島東斗さんですね」
「へ? ……はい」
「麻薬取締部です」
東斗は『関東信越厚生局麻薬取締部』と書いてある身分証を見せられ、四人の三十代〜五十代の堅苦しそうな雰囲気の私服の男たちに囲まれた。
「失礼ですが、バッグの中を拝見しても?」
「え? ……あ。はい」
状況が理解できないまま東斗は言われるがままにトートバッグを捜査員に渡し、別の捜査員にボディーチェックされる。その傍らで、二人の捜査員がバッグの中を漁り、ポーチの中から見つけたもの出して東斗に確認した。
「これは何?」
それは、五センチほどの透明な小袋に入った白い粉だった。
東斗が麻取捜査官に取り囲まれ所持品の確認をされていた時、『黒須』は歩きながら誰かに電話をしていた。
「やっておきましたよ……大丈夫ですよ。陽性反応が出るのは間違いないです」
その数メートル後ろを、二人の私服の男が彼の後を付けるように歩いていた。『黒須』は、まるでサバンナの草食動物のように電話をしながらそれに感付くと、墓地の角を素早く曲がった。
麻取捜査官の二人も小走りしてその後に曲がった。ところが、人がちらほら歩いている中に後を付けていた『黒須』の姿はなかった。彼は忽然と消えてしまった。周辺を探してもそれらしき人物の影もない。
「また見失ったか」
捕まえ損ねたのはこれで何度目だろうと、捜査官は途方に暮れる。
『黒須』は背中にも目が付いているのかと思うくらい、他人の視線に敏感なようだった。違法薬物使用者から辿る方法も、SNSから辿る方法も、どちらも寸でのところでその姿が立ち消える。本当に『黒須』という人物はいるのか。本当はUMAかなんかじゃないのか。もしや、周囲の人間全員が存在をでっち上げているんじゃないんだろうか。そう疑うほどだった。
その頃、ポーチから見つかった白い粉が覚醒剤だと判明した東斗は追い詰められていた。身に覚えのない罪を突然目の前に突き付けられて酔いは一気に覚め、状況に混乱していた。
「知らない。オレのじゃないです!」
「あなたのじゃない? じゃあなんで、あなたのバッグに入ってるの」
「それは……」
自分のものではないと否定するが、捜査員たちの鋭い疑念の目が向けられ萎縮する。否定の証明もできずに言葉に詰まる。嫌な雫が首を伝う。
「でっ……でも! 本当に知らないんです! 何だったら、能力で嘘じゃないことを見て下さい!」
「悪いけど、この中に嘘がわかる特性能力持ってる人はいないから」
まるで、それは戯言だと言うようにかわされ、東斗は左右から捜査官に腕を掴まれる。連行されるのを恐れた東斗は必死に抵抗する。
「違う! オレはそんなの知らない! 本当だって!」
「ひとまず場所を移動しようか。芸能人だから、こんな人目が付くところで騒ぐのはマズいでしょ」
言われて周囲に視線をやれば、ただ事ではなさそうな雰囲気を察知した鼻がいい通行人が多く足を止めていた。スマホを向けている人々は職質をされているのがアイドルの東斗だと知らないが、まずい状況だ。
「それに。あんまり暴れると、公務執行妨害になるよ」
罪が増えると示唆された東斗は、途端に口を噤んだ。抵抗をやめて大人しくすると、車に乗せられ厚生局へ連行された。
▷ ◆ ▷ ▷ ▷
千葉県内房のとある穏やかな港町。真っ青な晩夏の空には未だ真夏の太陽がエネルギーを放ち、海面をキラキラと輝かせる。熱せられた地面には、行く先を惑わすように陽炎が現れていた。
漁も競りも終わり道具が片付けられ、漁協周辺には人影はなかった。そこへ、パーカーを着た二十代半ばくらいの男が全速力でやって来た。
「ちょっと待って! 待ちなさい!」
その背中を追い、マウンテンパーカーにパンツ姿の四十歳前後の背の高い女も走って来た。
男が人気のない漁協の建物の前で立ち止まると、距離を置いて女も立ち止まった。男は肩を上下して息を切らし、こめかみから一滴の汗を垂らす。一方の女はセミロングの髪をかき上げ深く息をしているが、一つも汗を流していない。
「どうしてあなたが。あの男性は、依頼人を陥れた相手よ。なのになぜ庇うの」
女は男に戸惑いの面持ちで問う。一方の男は、女を半ば責めるような視線だった。
「『なぜ』ですか。室長は、ただ仕事を引き受けただけだと思っているみたいですね」
「何ですって?」女は怪訝な表情をする。
「覚えていますか。俺があなたに雇われる三年前に起きた事故のことを」
「事故?」
「見通しのいい交差点で起きた、多重事故ですよ」
「トラック運転手の前方不注意が原因だった、あの? その事故がどうしたの」
「あの事故で唯一亡くなった人がいました。しかし裁判で、あの事故はその被害者側にも過失があると主張され、罪の矛先の一部は彼にも向けられた。木下裕貴は、俺の親友でした。そして、あの裁判で被告人の弁護士として立っていたのはあなたですよね。園山室長」
男に指摘された女はハッとする。何も補足しなくとも、男の証言と自分の経歴は合致しているとその顔が言っていた。
「あなたが裁判でありもしないことをでっち上げて主張したから、死んだ裕貴の人権が侵害されたんですよ! ……最初の質問に答えましょう。依頼人を陥れた谷田さんは、裕貴の父親です。さらに言えば、依頼人は陥れられていない。依頼人が谷田さんを陥れるつもりなんですよ」
「まさか……」
自分が知らない事実を聞かされた女は、男の証言に動揺する。
「一体どういうことなの。あなたはこの依頼に隠された真実を、どこまで知っているの?」
「全ての元凶は、あの三年前の事故にある。俺は真実を知るために、あの探偵事務所にいるんですよ。あなたを巻き込むために」
開けてはならない秘密の扉に手をかける男は、自身の目的を今まさに、女に明かそうとしていた。
「───カット!」
監督の声と共に、カメラの前でクラッパーボードが鳴らされた。その直後にADがタオルと飲み物を二人に持って行き、ハンディーファンを持ったヘアメイクさんが二人に日傘を差しに向かった。
ここは、テレビ大洋の秋ドラマ『猛獣は眠らない』の撮影現場。探偵事務所を舞台としたバディーもので、主演は貴美嶺だ。
貴美はかつて華丘歌劇団に所属し、三十三歳で退団した後にドラマや映画で俳優として活躍している。元男役ともあり背は170cm以上で、背筋もスラッとし、立ち姿が美しい人だ。ダブル主演の煌と並ぶと美男美女オーラが眩しいと、女性スタッフ一同から羨む声が上がるくらいだ。
この日はドラマ折り返し前の話を撮るために、千葉県の鋸南町にやって来ていた。撮影スケジュールも順調に進行中だ。
「チェックオッケーです! 続けていきたいところですが、気温がピークなので、いったん三十分休憩します!」
八月も終わりに近付いているというのに、気温は35℃以上だった。熱中症にならないように、撮影はこまめに休憩を入れながら進められていた。少しの休憩ならテントの下で過ごすが、煌と貴美は冷房がきいたロケバスの中で休憩を取ることにした。
「毎日本当に暑いわね。溶けちゃいそう」
「さっきの走るシーンヤバかったですよね。俺、身体中の水分なくなるかと思いましたよ」
「でも、海風があるだけでも助かるわよね。だけど取り敢えず、早く帰ってシャワーを浴びたいわ」
「本当ですね」
二人はクーラーボックスから差し入れのアイスを持って来ていた。貴美は小豆アイスで、煌はサイダー味のアイスを選んだ。
「それにしても貴美さん、走るの速いですよね。昔から得意だったんですか?」
「そんなことないわ。普通よ」
「普通の人はあんなに速く走れませんよ。それに、立て続けに取り直したのに全然息切れしてないじゃないですか」
「体力づくりを怠っていないだけよ」
「でも何年か前に、アケボノテレビの長時間生放送特番のマラソンに初参加して、初優勝したことありますよね」
「あんなの覚えてるの? あれもまぐれだから。ちょっと調子がよかっただけ」そう言って貴美は固めのアイスを齧った。
冷房とアイスのおかげで、少しずつ汗が引いていく。外は猛暑日の気温だが、貴美の言っていたように海風のおかげで少しは暑さを紛らわせられているが、今日の撮影も暑さとの戦いだった。
すると、アイスを食べながら貴美が尋ねた。「そう言えば。派手なことを始めたんでしょ。まだやってるの?」
派手なことと言われて一瞬ピンとこなかったが、『黒須』探しのことかと察した煌は「ええ、まあ」と軽く答えた。
「森島くんは、本当に嵌められたって言ったの?」
「東斗は覚醒剤なんてやりませんよ。あいつはそんなやつじゃないことは知ってます」
「メンバーだから根拠なく信じてるの?」
「根拠はある程度あります。……いや。根拠と言うより、俺が知ってる東斗ならって言うか」
「確かに、森島くんがやってるところはあんまり想像できないわよね」
と、貴美は東斗を擁護するようなことを言った。共演経験は多くはないが、東斗の人当たりの良さはスタッフのあいだでも有名だったくらいだ。貴美もそんな東斗を見ているはずだ。
「でも、仲間思いなのは尊敬するけれど、やめた方がいいんじゃないの?」
話している最中に、煌のスマホがバイブした。連絡先を交換していた澤田からのLINEで、事件を取材していた他社の記者と会う約束ができたとの連絡だった。
「探してる人、名前『黒須』って言ったかしら。その人が覚醒剤で嵌めたってことは、危ない人なんじゃないの。大丈夫なの、緑川くん」
貴美は煌たちの身を案じた表情を向けた。その目には、気がかりを抱えているようなものも覗いて見えた。
「一応、気を付けてます。ヤバかったら大人しくするので、大丈夫ですよ」
「それって、危険な目に遭ってもやめるつもりはないって言っているの?」
「たぶん、状況によります」
多少の危険に遭遇してもしっぽを巻いて逃走するつもりはない、という煌の言葉に、貴美は溜め息をついた。
「呆れるわね。もっと自分を大切にしなさいよ。あなたは俳優としての価値があるんだから」
「ありがとうございます」
「そこは謝るところだと思うんだけど……あ」
「何ですか?」
「緑川くん、アイス垂れてる!」
「えっ。ヤバ!」
煌の衣装のズボンに、アイスの滴がポタリポタリと落ちていた。慌てた貴美は自分のバッグから急いでハンカチを出し、ペットボトルの水で湿らせてズボンを拭いてくれた。
「怒られますかね」
「幸い、色が暗い色だから目立たないけど、買い取りじゃないしら」
「ですよねー……」
やってしまった……という表情をする煌。うっかり衣装を汚すのは今回が初めてだ。ズボンはどこのブランドのもので幾らくらいするのだろう。普段自分が買っている服よりも高いだろうか。
と一瞬頭を過るが、貴美から言われた言葉がある人から言われたこととダブって、当時のことを思い出した。
◇ ◆ ◇ ◆ ◇