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23話




 年が明けて、もう一ヶ月が過ぎようとしていた。放送しているテレビ番組はお正月の特番から通常枠の番組となり、冬の新ドラマも次々と始まっていた。

 賢志は帝日テレビのレギュラー番組の収録をしていた。世界中から面白いハプニング映像を集め、何が起きるかをクイズ形式で出題しながら楽しむ番組だ。賢志は芸人と番組の進行を務め、パネラーにはタレントが並び、アロハ宮沢もいる。ゲストには、吹き替えを担当した海外映画の告知のために貴美が招かれていた。

 番組はほとんど相棒の芸人が回し、出題は賢志が担当している。新しい映像が流れるたびに、パネラーや観客席から驚きの悲鳴や笑いが起き、クイズも宮沢が積極的にボケて周囲の笑いを誘い、収録はいつも通りの雰囲気で進んでいるように見えた。


「では。この男性に、このあと何が起きたでしょう?」


 賢志が出題するとパネラーたちは回答ボタンを押し、捻った答えやウケを狙った回答をしていく。宮沢のボケ回答には、スタジオじゅうから笑いが起きた。淑やかに佇む貴美も、積極的に回答ボタンを押した。


「はい!」

「あっ。えっと。貴美さん」

「車が自分の方に進んで来て轢かれそうになった?」

「えーっと。ちょっと違いますかね……」


 貴美の答えのあとカンペで「時間切れ」と出て、賢志は指示通りに回答を締め切る。


「あ。時間切れです。えっと、正解は。家の屋根から飛び降りて来たサルに驚いて……」

「倉橋くん。違うちがう!」


 答えを発表しようとしたが、MCの芸人から即刻突っ込まれた。回答時間のあとは先に正解VTRを観る流れだが、賢志は台本に書いてある答えを先に言ってしまった。カンペにも「時間切れ」のあとに「正解はこちらです」と書いてある。


「え?……あっ! すみません! 正解VTRでした! 正解はこちらです!」


 もう長く同じことをやっているというのに、賢志は段取りを間違えた。しかしミスは今回だけではなく、今月の収録が始まってから続いていた。台本を見ているはずなのに進行を間違えたり、台本やカンペを見ていなかったりと、初歩的なミスを連発していた。今日は際立ってミスが酷く、途中で収録が止まることもあった。それでもなんとか最後までやり切ったが、収録終了時間を三〇分押してしまった。


「皆さん。今日はすみませんでした」


 収録が終わった直後、賢志はスタジオの外の通路で共演者たちに謝罪した。けれど、何度も共演しているタレントたちは、「気にすんな」「ちゃんと休みなよ」と言ってフォローしてくれた。しかし賢志は肩を落とし、だいぶ落ち込んでいた。


「倉橋さん。お疲れさま」


 そこへ、貴美が声をかけて来た。賢志は反射的に姿勢を正した。


「お……お疲れさまです」


 表情が固くなる。貴美に緊張しているようだった。ゲストで来たというのに、慣れたはずの進行でミスを連発し収録時間を押してしまったことを、大変申し訳なく思っているのだろう。


「倉橋さん、今日は調子悪そうでしたね」

「すみません。進行役なのに不甲斐ないところを……」

「いいんですよ。誰にだってプレッシャーはありますから。そのプレッシャーを撥ね除けてこそ、一皮剥けるんですから。ね。そう思いません?」


 貴美は、優しい微笑みを向けて言った。収録時間が押したことは、特に怒っていないようだ。それなのに、賢志の表情は強張ったままだ。


「そう……思いますか」

「ええ。完璧な人なんて、この世にいないもの。壁にぶつかって、それを乗り越えた先の苦難を乗り越えてこそ、人は成長するんですから。倉橋さんも、そういう人なんですよ」

「だと、いいんですけど……」


 怒るどころか、励まされてしまった。ミスをした相手に対する包容力と余裕のある振る舞いは、華丘で培われたものなのだろう。トップ男優を務めていたから、組をまとめたり士気を高めたりという役割をこなしていたはずだ。このやり取りで、当時の貴美のカリスマ性が覗い知れる。


「これからも頑張って下さい。私が応援してますから」


 そう言って、貴美は笑顔で去って行った。中には、お高くとまってあからさまに機嫌を損ねたまま収録をしたり、酷い人だと楽屋まで怒鳴りに来るというのに、こんなに器が大きい俳優もいるのだ。彼女のような俳優が共演者やスタッフに慕われ、ファンに愛され続けるのだろう。

 ところが。励まされた賢志の表情は、暗く沈んだままだった。





 売れっ子芸人の宮沢は、恵比寿のタワーマンションの中層階に住んでいる。間取りは2LDKで一人暮らし。四十代後半に差しかかるが、未だ独身で彼女なし。「宮沢会」という彼を慕うタレントたちが集まる会のメンバーは、ほとんどが既婚者で子持ちだ。今や、「独身売れっ子芸人ビッグ5」に名を連ねるようになった。

 だが独身の分、自分自身に金を使っている。インテリアは凝っていて、アメリカンビンテージをイメージした内装に、革張りの茶色いソファーや木製家具を配置し、壁にはビートルズやマイケル・ジャクソンなどのレコードが飾られている。リビングの角にも、さり気なくギターが置いてある。このように、テレビではアロハシャツを着ているが、自宅はハワイ感は全くない。

 そんな宮沢の自宅に、仕事を終えた賢志が訪ねて来ていた。F.L.Yが活動休止し、今日収録していた番組が新しく始まり引き続き宮沢と共演し始めてから、賢志は宮沢の家によく遊びに来ている。それ以前の、F.L.Yの冠番組で宮沢と共演していた時から連絡はよく取り合っていて、メンバー以外で芸能界で一番交流のある人物だった。仕事の相談事やプライベートでの悩み事も、メンバーではなく全て宮沢に話すほど彼を信頼していた。

 今日も、ミスしたことについて話を聞いてもらいたくて来ていた。その原因を隠さずに全て打ち明け、宮沢は真剣に耳を傾けてくれた。


「最近の賢志くんはずっと調子が悪そうだったから、何かあったんだとは思ってたんだけど。そうだったのか……だから今日の収録は、様子がおかしかったんだな」


 賢志が精神的に不安定であることを知った宮沢は、深刻な事態に神妙な面持ちになる。


「ずっとプレッシャーがあって、僕がなんとかしなきゃならないと、ずっと焦ってました。どうにかして煌たちを止めないと、直接何かされてしまうと思ったから。だからあの件は、仕方がなかったんです。何度も忠告してあげたのに無視をするから。だから……」

「でもだからって、階段から突き落とすことはなかったんじゃないか? 運が悪ければ、煌くんは死んでたんだよ」

「だって! あいつが悪いんですよ!」


 必死な表情の賢志は、煌を「あいつ」などと指して感情を乱し、自分は正当であると賢志は主張する。


「早くやめればいいのにやめないから。東斗の名誉のためってなんだよ。なんで今さら事件を掘り返すんだよ。もう終わったことなんだから、東斗が言ったことなんて無視すればいいのに!」

「賢志くんは、自分のしたことは正しいと思ってるんだ?」

「僕は正しいです。何も間違ったことはしてない。だってこれは、煌やみんなのためなんだ。グループを続けるためなんだ。そのために僕は、仕方なく自分の手を汚した。僕は、みんなのためにやったんだ。だから間違ってない」


 信頼する宮沢が主張する正当性に疑問を抱いても、賢志は間違いを認めない。と言うよりも、自分に対して正当性を認めさせようとしているようにも見える。そんな頑なな賢志に顔を向ける宮沢は、痛々しそうな眼差しだった。


「だけどきみは今、とても苦しそうだ。本当は辛いんじゃないの?」

「そんなことはありません」

「本当にそう? ……能力はないけど、俺には、賢志くんが首を吊る寸前のイメージが見えるよ」


 宮沢のその言葉に、賢志は芯を震わせた。

 能力で見えるビジョンではないから、必ず訪れる未来ではない。だが、長年の付き合いで築いた関係性が宮沢に不安感を抱かせ、来るとは言えない、けれど来ないとも言い切れない未来をイメージさせた。


「我慢しなくて……強がらなくていいんじゃないか。ここには他に誰もいない。だから、いつものように話してよ。俺はいつでも、きみに心の扉を開いているよ」


 一度でも見えてしまったイメージは、宮沢の心に早くも根を張った。早く救ってあげなければ、彼ならその選択肢を選んでしまう。そんな気がした。自分が解決できることではないかもしれないが、抱えているものを吐き出してほしかった。

 賢志は俯いて沈黙した。宮沢には今までずっと世話になり迷惑をかけることもあったが、一番近い頼れる存在だった。だが、また迷惑をかけてしまうのは嫌だった。これ以上関わってほしくなかった。

 けれど、心は求めていた。流れて来る細い木の枝に、一瞬でもいいから縋りたかった。

 賢志はズボンのポケットから、コイントップのシルバーのネックレスを出した。それを見つめると、テーブルに置いた。


「僕は……最初は本当に、仕方がないと思ってました。きっとこうすれば、煌も危険を感じて引くだろうって。彼が気付いてくれるならこうするしかないって、割り切ってやりました。だけどすぐに罪の意識に苛まれて、救いを求めました。『貴方は素晴らしい英断をした。貴方のその行いは間違ってはいない。彼の怪我は、貴方の善行に仇なしたことへの代償だ。この出来事によって彼は自分の過ちに気付き、本来の道へと戻るでしょう。だから安心しなさい。偉大なるマリア(ジャンヌ・マリア)も、貴方の行いを称賛している』と言われて、その言葉のおかげで心はすっきりしました……だけど。流哉や蒼太と顔を合わせると煌にしたことを思い出して、罪の意識が甦った」


 真っ白でひんやりした静かな空間。

 強く押した時の煌の肩の感触と体温。

 落ちる寸前の煌の表情。

 煌が階段を転げ落ちて行く音。

 糸が切れた操り人形のように踊り場で倒れた、煌の姿。

 痛みに堪えながら、階段上の自分を見上げた時の煌の表情。

 その全てを、鮮明に思い出す。


「毎日、夢に見るんです。あの時のことを。何度も、何度も、繰り返し。まるで、僕のしたことを咎めるように……でも現実では、誰も責めないんです。煌も、僕に突き落とされたって言わなくて。正直に言えばいいのに。『やっぱり俺たちは、四人揃ってF.L.Yだな』って、メッセージをくれたんです……それで、やっと気付いたんです。僕は、大切な人に、なんてことをしてしまったんだと……」


 賢志は声を震わせ、涙を浮かべ目を潤ませた。

 賢志は最初から、心配してやめるよう言い続けた。それは仲間のためでもあり、他のもののためでもあった。しかし自分の言葉では止めきれない。だから手を汚す手段を取った。仲間以外のもののために。それが仲間を裏切り傷付けることであっても、それが正義だと信じた。

 だが、頭で考えることと、心で感じることは違った。頭では正義を信じても、仲間を殺しかけた事実は心が堪えられなかった。心は嘘をつけなかった。そのおかげで賢志は、自分も、仲間以外のものも、疑うことができた。

 賢志の心の内を聞けた宮沢は、安堵する表情をした。


「気付けてよかった。そのまま偽りの正義を信じ続けていたら、きみがグループを壊すところだったと思う。でも、きみの信じていたものが全て間違っていた訳じゃない。仲間を思う気持ちやグループ存続を願う気持ちは、緑川くんたちにとっても一番大事なものだ。その同じ気持ちで通じ合っていたから、間違いにも気付けたんだよ」

「でも。合わせる顔がありません。もう一緒に、グループ活動はできない……」


 間違いを犯しこの状況を生み出したのは、全て自分自身。煌から真実を聞いているのならグループ追放、もしくは、責任の全てを押し付けられ事務所を解雇させられると、賢志は思っていた。

 もう自分には、この世界にいる資格はない。「アイドル」など名乗れないと。

 諦めている賢志に、励ますように宮沢は言う。


「そう決めるのは、まだ早いんじゃない?」

「え?」

「罪悪感からそう思うのはわかるけど、何も説明しないままやめたら、せっかく繋がってる気持ちが切れてしまうよ。自分の意志を優先する前に、仲間にきみの誠意を見せなきゃ」


 罪を償う前にやることがあると、宮沢は言った。賢志もそれはわかっているが、恐ろしくてそっちに意識を向けられない。


「……みんなは、僕の話を聞いてくれるでしょうか……煌も」

「くれると思うよ。特に緑川くんは。彼は今、きみのことがわからなくなってるんじゃないかな。だけど、きみを信じて責めなかった。警察に正直に言わなかったのも、理由を聞くまでは咎めたくないと思ったんだろう。それにはきっと、凄く葛藤があったはずだ。だから誠意を持って、本当の賢志くんを晒してみなよ。みっともなくても、カッコ悪くても、受け止めてくれるんじゃないか?」

「……でも。怖いです……」

「大丈夫だよ。だって、賢志くんもいて『F.L.Y』なんでしょ?」


 恐れて踏み出すのをためらう賢志の背中を、宮沢が大きな手で押した。分けてもらった勇気のおかげで少しだけ顔を上げた賢志は、涙を拭った。

 このまま何もなかったかのようには進めない。向き合うのが怖いからと言って避けることもできない。かと言って、立ち止まり続けることも許されない。

 彼に課せられた責任は、彼にしか果たせない。罪を償う場所は、まだ裁判所ではない。

 なんとしてでも賢志を応援したい宮沢は、買ったばかりのサーロインステーキを焼いて出してくれた。後輩のバースデーパーティー用に買ったようだが、後輩よりも賢志の方がかわいいからとサービスしてくれた。その気配りと優しさが、今の賢志の心にとても沁みた。

 二人でステーキを分け合いながら、宮沢は尋ねる。


「少し気になることを言っていい?」

「何ですか?」

「プレッシャーを与えるほどに、何をそこまで焦ってたんだろう。賢志くんたちは、森島くんの事件の真相を探ってただけなんでしょ? もう決着はついたはずなのに」

「事件を掘り返されて、関与が公になるのを避けたいんじゃないかと」

「でも、過剰なプレッシャーを与えるのはよくない。自分たちのことだけ考えて、賢志くんのことは全く意に介さないなんて」

「自分たちの正義を、信じているからじゃないですかね」


 それは、賢志にもよく理解できる心理だった。俯瞰ができる今は、その信じる正義が本当の正義とは限らないことを知っている。賢志が誤って守ろうとしたものは、それに気付いていない。恐らく誰かが言わなければ、その存在がなくなるまで気付かない……いや。もしかしたら、なくなってもなお正義を信じるだろう。


「正義と悪は紙一重、か」ふと宮沢が呟いた。

「え?」

「いや。なんか、そんな言葉があったような気がして」

「紙一重……確かに、正義と悪の線引きって、単純なようでズレているのかもしれないですね」


 自分が信じている正義は、他の誰かにとっては正義ではない。正義と括られているものははっきりとしているようで、その境界線は人によって違い、そのせいで境界線は絡まった糸のように曖昧だ。

 その曖昧な認識はいつの間にか、どこかの誰かによって勝手な線引きをされてしまっている。その、どこの誰かが引いた勝手な線引きは、他の誰かにとっては正しい線引きではない。

 この世の正義と悪の境界線は、本当は全て曖昧なのだ。




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