迷光 ― 2
面倒ごとなど、心当たりが多すぎて、どれのことだかさっぱりだ
午前中に降りしきった雨は、まるで嘘だと言うかのような、晴れ晴れとした青が空に広がっていた。
雲藍の東部に位置する華都には区外という表現がある。これは基礎自治体の有しておらず、基本的なインフラ整備もままならない、退廃地区のことを指す。ただし、そこで生活する人間が土地と同じような貧しい状況に置かれているかといえば、必ずしもそうであるとは限らない。
そこは雲藍警察の目が届きにくく、薬物密輸や兵器密造といった犯罪の温床にもなっていることに加えて、人の多さから新たなビジネスを始める若者もこの区外へたびたび足を運んでいた。無秩序ゆえの混沌。それはビルの上に増築される家、ビルとビルの隙間に入り込む部屋、この狭い通りを歩けば、誰もがすぐに理解することだろう。
イトは壊れた楽器ケースと穴の開いた羽織を片手に、区外の入り組んだ道を右へ左へと進んでいく。彼にとってここは、それなりに慣れ親しんだ場所だ。道や景色は生き物のように変わっていくが、大体の方角がわかっていれば、目的地の方から顔を出してくれるものだ。イトが通りを歩いていたところで、壁の窓から赤髪の少女が顔を出した。その顔は炭のようなものでやや汚れ、あどけなさと無邪気さが残っていた。
「やっほー、イト。久しぶりだねぇ。しばらく見なかったけど、全然変わってなくて安心したよ。今までどこに行ってたの? 試して欲しい簡易雨器がたくさんあるんだから」
「久しぶりだな、ストラヴィア。キミはすこし、背が伸びたか」
イトは窓のすぐ隣にある扉から中へと入った。鉄と熱の匂いが鼻につく。区外で随一の技術力を持つ開発者ストラヴィアの工房は、両隣二軒を買い取って連結させ、壁を抜いたものだ。ゆえにその外見以上に内装は広く、空間は地下まで広がっている。
「ふふん、私、キミと最後に会ってから身長が十センチも伸びたんだよ。この工廠も見違えたほどにアップデートしたしね。まぁ、今はちょっと散らかってるけど。あ、お茶でも淹れようか?」
「いや、悪いがそれはまた今度だ。韵花からの依頼を受けている途中で、あまり時間に余裕がない」
それを聞いたストラヴィアはすこし不満そうな顔をした。見かねたイトはそのまま言葉を続ける。
「それでストラヴィア、このケースを修理してほしい、外れた蝶番やへこみはもちろん、内面の機能の方も。借り物を壊してしまった」
「え? うん。そりゃあもちろん。任せてよ。でもそういうのはキミの友人の方が得意だと思うけど。ほら、今は韵花のそばの研究室に引きこもってる——」
「ああ、その友人から借りていたんだ」
「あ、じゃあもしかして、まだ彼女には会っていないんだ。へー、どうやら。雲藍に戻ってから一番最初に出会った知り合いは私みたいだね。おかえり、イト」
思わぬ言葉にイトは目を丸くする。それから少しかしこまってゆっくりと微笑んだ。身長のことはあまり実感がわかないが、自分が雲藍から離れていた三年の間に、この区外の様子はずいぶんと様変わりしていた。古きは消えつつ、新しい人や物が増えていく。そしてそれと同じように、自分が知る幼かった彼女はずいぶんと成長したようだ。
「彼女の話にひと段落ついたら、またここに顔を出す」
「オッケー。それまでには直しておくよ」
ふいに、イトの携帯電話が震えていることに気づいた。自分の連絡先を知っている人間は決して多くない。
「お茶も用意しておくから。楽しいお土産話も期待して待ってるからね」
「あぁ、そうだな」
イトは彼女に別れを告げて、工房から出るなり、携帯を取り出した。今日はやけに忙しい日だ、とイトは考えた。三年ぶりであっても、その凛とした、しかしどこか危うげかつ怪しげな声音はまったく変わらない。それに恐怖心を覚える者も居るというが、すくなくともイトはその内のひとりではなかった。今はむしろ、懐かしささえ覚える。
「やぁ、イト。久しぶりだね」
「韵花、か。まさかこうして直接連絡してくるとは思わなかった」
イトは携帯電話を耳にあてつつ、入り組んだ道のいっとう人気のない場所へと移動する。歪な屋根が暗い影を落としている。
「本来ならば、そうなることはなかったんだけどね。どうやら色々と面倒ごとに巻き込まれているんようじゃないか」
彼女の言葉を聞いて、不意にイトは周囲を見渡した。自分と彼女の間にある信頼関係を疑うわけではない。彼女は次善の策をひとつふたつと用意するタイプの人間だ。もしもに備えて人員を自分のそばにつけ、監視させていても不思議ではない。
「面倒ごと?」
周囲にそれらしい人間はいない。この入り組んだ区外の街並みを把握することは決して容易なことではないから、尾行されていることはないだろう、とイトは判断した。少なくとも自分が知っている限りで、彼女の知り合いにそのような人物はいないはずだ。
「面倒ごとなど、心当たりが多すぎて、どれのことだかさっぱりだ。見方を変えれば、キミからの頼まれ事を抱えているこの状況もそのひとつと表現することができるだろう」
「冗談はよせ。ホズミ スミレに逃げられただろ、キミ」
「ちっ。あぁ、いや、俺が依頼されたのは彼女の保護と救出だ、時雨から安全に引き戻した時点で俺の仕事は終わりだよ、韵花。まさかその後の事件の後処理まで任されるとは思わなかった」
「彼女が大学内で行方不明者扱いになっていたことくらい、キミの想像も及ばなかったとは言わせないよ。そして、私が言った保護にはその仕事も含まれるのも同様にね」
流石に彼女相手に言いくるめるのは難しいか、とイトは心のうちで軽いため息を吐いた。時雨からホズミを救出した直後、彼は次の指示を仰ぐために韵花へ連絡を入れようとした。彼女を見失ったのはその時のことだ。おそらく、異性の外国人ということもあって、彼女からあまり信用されていなかったのだろう。
とはいえ、彼が彼女の逃亡を然程問題と思わなかったのも事実だ。少なくとも時雨とは違ってこの法治国家の下で、突然、そして人知れず殺されることはないだろう。大学の教授や警察に囲まれることなど、雨鬼に襲われることと比較すれば可愛いものだ。
「じゃあ、彼女を探し出して捕まえて、キミのところに連れて行けばいいか?」
「いいや、イト。彼女の迎えはこちらが行こう。キミはそのまま、私のところへ来てくれ。話し下手で放任主義なキミの代わりに、色々と教えてあげなければいけないことが山積しているからね」
「わかった。だが韵花、ひとつ訊いてもいいか。なぜ、あの女生徒を救出するように自分へ依頼したんだ? キミの部下は多く居る。時雨に閉じ込められて亡くなる者も同様にな。それを知らないキミではないだろう」
不意に、長い沈黙が訪れた。すくなくとも韵花はホズミという女生徒を利用して、何かを企んでいるようだ。しかし一方で、イトは彼女のことを、どこにでもいるような少女としか考えられなかった。
「彼女は、キミや彼女自身が想像するよりもずっと特別かつ複雑な境遇に置かれているんだよ」
「どういう意味だ?」
「それはいずれわかるよ、イト。とにかく今は、私の指示にしたがってくれれば、それでいい」
そういうと彼女は一方的に自分との連絡を切った。イトは深いため息を吐いて携帯をポケットにしまいこんだ。幸い、ここから彼女の事務所までは歩いていける距離だった。道は複雑だが、方向さえ間違えなければ、問題などない。彼女の依頼についても深く考える必要はない。この都市で、それなりの生活環境さえ保障してもらえればその中身などどうでもいい。彼女が自分にそれを望んでいるとは思えないが。イトはそう考えて、歩みを進めた。




