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Rain Ghost  作者: 沙凪
第一章「墸突妄信」
11/13

迷光 ― 4

そうかしこまらずに、ユンファでいいよ

 韵花(ユンファ)という女性はホズミに手を差し伸べた。彼女は微笑んでこそいるが、その琥珀色の目の奥にはまったく笑いがないことをホズミは理解した。彼女もまた、学長と同じ側なのだ。(はらわた)にはどす黒い純粋さを秘めていて、自分はただ調理されるのを待つ俎上の魚のようなものなのだと。

 自分の大家にはこの女のような知り合いはいない、助けてくれ、と言えば学長は実際そのとおりにするだろうという確信がホズミにはあった、しかし一方で学長の真の狙いは、自分を失踪事件の犯人に仕立て上げることだと気づいた今、ここにいるわけにはいかなかった。


 彼女はおずおずと差し伸べられた手を取って、椅子から立ち上がった。韵花(ユンファ)は妖しく微笑むと、彼女の手を取って入り口までまっすぐ進んだ。それからドアの手すりに手をかけてから、ひとつ思い出したようにして、学長の方を振り向いた。彼は微笑みを携えて、ふたりの後ろ姿を見守っていたところだった。


「ああ、そうだ。学長殿、ひとつ伝え忘れていた」

韵花(ユンファ)嬢。なんですかな?」

「貴方の後ろに誰が付いたのか、『(エン)』はわざわざ詮索するつもりは無いが、学生を巻き込んで何かをするつもりなら容赦することはできない。雲藍市民は遍く皆、我々の贔屓と言えるのだからね」

「肝に銘じておきましょう」


 学長が微苦笑して答えた。そこには悪意の欠片も見せない、人の良さそうな笑顔があった。ホズミは、韵花(ユンファ)がきっとどのような言葉をかけたとしても、学長は同じような表情、態度でそれに応えただろう、という確信めいた予感があった。そしてまるでそれを裏付けるように、韵花(ユンファ)は扉を閉めるなり、小さく舌打ちし「古狸め」と怨みのように呟いた。

 彼女はそのまま有無を言わさずにホズミを連れて学内を歩いた。十数分ほどの間に、二人の行先を止める者はいなかった。構内で雑談をしている生徒について聞き耳を立ててみれば、彼らの間では、どうやら学生が行方不明になっていることは有名だが、具体的に()()()()()()()()()()()()についてはあやふやで、情報が錯綜しているようだった。だから、行方不明者だった人間がすぐそばを横切っても誰も気にも止めない。

 

 そもそもホズミは、学生の所在がわからなくなることが、警備課が血相を変えて構内を駆け回るほどの、特段珍しいことのようには考えられなかった。もちろん事件は事件なのだが、酒に酔って国外まで彷徨うもの、芸術の真理を見たと叫んで橋桁の下に居を構えだすもの、メガベンチャー代表に突然商才を見出され拉致されるもの、インターネットの世界に逃げ込み部屋から一歩も出なくなるもの——雲藍大学生の奇人変人エピソードを数えればキリがないし、すくなくとも大学側がそんな彼らに強い指導や捜索を行ったという話は聞いていない。

 自分やリンを含めた行方不明者たちと、奇人変人のバカ行方不明者どもを分ける、大きな要素が何かあるはずだ。何か、これまでのことで見落としはなかっただろうか。ホズミは記憶の糸を辿ろうと務めるが、いかんせんうまくいかない。実のところ、彼女には時雨に迷い込む直前の記憶がおぼろげでしかなかったのだ。その当時、どこに居たのかすら定かではない。


「あの、韵花(ユンファ)嬢……」

「そうかしこまらずに、ユンファでいいよ。私のことをそう呼ぶのは私と親しくする気のない者だけだからね」

「ええと、ユンファさん。どうして私を助けてくれたんですか?」

「助けた? 私は単なる陳おばさんの代理の送迎にすぎないよ。ああ、それとついでに、学長とも知り合いのね」


 構内をしばらく歩いて、裏門の駐車場に出た。ユンファは服のポケットから車の電子錠を取り出して操作すると、暗い赤色の車のライトが二度ほど瞬いた。その流線的なデザインから、車に疎いホズミにも、自分には関わることが滅多にないだろう高級車の類だとわかった。彼女はホズミに助手席に乗るように勧めた。白いシートにはシミ一つ見当たらず、名前の知らぬ心地よい花の香りに包まれている。あの学長室と駄菓子のように、自分とこの車がひどく不釣り合いに見えて、思わず乗車を躊躇ってしまう。そんな悩むホズミの後ろから、ユンファは語りかけた。


「それに、建前を抜きにしたところでも、()()()というのはキミの錯誤に過ぎないよ。私は時雨に巻き込まれた人間を全員救うほどの慈愛に満ちても理想に目眩んでもいない。キミはキミ自身が思う以上に価値がある、だからイトを向かわせた。それだけだ」


 首の裏に鈍い痛みを覚えると、ホズミの視界は急にぼやけ、平衡感覚を失った。薄れゆく意識の中で、たびたび会話に現れていた「(エン)」について思い出した。イトから貰ったナイフのケースに刻印された炎のマークも。炎とは雲藍の物流を牛耳るグループ企業の総称だ————ユンファが倒れる彼女を抱き抱える頃には、すでに彼女の思考は途切れ、無意識の海に投げ出されていた。


「キミは決して愚かではないね。ただ、いくら賢しさをもったところで、大きな陰謀の渦や権力の闘争の前では為す術がないものだよ。まぁ、イトも、それをよく理解しているとはいえないが——」


 ユンファは彼女の横顔をよく観察して、それから助手席に、まるで貨物のように無理やり押し込んだ。その顔に、まるで昔の自分を見ているかのような気分にさせられたからだ。

 どんな儁秀(しゅんしゅう)も、時代や古いしきたり、つまるところ海や混沌、闇に喩えられるものに呑まれて見えなくなってしまうものだ。


「ゆえに、私たちは炎を灯すのさ。そして私もキミも、その燃料に過ぎない。親切心や正義感ではなく打算と抵抗による行動だ。そんな感情はもうとうに擦り切らして、無くしてしまったんだよ」


 ユンファはそう呟くと、車のエンジンをかけた。

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