始まりと依頼
少女はコーヒーをすすっていた。
手元にはカバーがかかった文庫本が置いてある。だいぶ使い込まれたのであろう、カバーの
端が少しボロくなっていた。
この辺りでは珍しい紺一色で統一された制服を着ており、鬱陶しかったのかブレザーは脱いであった。
誰かを待っているのだろう。
4人がけのテーブルは少女のほか誰もおらず、カバンとブレザーが隣の席を占拠していた。
時折、時計を眺めては店の入り口に目を向けていたが、一向に人が来る気配はない。
まだ新しいスマートフォンを覗いても連絡ひとつ入っていない。
無言でそれをテーブルの上に伏せ、もう一度カップに口をつけた。
すでにぬるくなっていたコーヒーを飲み切り、もう一度店の入り口に目を向ける。
やはり人は来ない。
少女は諦めたのか何か吹っ切れたのか、文庫本を手に取り挟まっていた栞を抜いて読み始めた。
完全に本の世界に入り込んだようで、先ほどまでとは打って変わり入り口に目を向けることもしない。
入店した高校生が真っ直ぐに少女のもとに行くも、そのことにすら気づいていないようだった。
高校生は待たせた罪悪感と少女への呆れが混じった複雑な表情になった。
一つため息をついて、テーブルの上に置いてあった漆塗りの栞を少女が今ちょうど読んでいるページにのせた。
そこでようやく少女は顔をあげ、微笑んだ。
「遅かったね由乃。おかげで読書が捗ったよ」
「帰ろうとしたら先生に雑用頼まれたあげく、諦めの悪い部活の勧誘に捕まったの。滅べばいいのに」
完璧かつ綺麗な笑顔で言い切った。
周辺の温度が幾分か下がったような錯覚を抱いた。
由乃はすこぶる機嫌が悪いらしい。
腰まであるよく手入れされた黒い髪、長いまつげ、ふっくらとした桃色の唇。
着物を着せて大人しくさせたら深窓のお嬢様。いわゆる大和撫子に見えるだろう。
常時なら可愛いと評されるマイペースな少女なのだが、一度琴線に触れれば、とても綺麗な笑顔で見事に急所を狙った毒舌が降ってくる。
まさに触らぬ神に祟りなし。
しかし、少女は気にも留めていなかった。
「お疲れ様。で、それはいいから報告」
「はぁい。ミスなし、被害なし、怪我なし。でこっちが交通費」
「了解。じゃあ後はこっちでやっとく」
随分と怠そうな報告だ。
しかも詳細な報告ではなく、被害報告と交通費の請求である。
「いつ頃もらえる?」
「予定通りなら来月」
「じゃあ、もっと先ね」
由乃の唐突な発言に少女が眉をひそめた。
何を持ってきた、と目が語っている。
由乃が一通の手紙をテーブルの上に置いた。
藤色の和紙の手触りの良い封筒。しかもいい感じに分厚い。
少女は封筒をひっくり返したり光に翳すと、もう一度由乃に向き直った。
由乃は何かを含んだ笑みを返した。
「見れば分かるよ」
嫌な予感しかしない。
少女はもう一度封筒をひっくり返す。
それからようやく封筒を開け、中身をテーブルの上に音を立てながらばら撒いた。
出てきたのは三枚の写真と一枚の便箋。
写真を表にして並べると少女の顔が険しくなった。
「一般的に見るなら人外の仕業。しかも相当に面倒なタイプだ」
「でしょうね。あたしときーちゃんも同じ意見」
由乃は頬杖をつきながら返した。
ついでのように折り畳まれていた便箋を広げて写真の上に乗っけた。
少女は大人しく便箋を手に取り内容を一読した。
すると、険しい表情から面倒くさいと言いたげな表情に変わった。
「…これ誰からか見当ついてんの?」
「城谷箏奈。アンタのとこの一年」
すでに差出人を特定していたらしい。
よくもまあ、名前一つ書かれていない手紙から差出人を見つけ出せたものだ。
然しもの少女も舌を巻いた。
「相変わらずだな」
「別に。使えるものがあれば使うだけよ」
「で、お姫サマは何をお望みで?」
「話を聞いてきて。アンタならできるでしょ?弥生」
弥生は微笑を浮かべた。
由乃は嫌な予感がした。
「できるよ。何せ彼女、私のお友達だもの」
由乃は苦虫を噛み潰したような顔になった。
名前を出した時、一瞬動きを止めたように見えたのは錯覚ではなかったらしい。
果たして相変わらずなのはどちらなのだろうか。
由乃はため息を吐き、もう一度弥生を見た。
少し目を離した隙に弥生は思考の海へと沈んでいた。
由乃は諦め、丸投げすることにした。
「とにかく、よろしくね」
「了解」
口元だけが笑っていた。