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ほんのり淡い、『ニューヨーク』

作者: タコアシ

男は、今宵も愛する街の夜警の任に就く・・・・・・。


先日、私はお気に入りの場所を見つけた。

地元のバーだ。

だが、そこは私にとってもはや特別な憩いの場となっている為、

おいそれと他人に教える訳にはいかない。

名前も場所もだ。


読者諸君には私の心中を察してほしいし、そういったお気に入りの

場所を自ら探す楽しみをお勧めしたいからでもある。


その店との出会いもまた偶然だった。

私はこの町に住んで5年目。

学生時代も含めておよそ8年の、企業で言えば

中間管理職になるかならないかぐらいの住人である。

私は自分の居住エリアでもある東口界隈にはもはや知らぬ

場所はないというぐらいに絶対的な自信があった。


しかし、このバーは私の怪しいものを一歩たりとも近付けない

蛇眼のような鋭い眼光と、匂いに対して異常なほどに興奮し、

吠え立てる番犬のような果てしない嗅覚と森の番人とも称され、

狙った獲物に音もなく近付き、確実に仕留めて抹殺するフクロウのような

およそ進入不可能とも思える警戒必至の監視網を潜り抜けて、

私の住まいからわずか100メートルという至近距離で

1年にも渡ってひっそりと営業を続けていたのだ。

この私が町を出て優れたバーをそれこそハンターのワシのように

血眼になって探しているというのにだ。


言い訳じゃないが、これは私という人間が決して無能であったのではない。

敵もさる者。かなりやり手の侵入者であった証拠だ。

だが所詮、私にはかなわない。

優れたお店は私の感覚が必ずキャッチして見つけ出してしまうから。


私はその晩、散歩と称して夜警の任に就いていた。

ジーンズの尻ポケットには財布と読みかけの文庫本を忍ばせ、

コンビニで調達した買い物袋をぶら下げて、月夜の下で一人、

妄想の世界を悠然と歩いていた。


日常と変わらない風景において、毎晩違うのは夜空にかかる月と雲、

風と気温とそれから時折すれ違う人々である。

建物はほぼ変わることなく存在し、この町を歩き尽くした私を退屈させ、

かつ安堵の気分に浸らせる。

町が平和に保たれているということであり、従ってその日の私の任務も

順調に、つつがなく遂行されるはずだった。


緩やかに伸びた坂をやや前傾になりながら進んで行く。

営業を終えた店の看板たちが寂しそうに表に取り残されている。

その先で深夜営業をしているラーメン屋から匂ってくる濃厚な

スープの風が鼻孔を柔らかく刺激しながら胃の隙間へと入り込む。

思わずドアを開けて暖簾をくぐってしまいたくなったが、任務の途中

だからと辛うじてこらえてやり過ごした。


そしていつものように角を曲がって坂を下って行こうとした時、

私はふと、いつもと別の道に足を踏み入れた。

理由はない。ただの気まぐれだったのだろう。

しかし、こうした気まぐれな行動が人生を左右する場合が多々ある。

現にその後に私は安らぎの場所を見つけることができたのだから、

この時の選択は間違いではなかったのだと思う。


路地の角に建物が古い、小さな居酒屋があった。

店名は覚えていないが、センスもないし、興味も湧いてこない。

だから敢えて記憶する必要もなくそのまま通り過ぎて「異常なし」と

黙殺すればいいほどの存在だったのだが・・・。


「あやしい」


私は立ち止まって呟いた。

視線の先にはレンガ造りの壁と木製の扉と階段、そして黒くて

細いメニュースタンドがあった。それらは居酒屋のではない。

建物の端には独特なロゴの看板が目立たない道路標識のように

見落としてしまいそうなほど小さく掲げられていた。


初めて目にする店の出現に私は驚き、興味を抱いた。

建物の構造として一階部分が二つに分かれていて、

三分の二が居酒屋で残りの部分に件の店が入っていた。

二つのバランスが可笑しく珍妙でさえあるが、言い換えれば

それは居酒屋が引き立て役のようであって、人目を惹く演出

なのだと理解した。


私はメニューを見たあと、階段を上って扉の前に立った。

店内は見えない。しかし何やら愉しげな音楽が扉の向こうから

少しだけ聞こえてきた。扉の前で素早く店内を想像する。

ちょっとした緊張感も湧いて来る。

扉を開けてしまえば、もう後へは引き返せない。

私は任務をすっかり忘れていた。

それよりも好奇心による興奮を沈めることが必要だった。


身を固くした私は、文学少女アンネ・フランクの話を思い出した。

第二次世界大戦の最中、ドイツ系ユダヤ人だった彼女たち家族は

ナチスの迫害を逃れるために、オランダのアムステルダムにあった

レンガ造りの家に移住し、本棚に細工を施して隠れ部屋を作り、

他の家族も含め、八人で二年もの間、そこに隠れ住んだ。


彼女は暗闇に篭りながら、日記をしたため始める。

戦後、唯一生き延びた彼女の父、オットー・フランクによって

出版された『アンネ・フランクの日記』が世界中で空前のヒットとなり、

生前彼女が夢見ていた作家になるという夢が実現したのだ。

だが、彼女たちは父だけを残して帰らなかった。

オーストリア人でナチス親衛隊将校である、ジルバーバウアー曹長

率いるメンバーたちによって発見され、拘束された後、別々の収容所

へと送られて行ったからだ。


もしもこのバーが、同じように狭い空間でひっそりと隠れるように

営業していたとして理由があるのなら何であろうか。

果たして私が入っていいのだろうか。

ジルバーバウアーのように望まれない客人になりはしないだろうかと

いう一抹の不安がよぎった。


しかし、ここまで来て引き返すというのも気が引ける。

あやしいと捉えたおのれの直感を信じて踏み出そうではないかと

勇気を鼓舞しながら、少しだけ重い扉をゆっくりと押し開けていった。


入り口から店内へと影が伸びる。

私が足を一歩踏み入れたのを合図に、会話は中断され、

そこにいる人々の視線が一様にこちらに注がれた。

品評会さながらの値踏みと識別作業が一瞬のうちに行われる。

一見の場合、その店の雰囲気を感じ取る緊張感よりも

こうした洗礼の儀式の方がひどく神経を使う。


私は居合わせる客よりもまずマスターを見る。

そしてグラスやボトルが並べられたバックバーを見て、

それからカウンターと椅子、続いて店内の内装や装飾品という

順番で一通り眺めたあと、必ずカウンター席に向かう。

幸いなことにここにはカウンター席しかなかった。


先客である人々が、 笑顔だが、無言で会釈する。

バーでは、無駄口や余計な尋問や詮索は無粋である。


先客達に先を越されたということは、

彼らは他所の街からの流れ者なのか、この街の住人なのか。


どちらにしても私よりも嗅覚が鋭い人々なのだろう。


10席しかないブビンガの一枚板のカウンターの真ん中の席に腰掛ける。

照明の単サスが席ごとにカウンターの上に丸いふちを作っている。

バックバーにずらりと並ぶ300本あまりのウィスキーボトルや

ブランデーたちが、きらきらと輝きを放ちながら誘惑する。

それはまるでしっとりとしたファッションに身を包んだ美しい女たちが

ステージの上でさりげなくアピールして、一緒に飲みませんかと

誘っているかのようだ。


そんな彼女たちをうっとりと眺めているとマスターが静かに近付き、

『いらっしゃいませ』とおしぼりを渡してくれる。

手にした途端、微かに甘い匂いがただよう。

カクテル好きの私にはたまらない匂いだ。

マスターの自然で上品な佇まいと清潔感溢れる服装が、

上質なバーの何よりの証拠。

期待値がぐんぐんと上昇していく。


ここからは客とマスターとの駆け引きである。

相手の呼吸とタイミングを見ながら、『何になさいますか?』と

質問を投げ掛けながら、こちらの様子を窺う。

記念すべき一杯目である。


それによってその客がどういうタイプか分かる。

オーソドックスなカクテルから入るのが、バーの初心者かベテラン。

こだわりのカクテルから入るのが、カクテル好き。

シャンパンやワインの赤を頼む人は、男ならきざなロマンチスト、

女なら寂しがり屋か本物のセレブかそれに憧れる人。

いきなりウィスキーとくる人は、相当な酒好きか、ウィスキー初心者。

ビールから入る人はビール党とざっとこんな感じの系統に分かれる。

その他に客の服装や装飾品、話し方や態度や表情といったものを

総合的に判断しつつ、会話を選びながら、好みにあったお酒を

勧めていくという流れになる。


特に初心者は詳しくないので、色々と説明しなくてはいけない。

逆にお酒に詳しい人が客の場合は、マスターはその知識を試されるから

膨大な数のお酒の知識をそれこそ完璧にマスターしていなければならない。

酒の種類と歴史、蒸留方法、蒸留所と出身、味の説明、他の店の情報など。

それが基本であり、さらに美味しく作る確かな技術と上品なセンス、

会話力と気遣いなどが要求され、そこに本人の人柄がいいと客が付く。


「ジャックローズで」


私は厳かに始まりを宣言した。


「かしこまりました」


マスターが静かにカクテルの準備を始める。

アップルブランデーのカルヴァドスとライムジュース、

グレナデンシロップのボトルを目の前のカウンターに並べ、

それからきんきんに冷えたショートグラスを取り出す。

続いて先ほどの材料を量りながら、シェーカーへと注ぎ、

バースプーンでかき混ぜて味見をし、バランスを見る。


一連の動作には無駄がなく、観ていて非常に気持ちがいい仕草である。

姿勢もいいし、音の立て方も静かで、流れるような動きには品格さえ感じられる。

大きくてしなやかな手はピアニストのような繊細さで出来ているのかと

思われるほど美しく、丁寧に手入れされた爪が、清潔感を深く印象づける。

爪の形はきれいなうりざね型で、指先にはささくれ一つない。


味見を終えるとマスターは冷蔵庫から大きな氷を取り出し、包丁で削り始めた。

私はほぉと思い、少し姿勢を前にしてカウンターの中を覗き込んだ。

包丁で氷を削る作業というのは、簡単そうに見えて実は意外と難しい。

筋を見極めた上で、手早く切らなければ、形もきれいに出来ないし、

手に氷がくっついた上に体温でみるみる溶けていくからだ。

必要な分量を切り取ると、切り取った氷をアイスピックでちょうどいい

大きさに整える。そしてシェーカーに氷を移すと、最大の見せ場へと移る。

シェーカーのふたを閉じ、姿勢をやや横向きにすると、

リズミカルに腕を振り出した。


ハードシェイク。

心臓の鼓動よりも早く脈打つその音は、時を支配し、店内の視線を

惹きつける。中にはそっと目を閉じて、音を聴き入っている者もいる。

雰囲気を醸し出すジャズもこの時ばかりは控えめだ。


私は一瞬も目を離さない。だが、マスターは少しも動じない。

経験と技術に裏打ちされた自信が全身から静かに漲っている。

やがてグラスへとゆっくりと注ぎ込み、慎重にグラスを持ちながら、

コースターの上へ置いた。完成である。


「ジャックローズでございます」


私は思わずにやりとした。

こことは長い付き合いになるだろうと思いながら、

グラスに手を伸ばした。


カルヴァドスとグレナデンの混じり合った赤とピンクの中間色。

それにピリッと匂い立つライムの香り。

私はグラスの端にくちづけをすると慈しむように少量を口に含んだ。

甘美とも言える上品な甘さを残して、彼女は通り過ぎた。

間違いない。これこそが正真正銘のジャックローズ。

魅力的な女性を思わせるカクテル。憧れの女性。


私がカクテルに恋していることをマスターはそれとなく気付いている。

気付いていてなお、そっとしておいてくれる。

余韻を愉しみ、ようやく店の雰囲気に溶け込んだ頃、

マスターがゆっくりと話し掛けてきた。

三十代前半の二枚目のマスターが女性に人気があるのは、

どこへ行っても変わらない。

現にこの店にも、女性の一人客が何人か来ていた。

女性が一人でバーに来るというのはそれなりの理由がある。

そしてマスターもその気持ちを察していて、付かず離れずの距離で

厭きさせず、自由でいさせる。


基本的に男性客は女性客に話し掛けてはいけない。

海外では別なのだろうが、日本ではそれはダメだ。

少なくともマスターとの会話の流れで自然に話し掛ける程度だ。

それ以上、話し込むとお互いに地が出る。

バーは普段の自分とは違う一面を見せる社交の場。

いわば仮面舞踏会。そこで相手の仮面を取って素顔を覗き込む

という行為は失礼にあたる。


一方、マスターは会の主催者である。

だから彼には会話の自由が許されている。

だが、その会話も相手に不快な気分をさせたら終わりで、

次からはもう姿を見せないだろう。

しかし、客の素性も知らないようでは主催者とは言えない。

その辺の会話のやりとりもバーにとっては重要な要素の一つなのだ。


私はマスターと愉しい会話をした。

それはまだお互い探り合いの会話でしかなかったものの、充分満足だった。

人見知りな私にとっては、ちょうどいい付き合い方だ。

それよりもと、店内の内装やバックバーや音楽へと興味を移し、

カクテルを飲み干すと、次の品をオーダーする。


モヒート、サイドカー、マンハッタン、マティーニのカクテル。

ウィスキーはハイランドパークと、シングルトン、オールドパー。

私は一つ一つの飲み物をじっくりと愉しんだ。

シガーにも手を伸ばしかけたが、それは止めた。

シガーは特別な時にしか吸わない。

自分で決めたルールである。

確かにこのバーに出会えたことは特別だった。

しかしそれでもなお、今日ここで吸うのは違うと感じた。

いずれ吸うことになるだろう。

その日を愉しみに取って置くのも悪くない。


私は時計を見た。深夜2時を過ぎている。

丑三つ時だ。すっかり任務も忘れて椅子を暖めている。

いけない。もしこのまま酔いつぶれて寝てしまったら醜態だ。

寝て起きたら、自分はどこか知らない場所の路上で寝ていて、

ふと確かめると財布がない。二日酔いで痺れる頭を抱えながら

何とか歩き出し、バーの前にたどり着くと、閉店の看板が掛けてあり、

昨夜の出来事がすべて夢か幻か、真相が朝靄の中へと消えていくのだろう。


私はその日最後の一杯をオーダーした。


カクテル『ニューヨーク』。


私はマスターの手元を飽くことなく眺めながら、

まだ見ぬ世界の大都会ニューヨークの街を想像した。

黄金色に輝くマンハッタンでもなく、カポネが君臨した

シカゴの町並みでもなく、サンフランシスコのような

陽気さでもない。巨大なビルが無数に立ち並ぶ摩天楼。

バベルの塔の再現か、神をも恐れぬこの街の巨大化は

あやしい危険さを帯びている。

成功と失敗が日夜繰り返される夢の大都市。


東京とは違う雰囲気を漂わせ、生粋のニューヨーカーたちは

こぞってヤンキーススタジアムへとなだれ込む。

ユニフォームとキャップを被り、ポップコーンとコーラを片手に

ヤンキースを応援し、7回表が終わると観客は全員立ち上って、

『私を野球場へ連れてって』を大合唱する。

試合が終わるとある者はバーへ行き、カクテルニューヨークを

飲みながら仲間達と祝杯を挙げるのだ。


私はそんな空想をいつまでも愉しみながら、ほんのりと淡い

カクテル『ニューヨーク』を片手に微笑んだ。

店を出るとマスターが店先で見送ってくれた。


今宵の夜警はもう終わりだ。

こんな幸せな夜に、この街を危険に晒す事件など起こりようはずがない。

このまま、真っ直ぐ家に帰って寝ることにしよう。


ほろ酔いになりながら、見上げた空は満天の星空が月と共に

私の行く道筋をそっと照らしながら、静かに笑っていた。


                    <了>


(注)この作品はタコアシのものです。

  不正な転載や盗作、並びに違法行為に

  なることは固く禁じさせて頂きます。





こんばんは、タコアシです。

最後までお付き合い下さり、

ありがとうございます。


今回は、バーを舞台にした短編物語。

タコアシもバーが大好きで時々訪れますが、

特別な日に愛する妻と恋人時代から

デートコースの一つとして重宝し、

カクテルやお酒を楽しみ、シガーも嗜みました。


素敵なバーは、『席に座る』ただそれだけで贅沢な時間の始まり。

バーの良いところは、お酒が飲めない人にも飲めるノンアルコールカクテルがあり、

そういった人も同じように贅沢な時間が楽しめるということ。

皆さんも、そんな素敵なバーへ是非とも足を運んでみてはいかがでしょうか?

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