鬼涙
力こそ、正義だった。肉体を鍛え上げ、強さを追い求める。強い者が旨いものを食い、部族を従える権力を持つ。肉を食らい酒を呑み、そして力をつける。単純な法則が、その集落にはあった。
戦争を、たくさんした。他の部族との土地争いや、食料とするため様々な種族とも戦った。人間やエルフ、ドワーフといったどの種族よりも、優れた肉体を持っている。負けたことなど、一度もなかった。
他種族は恐れと嫌悪をこめて、この部族を鬼、もしくはオーガと呼んだ。遺伝的に巨大で力も強く、溢れる闘争本能は共存を決して許しはしない。やがてオーガたちは、全ての周辺種族を平らげ、楽園を作り上げた。
楽園をおさめるのは、部族最強の力を持つオーガである。戦争では常に先陣を切り、相手の咽喉元に食らいつき、砕いてゆく。邪魔者となれば、同種のオーガを食らうことも厭わなかった。
楽園の王者が、草原を駆けてゆく。見上げるほどの巨体に釣り合った長い脚と凄まじいパワーは、そこらの馬など及びもしないほどの速度を叩きだす。振り上げる棍棒は、瞬きすら追いつかないほどの速度で振り下ろされ、元の場所に戻っていく。引き裂かれた空気が、鋭い音をたてた。王者の前に残るのは、哀れな大鹿の死骸であった。重い一撃が、頭部をツノごと破壊していた。
王者は、獲物の後ろ足を掴みあげて口に放り込んだ。蹄や骨など、かみ砕くのになんの苦労もいらない。がりごりと骨の砕ける音をたてて、大鹿はあっという間に王者の腹におさまった。
「グ、ゴオ!」
王者が低く吠えて、前方の新たな獲物を棍棒の先で指し示す。足音荒く追いついてきた小柄なオーガが、もう一匹の大鹿へ向かって駆けてゆく。王者はそれを、満足そうに眺めていた。だが、その表情はやがて、不快なものへ変わる。大鹿がツノを立てて、小柄なオーガに反撃をしたのだ。胸を突かれたオーガが、尻餅をつく。その隙に、大鹿は背を向けて疾走し始めていた。
「オオアアアア!」
王者が咆哮をあげて、大鹿に追いすがる。そのまま追いつくと、王者の大きな手が大鹿の首を掴み、握り潰した。ぐしゃり、と鈍い音とともに、大鹿はその身を残骸へと変えた。
残骸を手にぶら下げたまま、王者は小柄なオーガへ歩み寄っていく。立ち直った小柄なオーガは、その姿を見て平伏した。
「ガアアア! グ、グアオオオ!」
平伏するオーガの背を、王者は大鹿の残骸で激しく打ち据える。丸太のような足で、わき腹を蹴り上げる。仰向けに蹴倒し、頭に牙を立てたところで、王者の動きは止まった。ジョロジョロと、小柄なオーガの股間から小便が漏れ出していた。王者は牙を離し、小柄なオーガと大鹿の残骸を放り出した。
「ガアアアアアオオオオオオオ!」
遠く山の頂にむかって、王者が吠えた。小柄なオーガはびくりと身体を震わせてから、大鹿の残骸を掴み、引き裂いて食らい始める。夕闇が、静かに二匹のオーガを包み込んでいった。
あくる日もあくる日も、小柄なオーガは毎日王者とともに狩りへ出ていた。王者が見つけた獲物を、小柄なオーガはいつも逃がしてしまい、王者の怒りを買う。だが王者は、小柄なオーガを傷めつけはしても、決して殺しはしなかった。
その日も、王者は小柄なオーガを叩きのめした。イノシシの反撃に遭い、小柄なオーガは足に傷を受けた。部族にとって肉体に傷を作ることは、恥である。重いイノシシを振り回し、王者は執拗に殴りつける。身体を丸くして、小柄なオーガはじっと耐えた。
「ガァオオオオオオ!」
森の木々に向かって、王者は吠えた。太い木をへし折り、地面に何度も叩きつける。それから、木を放り出して駆けて行った。残された小柄なオーガは、身を起こした。背中の敗れた皮膚から、じくじくと血がにじみ出てくる。
「グア……!」
立ち上がろうとした小柄なオーガが、へたり込んだ。足に受けた傷から、血があふれている。しばらくは、動けそうになかった。
がさり、と森の茂みが揺れた。びくり、と小柄なオーガは身体を震わせる。手負いの今、襲われればいかに強靭な肉体を持つオーガといえど、ひとたまりもない。きょろきょろと、小柄なオーガの視線が動いた。手の届く場所にあるのは、王者にへし折られた一本の木のみだ。持ち上げて、茂みに投げつける。だが、木の重さは小柄なオーガの手に余った。木は茂みの手前で、ごろんと落ちた。
「ガア……ゴオ……!」
背中の傷が痛み、咆哮は哀れな獲物のうめき声にしかならない。小柄なオーガは、地面の土をすくい次々と茂みへ放り投げる。
「恐れることはない。それだけ動けるならば、死にはしないだろう」
小柄なオーガの背後から、言葉が聞こえてくる。強者に敗れ、楽園を追われたはずの、弱小種族の用いる鳴き声だ。振り向いた小柄なオーガは、声のしたほうへ向かい砂つぶてを投げつける。
「まだ、子供のようだな。だが、子供にして深手を負いなおも動くことのできる生命力がある」
砂をマントで払い、その人間は言った。
「足を負傷している。傷口からみて、獣の牙による裂傷」
すたすたと、何でもないような足取りで人間は小柄なオーガに近づいてくる。爪を立て腕を振り回し、小柄なオーガは人間を威嚇する。
「グルルルオオオオ……」
「元気なのは良いことだが、動くな。傷に障る」
腕をかわし、人間が小柄なオーガの眼前に立った。そのまま人間は指を伸ばし、小柄なオーガの額を押した。それだけで、小柄なオーガの全身から力が抜ける。
「足の傷は、縫う。背中は、薬だけで良いだろう」
人間が、服の中から小さな針を取り出した。銀色に輝くそれは、固いオーガの皮膚を軽く貫く。
「ウ、オオ……」
「我慢しろ。すぐに終わる」
人間は、素早く傷口に糸を通し縫い合わせてしまった。ねとりとしたものを傷口に塗られ、布で覆われる。
「あとは背中か……と、必要無いな。すごい生命力だ」
小柄なオーガの背中の血は止まり、新しい皮膚が薄く張り始めていた。ぱりぱりと、乾いた血が落ちていく。
「お前にこれをやろう」
そう言って、人間は小柄なオーガの首にベルトを巻き付けた。男が二、三回ベルトの端を引っ張ると、それは首にぴったりと密着する。
「息苦しいか? 少しすれば慣れる。私が死ぬまで外れないのだから、慣れろ。もう、動いていいぞ」
人間が、小柄なオーガの額を再び押した。小柄なオーガの肉体に、自由が戻ってくる。そっと立ち上がり、小柄なオーガは足の具合を確かめる。
「グアオオオオ!」
小柄なオーガが、人間に掴みかかった。
「お前たちの種族は、力の差を教えるところから始めなければならんのだったな」
両腕の爪が空を切る。体勢を低くした人間が、小柄なオーガの腹めがけて掌を突き出した。強烈な圧力がかかり、小柄なオーガの身体が横向きに吹き飛ばされる。
「これで、理解したか。お前は下で、私が上だ。傷口が開くと二度手間だから、これで理解してくれれば助かるのだが」
倒れた小柄なオーガに、人間が歩み寄ってくる。よろよろと、小柄なオーガが身を起こす。腹に力が入らない。小柄なオーガは、人間に背を向けて全速力で逃げ出した。
「ねぐらへ帰るのか。やめておいたほうが良い。あそこはいま、危険だぞ」
人間の声が、すぐ側で聞こえた。小柄なオーガの背中に、人間が張り付いている。背後を振り返った小柄なオーガは、恐怖の表情を浮かべてさらに足を速めた。
「良い速度だ。足の負傷も、治りは早いな」
走る小柄なオーガが、その足を止めた。行く先にある光景を、じっと眺める。
夕焼けにしては明るすぎるくらいの、空の色だった。丘を越えたねぐらから、数条の煙が上がっている。異変を感じ、小柄なオーガは再び駆け出した。
「もはや、すべてが遅い。手遅れなんだ」
耳元で人間の声がする。
この桁外れに強い人間は、王者が殺す。王者は強い。部族で最強だ。
「グアアオオオオオ!」
「勝てない。私はお前の部族の王よりも強く、そして賢い」
小柄なオーガが丘の上にたどり着いて、立ち尽くす。
「ドワーフと、エルフを束ね、人間がお前たちの王を屠ったのだ。楽園を、手にするために」
人間の言葉は、もう小柄なオーガには届いていない。骨と獣の皮で作られた住居が、いくつも集まった集落だった。いまそれは、炎に包まれている。集落に暮らしているオーガたちもまた、生きながら炎に焼かれていた。もがき、苦しみ倒れていく。その身に、幾十本もの矢が次々と突き立っていく。集落の向こうに、黒く巨大なものがうごめいている。時折、巨大な石がいくつも集落へ降り注いでゆく。
「ドワーフの焼き石投石器、エルフの長弓、そしてそれを運用する人間の兵団。すべてはお前たちオーガを絶滅させるべく、集められた力だ」
淡々とした声色で、人間が言った。怒りと嘆きと絶望の咆哮が、集落から届いてくる。
「グオアアアアアアア! アアアアアアアア!」
丘を駆け下りようとした小柄なオーガの全身が、固まった。人間が、また額を押していた。
「お前は、末路を見届けろ。手を携え共に生きることを、言葉を交わしあうことすら忘れ、驕りきった同胞の最後を。そして誓え。もう、ヒトは食わないと」
「アアアアアアア! オアアアアアア!」
小柄なオーガは動かない身体を震わせて、号泣した。貫かれ、押し潰され、焼かれて死んでゆく同胞を、見つめながら声を上げた。
夜の闇がすべてを覆い隠してゆく。夜目が効くので、小柄なオーガは闇の安堵を受け入れることはできない。見開いたままの目を、人間が手のひらで閉じた。
「まずはお前に、言葉から教えよう。共に手を取り、生きていくために」
小柄なオーガの意識が、闇の中へと落ち込んでいく。
「私は勇者。人間の、頂点にいる者だ……と、意識を失ったか。疲労が、限界に達していたのだな」
人間が、小柄なオーガの額を押した。小柄なオーガの身体は、姿勢を崩してうつ伏せに倒れる。
「言葉と知恵を、お前に与えよう。来るべきときのために」
人間の語りかける声は、小柄なオーガにはもう届いてはいなかった。満点の星々の輝きが、惨劇の跡地を静かに照らしていた。
会話のないオーガのシーンは、書くのが難しくもあり楽しくもありました。
楽しく読んでいただけたのなら、幸いです。