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「あなたには真実が分かっているのではなくって?」
この先の四つ辻を左に折れれば、目的の西村の家があるというところで、不意に緋鞠は店での会話を思い出した。忘れろと言われても、彼に関するすべてを焼き付けようとしている今の緋鞠にはそれは無理な話だった。
「そうですね。分かっているとは言い切れません。ですが見当は何となくついています。決定的な証拠がないので、犯人が誰とまでは言えませんが」
「ではやはり、他殺ということですのね。この先で、確証を得られて?」
「得られるといいのですが。何せ僕は名ばかりの探偵ですからね。こんな突飛な推理は外れていてほしいものです。まあそうすると真実は完全に闇の中ですが」
「まあ、ご謙遜? ……なんですの、これ」
不意に辺りに漂ってきた悪臭に思わず鼻を覆った緋鞠だったが、酔夢はわずかに顔をしかめただけだった。家で焚いていた白檀に対する反応とさして変わらない。それとは比べようもないほどひどいものだというのに。
「ハンカチで覆った方がいいですよ。どうやらまだ片付いていないようだ」
進んでいくと家並はいったん途切れ、雑木林が道の左右を覆っていた。だが臭いのもとは薄暗いそこではないようだった。それらを抜けた先にぽつんと一件だけ離れて立つ家が、その元凶だった。
取り立てて何かがあるわけでもない、ありふれた普通の木造家屋である。だが周囲の未開発の土地と、遮られた陽光と、そして鼻を曲げんとする悪臭が重なって、ひどい瘴気を放つ禍々しい家に思えた。まるで乗り込んできた者を取り殺してしまう呪いでもかかっているかのようだ。心なしか家自体も全体的に黒ずんで見え、人が近づくのを拒絶していることは明らかだ。
「ここが……西村さんの家ですの?」
「君はここで待っていてください。うっかり吐いて現場を汚してもいけません」
「は、吐いたりなんてしませんわ」
置いていかれるのが嫌で、緋鞠は慌てて酔夢についていく。鍵のかかっていない玄関を開けて土足で上がって行った彼に続いて、緋鞠も靴のまま上がる。抵抗がさほどなかったのは、既にひどく汚れていたからだ。
平然と進む酔夢の背を追いながら、もはやハンカチで押さえた程度では到底追いつかない悪臭が辺りに満ちていることに気づいていた。だが今更一人で引き返すことなどできない。先に何が待っているかなど分からないが、酔夢が先導している以上怖いことなどないと言う安心感があった。
「ここではないですね。こっちも違いますか」
酔夢は部屋を一つ一つ改めながら奥へ進んでいく。彼が何を探しているかは分からないが、覗いた部屋には薄闇と暗闇が凝っているだけで、それらしいものがあったとしても緋鞠の目には何もないのと同じだった。
「あ。……ここですか」
やがて辿り着いた最奥の部屋で、酔夢はついに足を止めた。彼は緋鞠が通れないように入り口を通せんぼしていたが、臙脂色の隙間からその先はあっさり見えた。そうして途端にこみあげてきた酸っぱいものを、必死に飲み下す。
いっとう日の当たらない北の六畳間には、鼠の死骸が隙間なく転がっていたのだ。どの死骸にも、腐敗して原型すら保っていないのに、泡を吹いたり嘔吐したりして苦しんで死んだ跡がある。まさしく足の踏み場もないと言いたいところだが、どうにか踏む余裕があるらしいと分かったのは、酔夢が道ならぬそこを踏み越えて部屋の中へ入って行ったからだ。
「この部屋、何ですの?」
「ここで実験をしていたんでしょう」
酔夢は秤や器具が散乱する文机を漁って、書付などを探しているようだ。本棚は書籍であふれ、中に入らず横倒しになっていくつも積まれている。それらの上にも下にも死骸が落ちていた。踏みつぶされたものもある。それを見て家主はこの部屋で死んでいたことを思い出したため、さすがにこれ以上酔夢の足跡をなぞることは出来かねた。
「実験? でも、ちょっと死にすぎじゃあなくて?」
「そりゃあそうでしょう。彼は人を生かす生薬ではなく、殺すための薬品を作っていたのですから」
「!」
製薬会社の研究員としてあるまじき行為に絶句しながらも、緋鞠は置いていかれないように必死で頭を回転させた。西村が買い求めたと言う薬物。比較的新しいテトロドキシンについて、聞いたことがあったはずだ。その名がついたのは明治の終わり頃で、あれは確か……。
「フグ毒、でしたわね。じゃあ、トリカブトとフグ毒で、さらなる猛毒を作ろうと?」
「違います。……うん、他の薬品は見つかりませんね。やはり主要となったのは、その二つのようだ」
何も持ち出せずに緋鞠のいる入口に近づいてくる酔夢は、どこかがっかりしているようだ。
「これだけ実験しておいて肝心の経過記録が残っていないとなると、誰かが持ち出した可能性が高い」
「警察の方でしょうか」
「それならわざわざ聞き込みに来ないでしょう。死因は明らか……ではないですけど、似たようなものなのだから。しかし彼らは分かっていないようだ。つまり持ち出したのは、彼が作っていたものを知っている人物か、或いは―――作らせた人物」
「作らせた?」
「―――あんたら、そこで何をしてる」
その時、緋鞠の背後に投げつけられた声があった。振り向くと老婆が、震える手に鍬を振りかぶって二人を睨んでいた。驚いて身をすくませた緋鞠の肩をそっと抱くようにして、酔夢が部屋から出てくる。
「若いもんが、ここには盗むものなんてありゃしないよ。それに連れ込み宿でもない。出て行きな」
「鍬を下ろしてください、疲れるでしょう。あなたは西村氏のご親戚の方ですか?」
酔夢が臆するでもなく老婆に静かに問うと、素直に鍬を下ろした。どうやら振りかぶり続けるのも難儀だった模様だ。
「親戚だあ? 莫迦言うんじゃないよ。あたしは隣近所の者さね。あんな男に親戚なんぞいるもんか。いたらここをさっさと片付けるだろうよ。葬式だってここらのもんで慎ましく上げてやったんだ。まったく臭くてかなわん。それであんたらは何者だい? 随分背が高いね、異人かい?」
「いえ、僕は西村氏にちょっとした縁がありまして。ああ、血縁じゃあないです。お金をね、貸していたんですよ」
「ああ、借金取りかい。そりゃあ難儀だね。金目のものもろくにないだろ」
さらりとついた嘘に、老婆はあっさり騙されたが、彼の男ならさもありなんと思われていたのだろう。ここは臭うから外へ出ようと自ら提案したので、二人もそれに従った。
「そっちの嬢ちゃんは? 派手な格好してるところからすると、あんたの情婦かい。いくらなんでもこんなところに連れてくるもんじゃあないだろうに。ああ、こんだけ離れてもまだ臭うね、まったく」
「西村氏のことを少し聞いてもいいですか?」
既に酔夢は緋鞠の肩から手を放していたが、緋鞠は一人顔を赤くしていた。よもやモダンガールの恰好が金貸しの情婦に見えるなど思いもしなかったが原因はそこではなく、彼女が彼とそういう仲にあると思われたことだった。そして酔夢がそれを否定しなかったことだ。
老婆の目をごまかす以上それは仕方のない嘘だろうが、それにしたって情婦はないだろう。自分だって昨夜彼を婚約者と偽ったが、それとこれとは別問題だ。なぜなら彼女が一方的に思いを寄せているだけなのだから。
それとも少しは誤解してもいいのだろうか。思っているだけではないのだと、期待してもいいのだろうか。
否、それよりもここは、老婆を騙し続けるために情婦のように振る舞った方がいいだろうか。……情婦の振舞い方など女学校で習っていないからよく分からないが。例として重森といる玲於奈を思い浮かべてみたが、違う気がした。
そうして緋鞠が一人で赤くなったり悩んだりしている間にも、老婆と酔夢の間での会話は進んでいく。人となりを聞いているようだが、丹羽が言っていたのと差はなく、近所づきあいなども一切していなかったらしい。訪問者もなく、出かけるのも玲於奈の結婚後はほぼ皆無だと言う。
「行商の婆が時々出入りするだけだがね。あれもどうかねえ」
「なんです?」
「ここだけの話、西村はあの婆とできてたんじゃあないかと思うんだよ」
声を潜ませた老婆のそれに思わず身を引いたのは、酔夢の方だった。心なしか顔色が蒼ざめている。もちろん緋鞠とて、同じ心境ではあるが。
「そ、そんな人が、存在しえますかね……だって西村氏って、三十くらいでしょう……」
「あんた騙されたね。ありゃあ四十越えてるよ。それに性癖なんてあんた、分かるもんかいね。あたしの目はごまかせないよ。この家に入っていくときと出ていくときの婆の様子見りゃ、中で女として扱われてたのは一目瞭然さ」
老婆は話すだけ話すと、満足して帰って行った。一方で緋鞠たちも、のそのそとその場を離れる。
「ババ専なんて、いるんですかね……」
「なんですの?」
「いえ、なんでもないです……」
酔夢はまだ衝撃から抜けきっていないようだ。ようやくハンカチを口元から離すことができる距離まで歩いたところで、緋鞠は思い切って推理を述べてみた。
「あたし、思ったのですけれど。その行商の方が犯人ではないかしら。他に出入りしていないのだし」
「原因は、痴情のもつれですか? 老婆に毒殺される四十男というのも、ものすごい図ですけれど……」
汚れていない空気を吸って落ち着いたのか、酔夢も元の彼に戻っていた。もっとも彼が呼吸を必要としているかどうかは謎だが。何せ今朝の食事もただ隣にいただけで食べてもいないのだ。夜も眠る必要もないと言う。
そんなことを考えていたらお腹が空いてきた。そろそろ昼時である。しかし空腹を訴える勇気はないため、話をすることでごまかすしかない。
「そうでないならやはり、あやかしが殺したのですわ。あの重森白夜が」
その推理は既に酔夢によって否定されていたのに、また口に出してしまった。だが酔夢はそれに気づいていないのか、考え込んでいた。
「君のご父君と、西村氏。やはり別の事件とは考えにくい。ここで両者を結んでいるのは、一人ですね」
「では、重森」
「いえ、玲於奈さんです。仮に重森氏が何かしらに関わっていたとしても、彼女抜きに話は進みません」
「玲於奈さんが、犯人だとおっしゃるの? だとしたら、お父様を殺す理由は? 西村さんにはどんな恨みが?」
「それはまだ何とも言えませんが……しかし動機の有無では、圏外には置けませんね」
確かに彼女には父の死で、財産と会社の経営権も手に入っている。だがそんなものは富雄が死なずともどうにかなったものではないか。経営権はともかく、そんなものを女の身で手に入れてもどうしようもない。今のように精々気に食わないものを馘首するぐらいで、それだけでは経営は成り立たないことぐらい緋鞠にだって分かる。
それに西村を恨んでいたなら、父に言ってどうにかしてもらえばいい。手を下す必要はないのだ。富雄は若い新妻にはひどく甘かったのだから。
不意に緋鞠は気づいて、そして立ち止まった。酔夢も足を止める。
「まさか、お父様が殺したとでも? だって、西村さんはお父様より先に亡くなっているわ。お父様なら、玲於奈さんの関係で、元客を恨むことだってあるかもしれないし」
「その場合も、重森氏と同じです。君のご父君の方が断然有利な立場に……おや?」
酔夢が目を丸くしたのは、緋鞠の腹が鳴ったせいだった。緋鞠は恥ずかしさと情けなさで走って逃げたいくらいだった。せっかく父親に関する疑惑などが浮上したと言うのに、空腹に負けて検証もままならないなど、なんてお笑い草だろう。しかもそれでは説得力に欠けるらしく、取り合う気もない風情だ。
「どこかでお昼を食べますか? 残念ながら僕は所持金なるものを持ち合わせていませんが」
「食べない……」
「そう言わずにどこか行きましょう。ライスカレーはどうです? 僕、見たことないんです」
そんな人がいるものかと、緋鞠は思わず俯けていた顔を上げた。行きつけの洋食屋はすぐ近くにある。だが目に入った屋号を見て、気を変えた。
「あんみつにするわ」
「え、いけませんよ。ちゃんと食べないと」
「食べない方に言われたくなくてよ。あんみつが食べたいの」
そうして緋鞠はいろいろうるさく言う酔夢を従えて、甘味処へと入って行った。
女性客ばかりの甘味処で酔夢はひどく目立っていた。ただでさえ目立つ色合いなのに、店内で黒一点であり、なおかつ自分は食べずに目の前で連れが食べる姿を見ているだけなのだから、どういう二人連れかと思われているだろう。散々に言われた逢引というのも、こうなっては俄然現実味を帯びてくる。
「ああ、さっきのことがあるから、あまり食べたくないのですね」
酔夢は運ばれた茶にも手を付けていない。触れることはできるだろうが、飲む気はないようだ。その視線はあんみつを食べる緋鞠を、というより、減っていくあんみつに注がれているため、殊更食べにくいということもないが、ふとした瞬間に目が合ったりして、その都度緋鞠の手は恥ずかしさのあまり止まってしまう。
「さっき? 鼠のことでしたら、あたし、平気でしてよ」
「ああ、それは確かに、怯んでらっしゃらないのはすごいと思いましたよ」
「まあ、図太いと思われているのかしら。あたしこれでも微妙でしてよ?」
「いや、そういうわけじゃあ……あれ?」
不意に酔夢はぴたりとすべての動作を止めた。そして驚いた様子で、口元を覆った。
「なんてことだ。ピースが揃った……」
「え? なんですの?」
「緋鞠さん、この事件にはどうしても必要なひとかけらがあったのです。それが今、揃いました。君のおかげで」
酔夢は緋鞠の手を握ってきた。店内が細やかにだが、ざわついたのが分かった。だが緋鞠としては、急に手に触れられて赤くなるなという方が無茶な相談だった。昨日は自分から大胆に触ったくせに、さっきだって店を出る時に手を引かれていたくせに、鼠の死骸にも怯まなかったのが嘘のように、怯んでいる。
「あの……お待ちになって、どうなすったの?」
「分かったんですよ。犯人が」
「え……本当に? でも、こんなところで?」
「あ。……これは失礼」
酔夢はようやく気付いて、慌てて緋鞠から手を放した。ぬくもりの離れたそこに殊更に冷気を感じて、緋鞠は少しだけ惜しく思う。そんな未練を振り払うように、緋鞠は自ら腰を上げた。
「では、出ましょうか」
「あれ。でも食べかけ……」
「よろしくてよ。だって早く帰りたいのでしょう?」
勘定を終えて店を出ながら、緋鞠は己の発言に密やかに落ち込んだ。彼が暴いた事件の真相を知れば、それでもう役目は終わり、約束のものを渡してお別れとなる。それを考えるだけで足取りも重くなってしまう。できればこのまま、事件は迷宮入りしていてほしいとまで願ってしまう。自分から依頼したくせに、なんという女々しい感情だろう。
「そうですね、君の家に行きましょう。でもその前に、沙璃に来てもらっていいですか? いつものが欲しいんです」
酔夢は『帰る』を帰宅の意味としてとらえたようだ。唇に人差し指を添えて、なぜか狐の遣いの名を出した。
「沙璃さん? 何の用があって?」
「ああ、歩きながらでいいですよ。ちょっと持ってきてもらいたいものがあるんです」
「でも来てもらうなんて、いったいどうやって伝えるんですの?」
「ほら。もう来ましたよ」
酔夢が指さす先を振り向くと、見覚えのある男が走ってくるのが見えた。大袈裟に息せき切っているが、近くから見守っていたとしか思えない距離からの走り方だった。
「もォ師匠ってば、人使い荒いですよォ」
「それが君の役割なのですから、割り切ってください」
「いやァ、それは分かりますけどォ。はい、例のもの」
「ご苦労様。それからアレもかけておいてくださいね、念のため」
「うへぇ、何も本当に荒くしなくてもいいじゃないですかァ」
「じきに終わりますから」
「だといいんですけどねェ。それじゃあ、あっしはこれで」
沙璃は酔夢に何かを渡して、すぐさま走り去っていった。緋鞠が胡乱な目で見ていたことなど知った風ではないようだ。
「何をもらいましたの?」
「香木です。お屋敷で焚きたいのですが、許可をいただけますか? 何、不快なものではありません」
「それは、構いませんけれど……」
しかし酔夢の意図するものが分からない。かといって拒絶する緋鞠ではない。彼が何か彼女の不利になるようなことをするとは、思っていないからだ。それに仮に何かしても運命は変わらないのだし、何をされても許せるだろうと思っていた。
「家に着いたらきっと、重森さんが帰っておられますわ。またあなたのことを説明しなければなりませんね」
「その必要はありませんよ。おそらく玲於奈さんが真っ先に告げ口するでしょう。まあそれはともかく……君はその人を、とかくあやかしにしたがりますね」
「だってそうとしか思えませんもの」
屋敷への道を戻りながら、緋鞠は未だに重森が何らかの形で事件に関わっていると思っていた。だが酔夢の口ぶりから察するに、どうにも犯人は彼ではないらしい。
「ではまず、その疑惑を晴らしましょう。人に成りすましたあやかしを見抜くことはできないと言いましたが、化けの皮を剥がすことはできます」
「まあ、そんな頼もしいことが?」
「……仮に重森氏があやかしでなく、真なるあやかしが憑りついた別の人物がその現場を見たら、すぐさま逃げ出すでしょうけどね」
「つまり逃げ出した人が、あやかし?」
「そういう見方もできます」
なるべく第三者に見られずに行う、一発勝負の技であると言いたいらしかった。ならば仮にそんな場面が発生した場合にてんやわんやになることを想定して、先に聞いておいてもよかろう。
「家に着く前に、犯人を教えていただける?」
「もちろん結構ですよ。でも、あなたの幻想を少々打ち砕くことになりますから、覚悟してください」
そんな前置きをされたら犯人は、緋鞠の中では一人に絞られてしまうのだが、果たして酔夢の口から語られたのはまるで予想外の人物だった。
「犯人は、奈々子さんです」