8
真っ赤になっていた緋鞠の手を引いて、酔夢は店から外へ出た。されるがままに身を任せながら、緋鞠は泣きそうになっていた。
恥ずかしさで死んでしまいそうだった。自分は何て愚かなことを言ってしまったのだろう。そのせいで笑われて、子供だということをみすみす見せつけて、自分に対する怒りが止まらない。
そもそも、あやかしなんて口にすれば、笑われるのが関の山なのだ。偶然酔夢がそういう人種ではなかったから、勘違いをしてしまった。
「泣くのはおよしなさい、緋鞠さん。君が気に病むことは何もありませんよ」
「だって……あたし、情けなくて……」
まだ泣いていなかったのに、その言葉で本当に涙がこぼれてしまった。そうなってはもう、こみ上げるものを押さえることなどできない。明らかな困惑が伝わってきても、緋鞠にはどうしようもない。発作のようなものだった。
しいて言うなら、こんな場で優しくするのが悪いのだ。
「やれやれ、困りましたね。とりあえず、こちらへ」
焦った様子の酔夢に手を引かれて、人目のない路地の影へと連れて行かれた。それでも涙は止まらない。あんまりぐずぐず言い続けているといつか呆れられて置いていかれるのではないかという不安もあったが、一度堰を切ったものはそう簡単には止まってくれないのだ。
「あたし……早く、大人になりたいの……。こんな、子供みたいなこと、したくないの……」
「……。無理をすると、歪んだ大人になってしまいますよ。それではいけませんね」
沈黙を挟んだのは、彼が言葉を選んでいたためだということが分かった。下手なことを言うと、悲しくなくともさらに涙があふれると踏んだためだろう。それは正しい。子供をあやすように頭を撫でられでもしていたら、そのまま胸の中に飛び込んで気が済むまでわんわん泣いていただろう。
だが酔夢は、彼女に触れなかった。ただ屈んで、目線を合わせ、そして待っていた。自力で泣き止むのを。手を差し伸べずとも、一人で立てるのを。
「……ずるいわ」
「すみません」
なぜなじられたのかもきっと、分かっているのだろう。緋鞠の涙は、止まっていた。動揺は収まり、酔夢が彼女を一人の『人』として扱ってくれたことを、温かさで満ち溢れた胸の内で冷静に受け止めていた。
(どうしよう。あたし、この人のこと……好きなのだわ)
それと同時に、身を引き裂かれるような切なさが彼女を襲った。それは抱いてはならない感情だ。決して報われることのない、始まった時から死ぬことが運命づけられた恋など、いかほど哀れなことか。
「おや、せっかく泣き止んだのに、何やら悲しげですね。君を頼りにしているんですが」
「あら、よくってよ。存分に頼りになさるといいわ」
緋鞠はあえて、虚勢を張った。赤い目をして胸を張っても所詮は張りぼてでしかないのは明らかだが、酔夢はそれには見ないふりをしてくれたようだ。
「では、中瀬古町一三番地に行きたいのですが、道案内を頼めますか。僕はここらの地理にはまるで疎くて」
「いいですけれど、それは?」
「西村氏のお宅です。片付けられて何も残っていないかもしれませんが、一応」
どうやら先刻帳簿を熱心に見ていたのは、住所を記憶していたためらしい。問題の住所は、ここからなら半刻もかからないだろう。緋鞠は今になってハンカチを持っていたことを思いだし、表に出ていくために涙を綺麗に拭った。
「こんなことを言ってはなんですが、実のところ助かりました。あのまま店にいたら、刑事さんたちは僕の正体を怪しむに決まってますからね」
「まあ、口実になさったの?」
だがその割には、彼らは部外者のはずの酔夢の問いにもすらすらと答えていた。存在に疑問を挟む余地を抱かせないようにひそかに誘導していたらしいが、その効力がもう少しで切れるところだったのだと、彼は言う。
商店の立ち並ぶ街並みを抜けると、少し上り坂になっていた。日差しは穏やかだが遮る木々もまばらでは足取り軽くとはいかず、涼しい顔をしている酔夢の隣で緋鞠は、心持ち息を切らせながらも黙っていられず口を開く。
「さっきあなたは、失恋の痛手で自殺っておっしゃっていたけれど、あたしはやっぱり、客同士の争いが発展したのだろうと思いますわ。うってつけの方を知っていますの」
「君があやかしと疑ってる、玲於奈さんの情夫ですか?」
並んで歩きながら、酔夢は緋鞠の自信たっぷりの持論をやんわりと否定した。
「しかし彼は既に玲於奈さんを手に入れていますし、アドバンテージ……西村氏より相当有利な立場です。殺す必要はないでしょう。時系列的には間違っているとは言い切れませんがね。ですが、先ほど僕が警察の方に言った推理は忘れてください。あれは方便です」
「え?」
思わず緋鞠の足が止まった。一歩だけ進んだ酔夢も立ち止まり、再び彼女が歩き出すのを待ってそれに倣う。
方便とはいえつまり、嘘である。天下の警察機構に真顔で偽証するなど、どれほどの悪党かと見れば、酔夢は平然としていた。緋鞠が内心震え上がっていることなど知る由もないだろう。
「それは……あたしを連れ出すために?」
「おっと、君のせいではないですから、安心してください。僕は、無意味だからあえて真実を言わなかったのです」
「無意味、とは?」
「タイムパラドックスの話はしましたよね」
突然に話が飛んだので、緋鞠は目を白黒させた。束の間黙ったのは、傍を賑やかな学生たちが通り過ぎたためだったようだ。
「僕は正直、歴史を改竄した後にねじれて発生する並行世界は存在しないと思っているんです。それは沙玖蓮天の言葉振りから想像したにすぎませんが。つまり、歴史に変更点は生じないのです。何をしても、未来は決まっている。まあそうでなければ僕がここに来る意味もなくなってしまうんですが」
「それは……つまり?」
「つまり僕の知る真実を警察に話しても、意味はないんです。聞いてはもらえるでしょう。ですが歴史の修正力が発生するでしょう。いずれ忘れるなり別の解釈が発生するにしろそれまで、狂人扱いされ、いらぬ疑いを受けて、いたずらに時を浪費するだけに終わる。僕の先祖も、殺そうとしても死なない。半ば意地のような邪魔が入るはずです」
「歴史の修正力……」
「まあ、無駄な時間を食うと言う意味では、相手が誰であれ、めったなことは言うもんじゃあないということですね」
「……」
やっとのことで坂を上りきった緋鞠だったが、足取りの軽さを取り戻すことはできなかった。
酔夢が先に正体を明かしたのはつまり、緋鞠を信用してのことではないのだ。そのうちに記憶の彼方に消え失せて永遠に思い出せない存在になるように、修正されてしまうから。最初からいなかったかのように、そんな人物に思いを寄せたことなど、なかったかのように。
この胸の熱さもときめきも、本物なのに。
「そんなの、ひどいわ。あたしは、忘れないから」
「運命というやつです。誰も逃れられないんですよ」
緋鞠のそれは、血を吐くような強い決意だった。だが酔夢は悲しげに目を伏せただけだった。逃れえぬ運命の渦中にあるのは彼とて同じなのだ。安易に彼女を否定しているわけではない。緋鞠はその美しい横顔を見て、益々気持ちを強くした。
この思いだけは、誰にも奪わせない。
「運命とやらが邪魔をするのなら、そんなもの、立ち向かってでも乗り越えてやりますわ」
「頼もしいことをおっしゃいますね」
酔夢は彼女を見て、少し笑った。諦観に満ちた彼にはそれに逆らう気はないようだが、それでも熱くなる緋鞠を子供の戯言だと嘲笑ったりしなかった。
「あ、あの、ここをまっすぐ進めば長屋横丁ですから、そこを抜けた先が……」
一人で気を高ぶらせていたことに気づいた緋鞠は急に恥ずかしくなって、先を促そうとしたのだが、その行く末を遮った者がいた。
「おやっ、高之城のお嬢はんやないですか。もしかして逢引してはったんです?」
のったりとした動きで二人の前に立ちはだかったのは、訛りのある狸に似た小太りの小男だった。どこかで見た顔だと思っていると、酔夢が顔をしかめるのが見えた。
「何の用ですか、次郎丸くん。邪魔するなら踏みますよ」
「あれぇ、ひどいことおっしゃる旦那やわあ。ワイら初対面やん。なんでワイの名前知ってはるん?」
太鼓持ちのようにへらへらしながらも、次郎丸は解せぬ顔をしている。それを見て、緋鞠は思い出した。茶屋の前で沙璃と話していた男だ。彼は解せないという顔つきながらも、名刺を取り出して見せた。どうやら新聞記者のようだ。
「ワイ、岡崎日報の次郎丸清吾言いますぅ。高之城のお嬢はん、ちょいとお話聞かせてくれへんやろか?」
「お話しすることなどありませんわ。行きましょう、酔夢さん」
「あ、待ってえな。そりゃないわあ。偶然会うた誼っちゅうもんがありますやろ」
父親の件で、記者がうろついていることは知っていた。だがそれらと話をしたことはないし、また取材に応じたこともない。記事として出たものは玲於奈が答えていたし、既に死後何日も経っている。四十九日も間近になった今になってほじくったところで、何も出てくるはずもない。
もっとも緋鞠が今しているのは、新事実を明らかにするための行動であるが、それを教えるにはまだ何の確証も得られておらず、また玲於奈の変容などの醜聞としか言えない内情を喋るつもりもない。
「な、な、お嬢はん、その異人みたいに大きい男、お嬢のコレですのん? 浮いた話一つなかったご令嬢がまあ、大出世ですやん。これからどちらに行かはるん? 逢引ゆうたらまあ、行くとこは一つですわいなあ。でも連れ込み宿はあっちでっせ」
無視して先を急ごうとするも、下品なことを言いながらついてくる次郎丸は、簡単に彼女を諦めそうにない。しかもどうにも、父親の件を得られないと見るや否や、取材対象を緋鞠自身に切り替えたようだ。このままでは芋づる式に酔夢までもが新聞沙汰になってしまう。
別に緋鞠自身は、あばずれと書かれようがどうでもいいのだが。否、いいわけはないが、新聞として発行されたものにまで歴史の修正力が働くとは思えない。新聞社が跡形もなく焼失するぐらいの大惨事でも起きなければ。
「いい加減にして頂戴。ついてこないでくださる?」
「殺生やわあ。ワイはただ真実を知りたいだけやねんで。記者としてここは、殴られようが蹴られようが、引けまへんわ」
「……言ったら帰って戴けるのね」
「その必要はありません」
嘆息した緋鞠の前に、酔夢が立ちはだかった。挑戦的な態度の長身を前に、だが次郎丸はひるむでもなく身を乗り出す。
「お、殴るつもりでっか? それならそれでええねんで。ワイは真実を書くのみや」
「そんなことはしませんよ。でも、さようなら」
身をかがめた酔夢は、幼子をあやすようにぽんと優しく次郎丸の頭部に手を触れた。途端に彼は、泥酔したかのように千鳥足になる。
「お? なんですのん、これ……どないなって……あれ、ワイなんでこないなとこに?」
「今のうちに行きましょう」
ふらふらしている次郎丸を置いて、酔夢は緋鞠の手を取って駆け出した。怪訝な顔をした通行人の目が二人を追いかける。それらをも無視して長屋横丁へと飛び込んだところで、ようやく彼は彼女の手を放した。洗濯物を干していたおかみさんたちが、意味ありげにちらちらとこちらを見ている。
「ここまで来ればもう大丈夫でしょう。目的地はこの先でしたね」
「何をなさったんですの?」
住人らの目を避けるために早足になって横丁を抜けた二人だが、息を切らしているのは緋鞠だけだった。酔夢はそんな彼女に掌を振りながら言った。
「僕に関する記憶を奪いました。彼とはどうしてかちょくちょく遭遇してしまうのですよ。本当はもうちょっと優しく奪ってあげることもできるんですが、非常事態だったので」
フットワークの軽い記者なのですねと、酔夢はよく分からないことを言っていた。ああ見えて俊足であるということらしい。だがあちらが初対面でこちらがそうでなかった理由は、記憶を強奪していたがゆえだったようだ。
「非常事態、でしたかしら?」
「君の醜聞が危うく世間に出てしまうところでしたよ。君に関しては忘れてくれませんから、だから走って逃げたんじゃないですか」
「あら……そう、でしたわね」
自分のためと言いながらも、緋鞠を守るために力を使ってくれたようだ。つまり彼女はまた彼に助けてもらったことになる。優しくされたのになぜか緋鞠は、胸が痛くなった。
(どうせ忘れてしまうとお思いなら、もっと冷たくなさればいいのに。そうでないとあたし、もっと好きになってしまうわ……)
その気持ちもどうせ、修正されて忘れてしまうのだろう。緋鞠がどんなに忘れたくないと心に刻んでも。
できれば酔夢より後ろを歩いて、こっそり知られないように彼のコートの裾を握りたいと思ったが、どれだけ緋鞠が歩調を遅くしようと、彼は彼女の隣にいるのだった。それがまた嬉しくもあり、歯がゆくもあった。