7
「わ、分からないわ」
緋鞠はこれでも女学校では上位成績優秀者として通ってきたのだが、酔夢の言葉には聞き慣れない単語が時折混ざるため、全てを理解することができないのだった。これでは彼の隣に立つのにまるでふさわしくない。混乱から目に見えて落ち込もうとする緋鞠を見て慌てたのは、酔夢の方だった。
「すみません、今のは忘れてください。どうにも君といると、自分が過去に来ていることを忘れてしまっていけません」
「気になさらないで」
気を許していると言っているも同然で、それは緋鞠を嬉しくさせる言葉でしかなかった。たったそれだけで、沈んでいた気分が嘘のように浮上していく。
だが浮ついた気分は続かなかった。なぜなら店に着いてしまったからだ。酔夢は臆することなく中へと入っていき、慌てて緋鞠もそれに続く。
「いらっしゃいませ。おや、お嬢様」
出迎えたのは店長の丹羽だった。もとは研究員として働いていたのだが、突然に販売へと異動を命ぜられたのだ。そのせいか、不慣れな職場でやつれてしまっていた。このような異動は彼だけにとどまらない。
「珍しいですね、お嬢様がこちらにいらっしゃるなんて」
「ええ、少し」
父の死以来、来たことはなかった。だがそうして世間話をしようとした緋鞠の傍から、早々に酔夢はいなくなった。どうやら用があるのは人ではなく、店内の薬品らしい。所狭しと商品が並べられた店内は不安になるほどがらんとして、他に客はいなかった。父の死後、業績が芳しくないという噂はどうやら、本当らしい。新聞に社長変死との見出しで大々的に記事にされてしまったことも影響しているのだろう。
「扱っているのはこれが全てですか?」
「ええ、研究所にあるのとほぼ同じはずだわ。そうよね?」
「はい、左様でございます。……あの、お嬢様、あちらは?」
「あたしの大事な方よ」
その一言で、丹羽は察したように口を手で押さえた。だが祝うにはその行動が妙だと思ったのだろう、怪訝に眉を潜めた。
「なるほど、確かにトリカブトはありますね。強心、鎮痛、利尿に効きますからね」
「あの方は、社長の件をお調べなのですか。すると警察?」
緋鞠が否定しようとした時、新たに人が入って来た。作った笑顔で迎えようとした丹羽だったが、その顔が奇妙にひきつったため、彼女もそちらを見ざるを得ない。
果たしてそこにいたのは、見覚えのある男性二人だった。とはいえ、待望の再会とは言い難い。
「邪魔するぜ。おや、あんたはお嬢様じゃあないか。丁度良かった」
「すみません、失礼します~~、警察でっす」
堅気らしからぬ眼光鋭き男は小出毬、もう一人の軽佻浮薄が服を着たような男は和泉と言った。自殺でないと言い張る玲於奈を無慈悲に突っぱねた刑事たちだった。
もとはと言えば彼らのせいで、玲於奈は変わってしまったのだ。緋鞠の中に、怒りの火が灯る。
「何の御用。事件が終わったとおっしゃったのはそちらでしょう」
「いや~~、俺としてはそうなんですけどぉ、小出毬先輩がねぇ」
「黙れ。今日は別件だ」
げんこつを食らった和泉が頭を押さえながら「そうですかあ?」と疑わしそうに言う。どうやら彼らが用があるのは緋鞠と丹羽らしく、二人から離れて店内をうろつく酔夢は無関係の客としか思われていないようだ。
その酔夢が、警察など知らぬとばかりに丹羽を呼んだ。
「すみません、これってテトロドキシンですよね。これも売ってるんですか?」
「ええ、まあ。鎮痛剤として使えますからね。ただ最近は自社製もあるし、一般の方がお求めになることは……おや、減ってますね」
彼も彼で警察などより風変わりなこの男の相手をした方がいいとばかりに、そそくさとそちらへ行ってしまった。件の薬品は棚の上の方にあり、店員に一声なくば、一般客は気軽に触れることもできないが、爪先立ちになった酔夢は長い腕で容易にやってのけたようだ。その上で何やらぶつぶつ言っている。
「ああ、まだ届け出制でも許可制でもないんですね。管理責任者もいらないわけだ……規則が緩いなあ」
「……それで用があるのは、このお店の方ですの?」
「いえいえ~~、本当はお屋敷の方へ行ったんですよぉ、俺たち。でもどなたも出てこられないから、仕方なくねえ。誰かいる気配はしたんですけどねぇ」
まだ玲於奈たちは大騒ぎしながら屋敷中を捜索しているようだ。確かに昼過ぎには贈り主である重森が帰ってくるから、貰った身としては血眼で探す必要があるかもしれないが、来客にも応じられないのに主人と豪語するのはいかなるものかと、自分の盗みは棚上げにして呆れる。
「お嬢さん、あんたの父親だが、どうにも腑に落ちん。俺自身は自殺ではない気がするんだ」
「今更、何ですの」
「あ~~、気にしないでください。刑事の勘ってやつですからぁ。こっちとしては片付いてるんですよ。他殺の証拠も出てないし。ただ今回ねえ……」
小出毬が今になって警察の見解に翻意していることに驚かされた緋鞠だったが、背後で丹羽と酔夢がしている会話も気になった。薬屋の娘とはいえ薬の成分などにはまるで詳しくないはずなのに、何か嫌な予感がするのだ。
「ああ、西村さんだな。あの人ハイカラなものに目がなくてね、目新しいテトロドキシンに異様に執着してたから。研究所にあるだけじゃ足りないって言ってたし」
「そう、その西村さんねえ。自宅で亡くなってるのが見つかったんですよぉ。何か知りません?」
「亡くなった? 死因は?」
丹羽の説明の後に続いた和泉の軽々しい声にいち早く反応を見せたのは、酔夢だった。まるで無関係だと思っていたところからの割り込みに、刑事らは怪訝に思ったようだ。
「なんだ、お前は。関係ない奴は引っ込んでろ」
「そうはいきません。こちらはこれから件の西村氏のところへ行こうとしていたところなのです。なぜお亡くなりに? 病気などではないでしょう、自殺ですか、他殺ですか」
小出毬が睨むが、酔夢は意に介さなかった。緋鞠としては、彼が西村のところへ行くということすら知らなかったので、うまく庇い立てすることもできない。かといっておろおろして子供じみたところを見せるのは嫌だったので、無理やりに毅然とした態度で刑事を問いただす。
「西村さんが亡くなったとして、それがうちに何の関係がありますの? だってお辞めになった方でしょう」
「まあそうなんですが~~、お嬢さんよりもうちょっと、人事に詳しい方にお話を伺いたいのですよ~、我々は~、あいたっ」
玲於奈の意向で馘首したという言葉はあえて出さなかった緋鞠に、ぺらぺらと失礼な言葉を吐く和泉はまたもげんこつを食らっていた。彼の言葉からすると、誰に馘首されたかは既に把握されているようだ。
「失敬。ただな、お嬢さん。その西村って男は、どうにもあんたの義理の母親の、芸者時代からの馴染みだったようなんでな。それで話を聞きに来たんだ。他にもその頃の輩を便利に使ってるって噂があってな」
「えっ」
それは初めて聞く話だった。もっとも売れっ妓だった玲於奈にそう言う存在がいたこと自体は不思議ではないが。だが丹羽の方では今更驚くべきとは思わなかったらしい。
「聞いたことがあります。給金のほとんどをつぎ込んでいたようですね。趣味らしい趣味もなく誰ともつるまない無口な男で、もっとも住まいは二親が残した家があるらしいって話でしたが」
「その家でな……」
小出毬は、言い出しにくそうだった。というのも、若い娘である緋鞠がいるための遠慮に思えた。それに焦れたのは酔夢だった。
「はっきりしてください。どんな無残な死に方したんですか」
「いや~~、死に方自体は綺麗なもんですよぉ。いや、そうでもないのかなぁ? ねえ、先輩」
「死因は窒息らしい。首に、かきむしった跡があったからな。どうやら、毒を飲んだようだ。死にざまから断定はできないが、検死してもらった医者に言わせると、お嬢さんのお父上と同じ、トリカブトじゃあないかって話なんだ」
「え……」
緋鞠が息を飲む後ろで、丹羽があたふたとする気配がした。酔夢の表情は変わらない。ただ眉が僅かに動いたきりだ。だが単なる服毒死ではないことは、刑事二人の顔を見れば分かった。酔夢が静かに先を促す。
「他に何が?」
「鼠ですよお。鼠の死骸があふれてたんです、その家!」
「で、それに囲まれるようにして死んでたんだ。おそらくその鼠も、同じ、毒死だろうとの見解だが……」
現場を見たであろう二人の顔色が優れない理由は明らかだった。小出毬は苦虫をしこたまかみつぶしたように、和泉は今にも泣きだしそうな子供のごとき表情をしている。酔夢は興味がないのか全くの無表情で、そんな二人に気のない慰撫を送る。
「それは、さぞ匂いがきつかったでしょうね」
「きついなんてもんじゃないですよぉ! そのせいで死体の発覚も遅れたんですからぁ~~」
「そうさな。腐乱も進んでて……ありゃあ、死後ひと月ってところか」
「ああ、だから断定できないってことですか。なるほどね。西村氏が毒を飲んだっていう証拠は、じゃああるんですね」
「それがな……毒を飲むっつったらこう、湯呑なり薬包紙なりを、呷るだろ。そういうものが出てこねえんだ。その上、体は腐ってるし、実のところ毒死も状況判断すぎない。その点が、似てるんだよな……」
「でも~~、一人で死んでるんですからぁ、やっぱり自殺ですよぉ」
「―――ありましたよ、これ。やっぱり西村さんが買ってました。アコニチンも買ってますね。おや、どうしました?」
そこへ状況を知らぬ丹羽がやってきた。どうやら帳簿で販売の記録を見ていたらしい。自宅で変死したと聞いても、彼はどこか疑わしげだった。
「え、まさかこれらを自殺用に買って行ったとでも?」
「そういうことはぁ、しそうにない人だったということですか~~?」
「それもありますがね。どちらかというと新薬の生成に熱心だった人ですからね。鼠はきっと、実験のためなんでしょうけど」
「そんな野郎が、どうして辞めたんだ?」
「辞めたって、言うんですかね、あれは……」
丹羽は刑事二人に煮え切らないような顔を向けた。
「突然、来なくなったんです。うちじゃあ研究員は自宅に持ち帰っての研究も許可されてますから、何日来なくても割と許されるんですが、西村さんは無断でね、何も言ってこない。呆れて所長が自宅へ行くと進言したところで、奥様直々に馘首ってわけですよ。まあ所長も指示なんか仰がずにさっさと行ってればよかったんでしょうが、従業員の住所なんかは全部奥様が管理するようになったからなあ。それも無理な話なんですが」
「住所ならここに書いてあるじゃないですか~~。これ見ればよかったのに~~。あなた、行こうとは思わなかったんですかあ?」
「いや、私は全く、付き合いもなかったですし……それにこれ、西村さんに販売したのは私じゃないですよ。私はただ帳簿の履歴を見ただけで」
「妙な話だな。誰かに恨まれるようなことはないのか?」
恣意的な連続殺人を疑っているらしい小出毬の問いに、丹羽はありえないとばかりに手を振った。
「そもそも研究所では、誰とも一言も口をきいていないような人でしたからね。恨むどころか親しくしている人だっていたかどうか。芸者に貢いでいることだって、酔った折に偶然聞いたばかりで」
「じゃあ~~、やっぱり、客同士のいざこざじゃあないですかぁ? 隣の婆さんも言ってたじゃないですか。出入りするのは行商の婆さんだけだったって」
「だが奴は、家の中で死んでたんだぞ……争った形跡もない……」
小出毬は犬のように低くうなった。自殺する理由もなければ殺される理由もない。自然死というにも不自然な死に方をした男だが、和泉の言うように客同士で争ったにしても毒殺となると相当深く恨まれているはずで、そんな相手を人付き合いを嫌っていた男が自宅へと入れるはずもない。
彼はどうやって死んだのか。深まる謎に、思わず緋鞠はぽつりと独り言をつぶやいた。
「あやかしの仕業じゃあ、なくって?」
「え?」
その上、ちらりと酔夢を伺った。刑事らは突拍子のないそれにきょとんとしている。だがあやかし探偵として名をはせる男は彼女を一顧だにせず、丹羽の持ってきた帳簿を見ているだけだった。そのうちに、和泉が噴き出し小出毬は渋面を作った。
「ちょっと~~、あやかしってそんな、子供の戯言じゃあるまいしぃ」
「おい、よせ」
「だって、うぷぷぷ」
「関係ないですね。大方、失恋のショック……痛手のせいで、突発的に死を選んだのでしょう。手近に毒もありますし。奥様の方はいくら昔貢がれたとはいえ、無断で欠勤し続ける男を雇う義理などないと思われたのでしょう。経営者として当然ですね」
「失恋~~? ぷぷっ」
「ご結婚されたのが今になって効いてきたというところでしょう。さあ緋鞠さん、そろそろ行きましょう。もうここに用はありませんから」