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「ただいま帰りました」

 やっとのことで家に帰り着いた緋鞠を、いつものように焚かれたほのかな香の匂いが包んだ。ぐったりと疲れていたが、まだ倒れ伏してしまうわけにはいかない。そんな彼女にいの一番に駆け付けたのは、下女の聡子である。

「まあお嬢様! 遅いから心配していたんですよ。……あらま、そちらは?」

「玲於奈さん、いらっしゃる?」

 聡子には笑って答えず継母の所在を聞く緋鞠だったが、それを聞きつけたかのようにゆっくりと玲於奈が姿を現した。

「……まあ、遅かったのね。心配したわ」

 玲於奈はじろじろと緋鞠の全身を見回して、一瞬舌打ちでもしそうな顔を見せたがすぐに笑顔を張り付けた。忍者のごとき移動方法のせいで少し髪が乱れている他は、先刻の手首の腫れくらいで大して変わり映えしていないはずだが、それが何か気に障ったのだろうが。

 この前のことから、緋鞠は彼女にどう接していいか分からなくなっていた。あやかしに操られているとしても、少なくとも今までのように、無邪気に継母として懐くことはできかねた。笑っていても、いつまた怖い顔に豹変するか知れないのだ。

 玲於奈の傍には下女の奈々子がつき従っているだけで、重森の姿はなかった。この場であやかしであることを見抜かれれば、それで終わると思ったのだが。

「ところでそちらは、どなた? 雨にでも降られて、雨具でも借りに来られたの? それとも迷子の異人さん?」

 雨の気配などどこにもないのに、緋鞠の隣に立つ酔夢をそんな見下げた風に言うのは、無関係な奴はとっとと出て行けと言う意思表示だろう。だがそうはいかない。送ってもらった上に助けてくれた人なのだから相応のお礼をせねばと彼を見た緋鞠は、紹介に間が開いてしまった。

 何せ酔夢はじっと玲於奈を見ていたからだ。一方で玲於奈も、一身に視線を注がれて、まんざらでもない様子だった。照れたように口元に寄せた彼女の手には、どこかで見た指輪がはまっている。

(まさか、玲於奈さんに惚れてしまったのではないでしょうね? ……そんなの駄目よ)

 身の内に暗雲が立ち込めるのを感じた緋鞠は、気が付くと勝手に口を開いていた。

「こちらは、あたしの婚約者よ。あたし、この方と結婚するわ」

「……なんですって?」

 途端に玲於奈の顔つきが般若に変わった。隣で酔夢も面喰らっている。嘘だとしても、事前に何も打ち合わせしていないのだから当然だろう。だが彼は彼で何かを感じたらしく、彼女に合わせてくれた。

「鬼生田と申します。突然のことで申し訳ありません。緋鞠さんとは少し前からおつきあいをさせてもらっております」

 やはり名乗る声は消え入るように小さかったが、変貌した玲於奈を見れば聞こえていることは明らかだ。それに、嘘は言っていない。だが聞く方にはよもや、少し前が今日中のこととは聞こえないだろう。玲於奈は柳眉を逆立てて、緋鞠を睨みつけた。

「そんな人がいたのね。だから見合いを断っていたの。なんて子なの! こんなどこの馬の骨とも知らない怪しい男と、よくも……! そんなふしだらな娘だったとは思わなかったわ! 女学校卒の才媛も形無しじゃない、失望したわ。萬里小路家との見合いは最後の機会だったのに、莫迦な子!」

 その言葉は緋鞠こそが彼女に言いたいことだった。先にどこの馬の骨とも知らない男とねんごろになったのはどちらだ、と。父の忌が明けないうちから早々にふしだらな関係になっていたのは、玲於奈の方ではないか。

 だが彼女がそれ言う前に、玲於奈の矛先が緋鞠から酔夢へと移っていた。

「それともあなたがこの子を誑かしたの? まだ子供だから騙せるとでも思ったのね! あなたも融資とか言って集る気なのでしょう! お仕事は何をなさって?」

「教師です」

「あら、随分とお固いの。でも、見えないわね。ふん、だからって簡単に結婚を許すとでも思って? あなたがどこのどんな方なのか、きちんと調べさせていただくわ。高之城の財産は私のものよ、一銭たりとて恵んでやるものですか。あの人が私だけに残してくれたものなんですからね」

 捨て台詞のように言って玲於奈は身を翻したが、どうやら職業を聞いて少し印象を変えたようだった。それについて意外に思ったのは緋鞠も同じだった。興味深そうに居残った聡子に聞こえないように、ひっそりと囁く。

「先生だったの?」

「過去形です。死ぬ気でいたので退職してしまいましたが、高校で教えていました」

「こうこう? よく分かりませんけれど……高等学校のことですの?」

 すると教師と雖も相当上級に位置するのではないか。だが緋鞠の驚きが的外れであるかのように、酔夢は「誰でもなれますよ」なとど言って笑っていた。つまり未来ではそうなのだろうが、とても想像がつかない。

「あの、お嬢様……お食事は済まれましたか。それに、このようなところでいつまでもお話されるのは……」

 そこへおずおずと、聡子が割って入ってきた。彼女としてはさっさと緋鞠を自室へと押し込め、休みたいのだろう。察した酔夢が帽子のつばに触れて去ろうとする。

「それじゃあ僕は、これで」

「待って。駄目よ。婚約者なのだから……聡子、お部屋を用意できるかしら」

「え、は、はい。ただ今」

「えっ、待ってください」

 酔夢が慌てて呼び止めたが、聡子が支度のために走っていく方が早かった。

「どういうことですか。泊まれとでも?」

「そうよ。婚約者として継母(はは)に紹介したのだもの、構わなくてよ」

「だってそれは、姑息な方便でしょう」

「帰られては困るわ。まだ話があるもの」

「……依頼のことですか」

 おそらくここで帰せば二度と会えなくなるだろう。彼は己が探偵ではないことをさんざんに説明したし、あやかし退治できないことも緋鞠は聞いてしまった。本来の目的も。

 こんな嘘につき合わせることも本分ではないと分かっている。だがそれでも、これきり別れるのは嫌なのだ。

 すると酔夢は、苦笑を浮かべた。

「そんな風に一生懸命止めなくても、このまま姿をくらましたりしませんよ」

「え、なぜ?」

「まったく、なぜなんでしょうねえ。僕は運命というものは信じていないんですが。しかし天狐がいる以上、信じないわけにはいかないようだ。先刻の女性ですが」

「……玲於奈さん?」

 緋鞠としては彼女がここで浮上することに眉を潜めるしかない。もしかしたら彼が去らない理由がそこにあるかもしれないと思うと、心穏やかでいられなくなるからだ。

 ともすれば頬を膨らめそうになっている緋鞠に、酔夢は自らの手を掲げて指し示しながら、衝撃の事実を述べた。

「彼女がしていた指輪がありますね。あれこそが、玉藻石です」

「―――えっ!?」

 言われて思い返してみるが、取り立てて禍々しい石であるとは思えなかった。ありふれた小さな赤い宝石が、一つ台座に乗っている程度の感想だ。むしろ華美な宝飾を好む玲於奈の趣味には合わない、地味で安物めいた指輪だった。

「あれを奪うためにはまあ、この家にどうにかして入り込む必要を感じていたので、渡りに船といえばそうなのですが、しかし……それでも、感心しませんね。嫁入り前のお嬢さんが、よく知らない男を泊まらせるのは」

「よく知らなくはなくてよ」

「……まあ、そうですね。素性をすっかり話したのは僕でした。しかし怪しいというのはあの女性の言う通りです。彼女はずっとあの指輪を持っていたのですか?」

「いいえ、今初めて見たのだけど……」

 そこへ支度を終えた聡子が戻ってきたので、聞いてみた。案の定、裏事情に詳しい彼女は承知のことだったが、もう一度緋鞠は驚く羽目になる。

「あの指輪は、重森様からいただいたものだそうですよ。なんでも、お母上の形見だとか。でも奈々子さんが、奥様の方が似合うなんて助言したせいであっさり手放したそうです」

 そう言えば彼は小指に似合わない指輪をしていた。その宝石の色までは覚えていないが、聡子が言うならもともと彼のものなのだろう。だがその肝心の重森はというと、静岡まで出張だとかで、戻るのは明日になるらしい。

 用意された部屋へと案内するさなか、そっと緋鞠は酔夢に耳打ちした。

「ねえ、玉藻石って、普通の人は触れないのじゃなくて?」

「触れませんよ、石にはね。でも指輪にまでなってますからね……しかし驚いたな。石があるということは、もしかしたら本当にあやかしが引き寄せられているかもしれませんね、ここには」

 そのあやかしとして最も疑わしい男が今日はいないのが悔やまれた。とはいえ酔夢は、石を手に入れる以上のことをするつもりはなさそうだが。

「あやかしって、見たら分かって?」

「難しいですね。うまく隠しているのが普通ですから」

「ではあなたを見たら、途端に怖がって逃げてしまうなんてことはなくって?」

「沙璃の流言を彼らが聞いていないとは思えませんが、僕の狙いは退治ではありませんからね。人の目に映る情報以上は得られないでしょう。用心棒役はできません」

「こちらのお部屋です」

 先導している聡子に部屋を示されたため、それ以上こそこそと話し続けることはできなかった。

「ねえ、お願いよ。あたし、できることはなんでもするから。だから、何も言わずにいなくなったりなさらないで」

「心得ました。大丈夫、あなたを裏切ることはしません」

 聡子には、睦み合う男女に見えただろう。実際半分ほどは緋鞠もそれに近い感情をぶつけてはいるのだ。だが内容はといえばもっと乾いた、実務的なことでしかない。夜半に盗みが成功してもいなくなるなと、彼女は告げているのだから。

 そっと酔夢が障子の向こうに消えるのを待って、緋鞠は聡子を従えて自室へと向かった。


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