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 酔夢の編み上げの先が、こつんと何かを蹴り上げた。石かと思ったがよく見るとそれは、緋鞠が落としたがま口だった。中の様子に変化はない。

「とても信じられないのだけれど……」

 それを拾い上げながら、緋鞠はおずおずと、振り返った。あまりに現実離れしていて、まだ話が飲み込めていない。それでも何か言わなくてはと、必死で言葉を紡ぐ。

「そんなことべらべらと話したら、大半の人に狂人だと思われるでしょうに」

「僕もそこは選んでいますよ。誰彼構わずは、さすがにね」

 酔夢は肩をすくめた。その言葉に緋鞠は、胸が熱くなるのを感じた。

(あたしは、あなたに選ばれたの? 信用してくれてるってことかしら)

 まだ出会ってさほど時間が経っているわけでもないのに、まるで好印象を残しているかのような彼の言葉に、胸の高鳴りを押さえることはできなかった。

 だが一方で、彼がその狂人でないという証拠もない。またそうでなくとも、嘘で担がれている可能性だって捨てきれないでいた。

 しかし酔夢の澄んだ瞳を見れば、狂ってなどいないことは明らかだ。ならば嘘でない証明はどうしたらできるだろう。見知らぬ小娘を騙したところで得られる利益などたかが知れていると思うのだが。実家にしたところで資産のすべての権利を玲於奈が持っているため、緋鞠が自由にできる分などないのだ。取り入るなら玲於奈の方だろう。だからこそあやかしに憑りつかれたのだろうが。彼女は哀れな被害者なのだ。

「何か証拠を見せてくださらない? あなたが未来から来たと言う」

 信用を勝ち取っていてもなお証拠を求めたのは、未来が分かるなら対策を立てて何とか生き延びなくてはと小娘ながらに知恵を働かせたためだった。高之城家の行く末を本当は知りたかったのだが、酔夢は困ったように眉を下げた。

「証拠……ですか」

「いいえ、疑っているわけじゃあないの。ただ」

「分かりますよ。そりゃあとんでもない話ですからね。まあ僕も信じてもらわなくたっていいんですが」

「違うわ。信じたいの。だから」

「うーん……困りましたね。大正時代には詳しくないんです。ちょっと考える時間をもらっていいですか?」

「ええ、もちろん」

「できればそちらから質問していただけるとありがたいのですが……」

 時間が欲しいと言われたのが嬉しくて、思わず緋鞠は微笑んでいた。その答えを聞くまでは少なくとも一緒にいていいと言われたように思えたからだ。相変わらず暗くて冴えない田舎道だが、足取りも自然と軽やかになる。靴擦れだって気にならない。

「やっぱり、その呪いの元凶となる方を殺しにいらしたの?」

「おや、結構はっきりと言いますねぇ。しかし違います。それは、『できない』んです」

「どうして? さっきの力があれば可能なのではなくて? それとも、殺すなんて恐ろしい? その方、今御幾つなのかしら」

「四つか五つですね」

 たとえば力などなくとも、凶器を手に取れば害することは可能だろう。年齢差にしても、明らかに勝っている。それとも幼子を殺めることに抵抗があるのだろうか。

「幼い曾祖父と、会えば会話することも可能でしょう。頭を撫でたり抱き上げたり、その上で首を絞めることだってできます。しかしそれで未来を変えることはできないのです。何らかの力が働いて死なないか、仮に死んでも僕が戻る未来では、曾祖父が生きていた元の世界の延長になり僕は腐って死ぬ運命。一方では分岐の末に、僕がそもそも生まれない並行世界が生じるだけです」

 それらの現象をタイムパラドックスというらしいが、緋鞠にはよく分からなかった。歴史に矛盾が生まれて、そのねじれを質すための別の世界が必要になるという。考えるだけで頭が混乱し、煙に巻かれているかのようだ。

 ただはっきりと理解できたのは、未来人の彼は過去に手を加えて歴史を改竄することができない、ということだった。確かに先祖を殺したら、今ここにいる彼はどこから生じたのかという矛盾が湧いてしまう。

「何にでも触れることはできますが、僕のこれはタイムトラベルに該当するものではないようです。つまり肉体は現在に置いてきぼり、この姿は仮のものというか、魂の具現化だそうで、残念ながら僕自身でそれを確認することはできません」

 鏡などに姿が映らないだという。先刻触れた掌は人以外の何者でもなかったのに、それではまるであやかしそのものだ。だがやはり緋鞠には、酔夢がそのような悪の存在には見えない。その程度がなんだという気になってくる。

「でも、とても素敵だわ」

「今の話がですか?」

「いいえ、あなたの姿が」

「……そうですか? そんなこと言われたのは初めてですが、それは……褒められているのでしょうかねえ」

 魂が美しいと言われてもピンとこないのが普通だろう。だが照れたように頬を撫でる酔夢はまんざらでもなさそうだった。臙脂色を纏っているのは少々派手好みだと思うが。

「あなたの話を聞いていると、やっぱりあやかしはいるってことになってよ。それなのになぜ最初に否定なすったの?」

「だいたいの事件で、犯人はあやかしじゃあなかったからですよ」

「でも、あやかしはいるわ。そうよね?」

「君を脅かしているものは―――」

 不意に酔夢が足を止め、じっと緋鞠の顔を覗き込んだ。彼女の狼狽など頓着せず、観察する目が射抜いていく。

「あやかしではないはずだ。ただ君が、あやかしだと思い込んでいるだけで」

「そ、そんなはずないわ。だって玲於奈さんが変わってしまったのは、あの男が来てからだもの」

「君にはあやかしにまとわりつかれている者特有の暗さがない。言い直せばそれは君以外に害をもたらしているとも言えるが……玲於奈さん、とは?」

「私の、義理の母よ。父の後妻で」

 姿勢を戻した酔夢が歩き出したので、緋鞠も慌ててついて行く。

「その方に、あやかしが憑いている?」

「そうよ。そうに決まっている」

 しかし酔夢はそれ以上詮索してこなかった。緋鞠としてはもっと聞いてほしかったのだが、興味を持たれていないことを話す気にはなれず、口を噤むしかなかった。

「何を言っても影響がないのなら、どんな未来だって話してもいいんじゃなくて?」

 だが緋鞠は黙っていられなかった。無言で歩き続ける位なら何が何でも会話を続けたいと思ったのだ。そうして少しでもこの男の情報を得たいと。もはや高之城家の行く末のことなどどうでもよくなっていた。ただ会話できればいい。内容なんて、なんでもいいのだ。時を共有していると実感できれば。

「証拠のことですか。しかし本当に僕は詳しくないのですよ。地震や戦争が起きることは分かってますけど、正確な時までは……その、恥ずかしいんですけど日本史は苦手でしてね。特に近代ともなると学ばせたくないのかってくらい駆け足になるものですから」

「まあ。そんな詳しくない時代に飛ばされたのはどうして?」

 緋鞠と目を合わせないようにしながら帽子のつばをいじる酔夢は、本当に恥ずかしそうだった。不勉強だと言うが、今の世が『近代』にくくられているということは、そう先の未来から来たわけでもないようで、少し安心するとともに、恥ずかしがる酔夢の様をかわいらしく思う。見た目は緋鞠よりずっと年上の大人の男性なのに。

「呪いを解いてもらうためです。沙玖蓮天の指示に従って玉藻石を集める。なぜこの時代なのかは、彼女に聞かないと分かりません」

「その石は、見たらお分かりになって?」

「沙玖蓮天の監視の目が僕を経由して見ていますから、分かりますよ」

「天女様が実際にお越しになればよいですのに」

「彼女にもいろいろ制約があるようです。それに石に触れてもなんともないのは、どうやら殺生石の呪いが完全に無効化されている時代の人間でないと難しいらしくて。君も信じているのでしょう?」

 明治の初めでもない大正の世ともなれば、暗闇はあちらこちらで消されて亡き者にされている。あやかしを信じない輩も多くなっている。だが皆、まだそれらが蠢いていることを肌で感じているのだ。口ではどうとでも言える。思い込むこともできる。しかしいると思うからこそ「いない」と声高に叫ぶ。怯える犬が良く吠えるように。

 そんな風に無理に体に教え込まなくても、いずれ本当に信じられなくなる時代が来るのだという。きっとそこでは影すら闇ではなくなっているのだろう。それこそが彼が未来から来た何よりの証拠ではないだろうか。

 不意に緋鞠は、己の普段にあるまじき積極性の正体に気づいた。彼はいずれ役目を終えたらこの世界を去り、二度と会えなくなるだろう。長くは共にいられない、無慈悲な時の経過に焦りを覚え、その限定的な逢瀬をはかなんでいたに違いない。

(でも……あたしと会ったことで、もしかしたら未来は、変わったのではないの? それともこれも、歴史の流れの中で最初から決められていたことなのかしら)

 自分の未来はまだ白紙だと思っている緋鞠には、到底考えの及ばないことだった。自分がこれから何をするのかも分かっていないのに。

「石が見つからなければ、あなたはずっとここにいられて?」

「さて、探索場所を移されるでしょうがね。見つかるまで僕の未来が先に進むことはないんでしょう」

「天女様は、あなたが絶対に役目を果たすと分かっていらっしゃるのね」

「それが僕の運命だと、言うことらしいです」

 おそらくどんな時代であれ制約なく移動できる天狐にはきっと、酔夢の寿命が尽きた先にどんな歴史が続いて行くのか知っているのだろう。酔夢が、緋鞠亡き後の世界を知っているように。

 彼女は、自分を恥じた。既に作られた道を歩かざるを得ないのは、彼女だけでなく彼も同じなのだ。少なくとも、天狐にとっては。勝手に理不尽さを感じて嫌なことを言ってしまった自分が情けない。

 石が見つからないということはすなわち、酔夢の肉体の死を意味するというのに。

「ごめんなさい、先ほどの問答は忘れてくださる?」

「え、何か嫌なこと言いましたか?」

 そっと首を横に振る緋鞠の頬を、ほのかな明かりが照らした。いつしか電燈の灯る通りへと戻ってきたようだ。

 職場から帰る時間帯なのか、人通りもある。停車場(ステイション)からは少し離れているが、歓楽街が近いせいか男女の連れ合いもそこそこいて、賑わっていた。Tフォードが騒々しくもゆったりと走る傍を、人力車が駆け抜けていく。

 その時、緋鞠は気づいた。どの男女の連れ合いも、女性が男性の一歩後ろをせかせかしながらついていく。といっても夫婦というより芸者と客といった風情だからかもしれないが、それでも緋鞠は、隣の背の高い男を振り向かざるを得なかった。

 緋鞠よりうんと足が長い。歩幅だってそうだろう。だが彼が彼女より先に歩いていたことはなかった。ずっと緋鞠の速度に合わせてくれていたのだ。それが当たり前というように。

 ただそれだけのことで、きゅっと胸が痛んだ。彼女の視線に気づいてこちらを見た彼は優しく微笑んで、その表情からは予想もしていなかった別れの言葉を無情に紡いだ。

「ここまで来れば、一人で帰れますね?」

「嫌っ、嫌よ。また襲われたら怖いわ」

 思わず緋鞠はインバネスコートにすがりついた。一目のあるところでここまで大胆さをひけらかすのは勇気がいったが、迷いは一切なかった。拳の先の皺は簡単に去らせてなるものかという固い意思を秘めていたが、酔夢はそんな彼女に呆れているようだった。

「こんな衆人環視の中で襲ってくる輩なんていませんよ。そもそもどうして襲われていたんです?」

「あたしは何もしてないわ。全く知らない人だし、たぶん、チンピラに因縁つけられたのだわ」

 誰彼かまわず因縁つけて回る輩がいることは、緋鞠も知っている。虫の居所が悪かったり、訳もなく暴力的になりたかったりと、理由も様々あるだろう。だがあんな人通りの絶えた田舎道で絡まれるなど、不運と言われてもちょっと解せない。

「君のような人に、チンピラがねえ」

 どこか含むような酔夢の言い草に、緋鞠はむっとした。眺めまわす目にも悪意はなかったが、反射的なものだ。

「何よ。そんなにいい女じゃないとでも言いたくって?」

「それについては差し控えさせていただきます」

 唇の前でバッテンを作っているのはどういう意図だろう。緋鞠としてはそんなことはないと否定してほしかったのだが、そこまで優しくされる義理はないかのようで、寂しい。するりと手から臙脂色が滑り落ちていく。今更ながらその恰好、季節的に暑くないだろうかと不思議に思う。

「……仕方ないですね。あと少しだけですよ。家はどちらですか?」

 分かりやすくしょげている緋鞠を、根負けしたように酔夢が促した。どうやらもう少し送って行ってくれるようだ。途端に嬉しくなって顔を上げた緋鞠だったが、その時二人の前に立ちふさがった者がいた。もしや予言通りにまたも無頼者に絡まれるのかと身をすくめるも、それは知った顔の男だった。

「お呼びと聞いて参上しましたよォ、師匠ォ」

 茶屋の前で噂をしていた、狐に似た方の男だった。しかし彼がにこにこと笑いかけているのは酔夢の方で、緋鞠には一顧だにしない。しかも驚いたことに、旧知の仲のようだ。酔夢は困ったようにため息を吐いた。

「確かに呼びましたが、僕は弟子を取ったつもりはないんですがね……」

「逢引とは師匠、やりますねェ」

「やめなさい、沙璃。失礼ですよ」

「……『沙璃』?」

 名を聞いて緋鞠はもう一度驚いた。てっきり女性だとばかり思っていたからだ。しかも揉み手ですり寄ってくるのを、酔夢はどこか迷惑そうにしている。だがいずれにせよ二人が知り合いということは。

(やっぱり担がれたのかしら……)

 そんな疑念を抱くのも致し方なかった。緋鞠がもやもやしている間に、酔夢は沙璃に先刻の暴漢を片付けておくように指示していた。沙璃は酔夢にも劣らないほそっこい体つきで、あの肉厚の男を一人でどうにかできるとも思えないが、何の文句も言うことなくハイハイと頷いていた。

 しかし呼んだというがいつ呼んでいたのだろう。ずっと緋鞠と話していたのに。

「おや、もしかしたらこの男をどこかで見ましたか、緋鞠さん」

 じっとりとした目で沙璃を睨んでいる緋鞠に気づいた酔夢のそれは、演技には見えなかった。その答えを告げたのは沙璃の方だ。

「何、大したことじゃあございやせんよォ。あっしがちょいとあやかし探偵の噂をあのタヌ公相手に話していただけですわィ。何せこちらのお嬢さん、ひどくお困りでいらしたのでねェ。やあ、無事会えて良かった良かった」

「タヌ公って次郎丸(じろうまる)くんですか? 君たち犬猿の仲でしょう。それより、無責任な噂を流されるのは困りますよ」

「やですよォ、あっしは師匠のためを思ってですねェ……おっといけませんや、頼まれごとを片付けなきゃあねェ。そいじゃァ、あっしはこれで」

 沙璃はルパシカの裾を翻らせて、そそくさと去って行った。その細身はあっという間に雑踏の中に消えていき、幻でも見ていたかのような感覚に陥らせた。

「何か、すみませんね。彼はいつもああいう調子なんですが、あれでも僕のために行動しているらしいんですよ。まあ、厳密には僕というより、沙玖蓮天なのですが」

「え。じゃあ、あの方……?」

「彼こそが狐の遣いです。……君を誘導したのは事実ですが、悪気があったり、騙そうと言う気はないはずですよ」

 再び歩き出しながら、酔夢はそんな風に沙璃を庇った。なんだか噂に簡単に踊らされた緋鞠の方が軽いようにも聞こえたが、その彼女とて行きたくてあの神社までたどり着いたわけではないのだ。暴漢に追われなければ、諦めて帰っていただろう。

 しかし改めて考えてみても、妙な感じはしていた。普段、どちらかと言えば出歩くことの多い緋鞠だが、他人が遭遇しているところを目にする機会こそあれど、街中で同じ目に遭ったことはないのだ。モダンガールもモダンボーイも、流行最先端とはいえ世間的にはまだ不良の先駆ぐらいにしか思われていないから、目障りだと思われることはあるだろうけれど。

 そんな風に考えながら歩いていたら、不意に前方から来た人と肩がぶつかってしまった。

「あ、ごめんなさい」

「―――ちょいとお待ちよ、あんた」

 謝って道を譲ろうとした緋鞠だったが、その腕を掴まれた。浴衣姿の女性だったが見覚えはない。だがその手は異様なくらいに強く、思わず痛みに声を上げる。

「あの? 放してくださいませんこと……?」

「高之城のお嬢様だね」

 俯き加減でよく見えなかった女が顔を上げた。その焦点は合っておらず、明らかに正気でない者の目つきに、緋鞠はぞっと背筋を震わせた。それに見られているだけなのに、気分が悪くなるような気配を発している。

 その視界がさっと臙脂色に遮られた。腕の束縛も強制的に解かれる。不浄な気が断ち切られ、気分を持ち直した緋鞠だったが、臙脂の向こうで憎々しげに女が喉を震わせるのまでは、遮断することはできなかった。

「恨んでやる、呪ってやる。高之城家は潰れちまえばいいんだ」

「なんですか、君は。ひどくにおいますね。鼻が曲がりそうですよ」

 言いながら酔夢は後ろ手に、緋鞠の手を取った。そしてえっと思う間もなく一目散に、駆け出した。突然走り出した男女を、行き交う人々が何事かという目で見ていく。彼らの合間を器用にすり抜けながら、酔夢は路地をひた走った。一方引っ張られるばかりの緋鞠は、後ろから足音がついてくるのに気づいて思わず目を向け、後悔した。

 女が浴衣の裾を蹴散らしながら、追いかけてきていたのだ。素足がむき出しになって、モダンガールなど比ではないあられもなさだが、それを気にする気配もない。ひたすらに狂った目で緋鞠だけを睨みつけている。

「ねえ、どういうことなの!? あの(ひと)、人なの!?」

「どういうことかは僕が聞きたいですね。あれは緋鞠さんを追っているんですよ。そして人とは言いづらい。悪霊憑きです」

「だったらさっきの力を使って頂戴よ!」

「人目がありますからね」

 あちらを曲がりこちらを曲がってひたすら女を巻こうとする酔夢だったが、彼女はしつこくついてきた。振りきれないのはきっと、緋鞠というお荷物を抱えているせいだろう。だが彼が手を放せば、緋鞠はあの悪霊憑きにどうされるかも分からない。必死に彼女を守ろうとしてくれるその姿に、そんな場合ではないのに胸がときめいた。

 そしてようやく酔夢が足を止めたのは、袋小路に入り込んでからだった。

「行き止まりじゃない!」

 緋鞠は叫んだが、同時に気づいた。ここなら人目はない。天女から借りている力とやらを、存分に発揮できる。

 だが追ってきた悪霊憑きの前に立ちはだかった酔夢は、くるりと彼女に背を向けた。

「……やっぱり女性は殴れません」

 言うなり、酔夢は緋鞠を抱き上げてその場を跳躍した。一度塀を踏んでからさらに飛び上って、屋根伝いに遠ざかっていく。緋鞠はといえば、あまりの事態に悲鳴も上げられずに喉の奥で空気だけを行き来させていた。

「良かった。あちらも曲芸さながらにぴょんぴょん跳ねて追いかけてきたらどうしようかと思いましたが、ただの人のようですね」

「ただの人ですって?」

 手を触れるのよりもっと、強く近くで酔夢の体温を感じることに、恥ずかしさで破裂しそうになっている緋鞠は、全く熱のこもらない酔夢に若干腹を立てながら怒鳴った。嫁入り前の女性にこんな風に触れ、扱うなど、暴挙にも等しいと言うのに、何も感じていないかのようだ。下ろせと言いたいところだが、忍者のように屋根の上を敏捷に移動している最中なので、それもままならない。

「ご覧なさいな。さっき掴まれたところ、こんなに真っ赤になってましてよ。それにひどく痛みを発しているわ。ただの人にそれができて?」

「悪霊に恨まれる覚えは?」

「あるわけなくってよ。初めてだわ、こんなこと」

「困りましたね」

 不意に彼が立ち止まったのは、緋鞠を下ろそうとしたわけでも、探偵としての労働を放棄するためでもなかった。もっとも婦女子を大胆に抱えることが、探偵の業務に入っているとは思えないが。

「とりあえず、このまま家まで送りますよ。見知らぬ人に二度も襲われるなんて、ちょっと不運にしてもあり得ないので。それで申し訳ないのですが、ご自宅の方角をもう一度聞いてもいいですか?」

 そう言われても緋鞠も俯瞰で街を見たことはないため、方角と言われてもすぐには出てこず、探偵と似たような顔をしてしまうのだった。


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