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 ふわりと臙脂の影が降り立った。インバネスコートが翻り、その手は同色の帽子を押さえている。暗い縞の馬乗袴の下は編み上げだった。硬質な音の正体は、それが鳥居の天を叩いたものだろう。同じ音が降り立った先で聞こえたがやけに軽く、まるで体重を感じさせない。

「てめえ、何者だっ! 関係ねえ奴はすっこんでやがれ!」

「何者と問われましてもねえ」

 インバネスコートの男は困ったような嘲るような笑みを浮かべて、暴漢に向かって降参するように手を掲げた。たったそれだけの動作で、得体の知れなさに警戒心を強めたのか、標的が一瞬で緋鞠からそちらへと移る。

「てめえケンカ売ってんのか! ぶっ殺してやる!」

「申し訳ありませんが『関係ない(モブ)』に名乗る名は持ち合わせていないので、さようなら」

 とん、と彼の編み上げが、隙間から下草が生えひび割れた神聖さのかけらもない石畳を蹴った。次の瞬間、インバネスコートが暴漢の懐にまで達していたと思ったら、そっとその胸を優しく押された暴漢が後方へと吹き飛んだ。緋鞠に殺気を向けていた男は、崩れかけた本殿をさらに崩しながら、崩壊音と共にその先の闇へと消えて行った。

「いけない、間違えてしまいました。吹っ飛ばすなら石段の方にしないといけませんでしたね。二度手間です」

 打ちどころ悪く伸びてしまったのか、暴漢が起き上がって向かってくる気配はない。インバネスコートの男は、背丈はあるものの細身でどこにそんな力があるのかと疑うほどなのに、ほとんど姿勢を変えることなく己の倍以上の厚みの男をあまりに軽い動作で吹き飛ばしたのだった。張り手にしては音がなく、また緋鞠の目にはそのようには見えなかった。いったい何をしたのだろう。

「さて、面倒ですね。沙璃(さり)を呼びましょうか。……君も、こんなところへ来るものじゃあありませんよ。逃げるならもっと人気のある方へ逃げないと」

 唇に人差し指を当てて紡がれた独り言の後半は、緋鞠に向けられたものであった。呆然としていた彼女はそこでようやく、正気付く。靴音を響かせてすぐ側まで彼がやってきたのは、どうやらその奥へと投げてしまった暴漢をどうしようかと思案するためであったらしく、へたり込む彼女を助け起こしてはくれなかった。だがその助言は至極もっともで、また助けられたことも事実だった。

 ほっそりとした涼しげなその横顔は、暴力とは無縁に見えた。それよりも臙脂色を纏う割に、全体的な色素が薄いように思えるのが気になった。幽霊のように透けているわけでも、病人のように不健康に見えるでもないのに、不思議な印象を持つ男だった。

 書生風だが、そんな歳ではなさそうだ。かといっていずれかの労働者とも思えない。いたずらに時を浪費する高等遊民にしては聡明そうなまなざしをしており、思想にかぶれているようにも見えなかった。

 いったい何者なのか。一見しただけでは到底推察しきれなかった。

 得体が知れないという感想に、緋鞠とて反論するつもりはない。だが怖いとは思わなかった。先刻暴漢を退治した時もそうだが、いかにも油断を誘うような優しげな雰囲気を男が纏い続けているせいだろう。この男はきっと彼女を邪険にしない。その確信があったからこそ立ち上がって、声をかけることもできたのだ。

「ごめんなさい、あなたの領域に入り込んでしまって……」

「君は被害者なのですから、謝る必要はありませんよ。こう見えて僕は自分のことしか考えていないのです」

 男はそこでようやく緋鞠の方へと視線を向けて、にこりと微笑んだ。異性にそんな風に笑いかけられたことのない緋鞠は思わずどきりと胸を高鳴らせた。

 彼が言うのは、この神社に入るものを何人たりとて許さず、暴漢と同様の不法侵入たる緋鞠もまた排除対象に含まれると言う意味なのだろうが、だが彼女には、そこまで攻撃的な拒絶としては響かなかった。

 だから緋鞠は踏み込む余地ありとばかりに、普段は全く発揮することのない積極性をここで持ち出した。

「あの、お礼を……お礼をさせてくださらないかしら? 何でも欲しいものをおっしゃって」

 男はすこぶる驚愕したようだ。それはそうだろう、女性側からこんな申し出をするなど、淑女にあるまじきことだからだ。まして彼女は女学校を卒業したばかりで、女性のみに囲まれて育っている。異性といえば父かその部下だが、彼らと関わることはほぼないため、思い切らなかったといえば嘘になる。

 はしたない女だと思われるかもしれない。だがそれでも、ここで別れてしまうことはできかねた。明確な理由と、感情的な言葉にならない理由がそこには、あった。

 男は困惑したように首を横に振った。

「君に要求するものはありませんね」

「でも、何か欲しいものがおありでしょう?」

「確かにありますが、君には」

「助けてほしいのです」

 緋鞠の中にあった微かな疑いが、確信に変わりつつあった。だからこそ前のめりに、男を引き止めにかかっていたのだ。

「あなた、あやかし探偵という方ではありませんの?」

「……どこでそれを」

 ずばり切り込んだ緋鞠に、男は否定を返さなかった。ただぎくりとしたように若干顔をこわばらせて、彼女を見つめた。その目に緋鞠は何やら恥ずかしさを覚えて体が熱くなったが、努めて目を逸らすことはしなかった。

「風の噂で、聞きましたわ。いけなくて?」

 古びた神社。それはまさしく今緋鞠が立っている場所に相違なかろう。このような神に見放された呪われていそうな場所を根城(シマ)にしている者は、そうそうおるまい。それに先刻の、人間離れした出現と、繰り出された技。目の前の男がただの人であるとはもはや、思えなかった。

 あやかしのような。だがそれでいて、悪意を感じさせない。重森のようにねちっこくいやらしい気配を発していたりしないのだ。

 この男ならきっと、対抗できるはず。

「あたしは、高之城緋鞠。あなたに依頼したい案件がありますの。お名前、教えていただけて?」

「……鬼生田酔夢(おにうた すいむ)

 彼は妙に小声で名乗った。あまり名乗りたくないのかもしれない。確かに変わった名だと思ったが、同時に素敵だと緋鞠は思った。鬼生田とは言いにくいから酔夢と呼ぼうと勝手に決める。

「さっそくですけど酔夢さん。あたしの家にあやかしがいるの。父を殺したみたいなのだけど」

「ちょっと待ってください、高之城さん」

 慌てて遮る酔夢。緋鞠も負けじと話の腰を折られないように食いついて行く。

「緋鞠と呼んでくださいな。あなたには家に来ていただくつもりですので」

「……緋鞠さん。僕はあなたの依頼を受けるとは言っていません」

「やはり、あやかし探偵なのですね?」

 酔夢はしまったという顔をしたが、もう遅い。その反応は認めたも同然である。

「あやかしが関わっていればどんな事件も解決してくださるのですよね?」

「あやかしなど、気の持ちようなのですよ」

「いいえ、あれはあやかしの仕業ですわ。父は自殺ではなく、自殺に見せかけられて殺されたのですわ」

 あやかし探偵のはずなのに、酔夢はあやかしを否定するようなことを言った。それに、あやかし探偵として緋鞠と接することを厭っているようだ。だが彼こそがその存在であることはもはや疑いようがない。あと一押しが必要だと思った緋鞠は、不意にひらめく。

「探し物がおありなのでしょう? お礼は、それを探すのをお手伝いいたしますわ。それでいかがでしょう」

「いや、そんな簡単に言ってはいけません。どこにあるともしれぬものです、君を巻き込むわけには」

「巻き込んでくださって結構ですわ」

 むしろ本望だとは言わなかった。さすがに大胆にすぎる。だが本音でもあった。それが探し物であるなら、体だろうと魂だろうと譲り渡すつもりだった。

 酔夢はため息をついた。だがそれは、緋鞠のはしたなさをたしなめるためではなかった。

「僕は、探偵ではありません。大方、沙璃辺りが適当なことを吹聴しているんでしょう。困ったものです」

「探偵じゃないなら、何ですの? あやかしが関わる事件を解決するんじゃなくって?」

 彼が探偵を否定したことよりも、緋鞠は彼の口から飛び出した名に眉を潜めた。誰だろうか。先刻も口走っていた。響きの綺麗さからは、女性を連想させた。そんな想像をするだけで、確定したわけでもないのに気が重くなってしまう。

 だが酔夢はそんな緋鞠の気持ちなど知った風でもなく、困ったように首を横に振った。

「それは結果としてそうなっているだけなので、僕に任せたら安心という認識は捨ててください。謎解きなんて、できませんから」

 緋鞠は彼が、あやかし探偵として縋りついてきた彼女を引きはがす方向へ持っていこうとしていることに気づいた。やんわりとした拒絶。だが彼女には、安易にそれに乗るわけにはいかない理由があった。せっかく巡り会えた頼みの綱だというのに、ここで手を放したらもう絶望しか待っていない。

「でしたら、謎なんて解かなくて結構ですわ。ですからどうか、あたしの家に巣食うあのあやかしを退治してくださいまし! できることなら何でもいたします。ですからどうか、見捨てないでくださいな……」

 父を、あのあやかしが殺したことは、もうどうしようもない。今更明白な証拠を突きつけたところであやかしを逮捕できるわけもないし、罪を償わせるなど途方もない話だ。だがあやかしを、重森白夜を追い出すことができれば、操られて無茶ばかりしている玲於奈もきっと元に戻るはずだ。このままあやかしに、家の中を、そして父の会社をぐちゃぐちゃにされるのだけは、許せない。

 あやかし探偵という存在は、闇の中で見つけた救いの光にも等しいのだ。

「僕が探しているのは、玉藻石です」

 彼女の必死さが伝わったのだろうか、酔夢は迷うように、ぽつりとそれを口にした。言わずにいられるならその方が良かったのだがとでも言わんばかりの、消極的な口ぶりだった。が、唐突なそれに力むのを忘れて束の間ぽかんとする。

「玉藻って、九尾の狐? あれは殺生石と言うのではなくて?」

 緋鞠が知っていたのが意外だったのか、酔夢は少しだけ嬉しそうだった。たったそれだけの反応で頬が熱くなる彼女に、彼はさらに重ねていく。彼女を喜ばせるのとは逆方向へ働きかける言葉を。

「栃木や愛知にあるものとは違い、さらに細かく散ったものをそう呼ぶようです。あれは災いを招く。あやかしも引き寄せる。だから『あやかし探偵』なんて呼ばれてしまう……つまりその呼び名は、現象の結果に過ぎないのです」

 酔夢は、謎解きも、またあやかし退治もできないと言うのだった。彼はただそう呼称されているにすぎず、実力は伴っていないのだと。

 希望を打ち砕かれた緋鞠は、失望を隠すことができなかった。悄然と肩を落として、けれどもう用はないと走り去ることもできず、ただ茫然として男を見上げた。申し訳なさそうな目が彼女を見下ろしていて、泣きそうになってしまう。

(そんなお顔なさらないで、あなたが悪いわけじゃあなくってよ)

「なぜそんなものを探しているの?」

 だが彼女の口から飛び出たのは、なおも彼のことを知りたいと言う欲求だった。浅ましい己に嫌気がさす。しかし酔夢は嫌な顔一つ見せず、飄々とした態度で答えた。

「欲しがっている人がいるのです」

「……それと引き換えに、あなたは何をもらえて?」

 その人とは、女性ではないかと緋鞠は邪推した。だが女の言いなりになっている情けない男だと思っても、彼のことを嫌いにはなれなかった。むしろ無茶な要求を突き付ける女を憎たらしいとまで思った。何様のつもりなのだろう。かぐや姫にでもなったつもりなのだろうか。しかしそれなら……彼は彼女の愛を得るために奔走していることになる。その想像は、緋鞠を俯かせるものでしかなかった。

「暗くなってきましたね。大通りまで送りましょう」

 酔夢は緋鞠の問いには答えず、彼女を促して古びた神社を共に後にした。確かにいつしか日は落ち、遠くの空が紫色になっている。街灯のないこの辺りを歩くには手持ちの明りが必要になるだろう。今ならまだ何とか、見えるけれど。

 とぼとぼ歩く緋鞠の隣で、臙脂の裾を揺らしながら歩くのが視界の端に見えた。昼は目立つ色だが、夜の闇には抗えないだろう。薄暗がりの中を一人で歩くのが心もとなくて、幼子のようにその裾を掴んでみたかった。彼はどんな顔をするだろうか。もちろん、実行には移さないけれど。

 まるでその想像が霧散をするのを待っていたかのように、しばしの無言の後、酔夢がゆっくりと口を開いた。

「僕は彼女の手足にすぎません。僕自身が石のありかが分かるわけじゃない。この町へ来たのも彼女の命令なんです」

「彼女、彼女って、あなた」

 意思がなく、それほどの仲なのだと言わんばかりの言いざまに苛ついたが、当の酔夢は知ったことかと言う風にさらりとその名を口にする。

「彼女の名は沙玖蓮天(さくれんてん)天狐(てんこ)です」

「……は?」

 思わず間抜けな声が出た。隣を仰ぎ見るが、ふざけている様子はない。真面目な横顔が存外に素敵だという印象を受けただけだった。

「ええと……天狐って、狐が千年生きて、神様になったっていう……確かそれも、九尾じゃなくって?」

「天狐は悪さはしません。神様というか、天女ですから」

「じゃああなた、狐の遣い?」

「一応、人ですよ。こちらに来る間だけ、特殊な神通力を彼女から少し借りていますが」

 先刻見たのはそれだと言う。成程と思う一方で、酔夢が何だったら触ってみるかとでも言うように手を広げていたので、迷いもせず緋鞠はその手を掴んだ。驚いたのは酔夢の方だった。

 温かい人の手である。彼女の小さな手など容易く包んでしまう大きさは父を思わせたが、武骨なそれと違いもっとずっと繊細だった。それでも節くれだっていて、女性のものとは明らかに異なる。何しろ柔らかさが皆無なのだ。

「で、でも、あの、現実の僕は死にかけてるんです。玉藻石の呪いで」

 常にない大胆さをいかんなく発揮した緋鞠だったが、どぎまぎしながら酔夢が手を引いた後は、目も当てられないほどの恥ずかしさしか残っていなかった。なんということをしてしまったのだろう。仮にも令嬢として育てられた者のすることでない。

 だが後悔はしていなかった。もっと必死になるべきだと、本能が呼びかけているせいだった。それは家に巣食うあやかしの問題とは別の部分から発生しているようだ。

「現実? 何を言っているの?」

 今現在、酔夢が死にかけているようには見えない。どういう意味だろうか。

「たぶん、この時代にいるはずなんです。僕の先祖にして元凶。あやかしにかぶれた末に実家を勘当され、蠱毒を作って呪詛返しに遭い、子孫が彼の死んだ年までしか生きられない呪いをかけられた曾祖父が……僕の父も、祖父も、体中が腐り落ちる謎の奇病で亡くなりました。そして今、僕も死の床にいます」

「え? それって……つまり? 未来から来たとでも、言うの?」

「残念ながら、その通りです」

 緋鞠は冗談で言ったつもりだったのに、肯定されてしまった。真面目に頷くその顔には、冗談など一片足りとて混じっていなかった。


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