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次はない。その言葉は緋鞠に刺さり続けた。いつ玲於奈がその話を切り出してくるか分からず、たまらなくなって彼女は家を飛び出した。令嬢として育てられた彼女に、この家以外で生きていくすべなど見つけられるはずもない。
だが逃避で向かった先の馴染みのダンスホールでは、出入り禁止を告げられた。理由は告げられなかったが、玲於奈の手が回っていることは明らかだった。
(どうしてこんなことになってしまったの……)
他のカフェーやらパーラーやらに行く気にもなれず、とぼとぼと緋鞠は道を歩いていた。モダンガールの服装は今日も隙なく決まっていたが、衆目を集めても何ら心地よさを感じられない。それどころか、何もできない小娘が歩いているぞと嘲笑されているかのように思えてくるほどだった。緋鞠は足早に、だがどこへ向かうでもなくひたすらに歩き続けた。
緋鞠の足は自然と、これまで立ち寄ったことのない農村部へと向かっていた。都市部しか愛せない彼女に田園風景はつまらないものとしか映らなかった。だが今は、どうでもよかった。ただ知っているところから逃げたかったのだ。
そろそろ足が草臥れてきたと思った頃、視線の先に昔ながらの茶屋が開いているのを見つけた。たまにはこういう店もよかろうと、彼女はふらりと中へ足を踏み入れる。踵が痛い。新品の靴があまり足に合っていないようだ。ぴかぴかに磨かれたそれをいつどこへ穿いて行こうかと胸を躍らせていたはずなのに、どうしてわざわざ今日選んでしまったのだろう。しかもすぐに汚れてしまいそうな田舎道を歩いてしまって。
しかし今はそんなことは些末事に思えた。泣きたかったわけではないが、注文した茶にも饅頭にも手を付けられず、緋鞠は両手で顔を覆った。
(玲於奈さんがあんな風になってしまうなんて……お父様が生きてらした頃は、穏やかで素敵な方だったのに)
それだけ父の死が衝撃を与えたということだろう。だが突然贅沢をし始めたり人事に口出しするようになったのはどういうことだろうか。それはあまりにも玲於奈の元の像から離れすぎているように思える。見合いの件もある。
(やっぱり……あの男のせいね)
重森白夜。聡子より伝え聞いた話では、どうやら経理のみならず経営の方にも口を出しているらしかった。そんな権限はないはずなのに、玲於奈の盾をまんまと使って。
否。
いかに文明開化がなされたとはいえ、封建制度まで廃れたわけではない。女性の身で、しかも血族ですらないのに軽々と一族の頂点に立てるはずもなく、また立ったところで容易に親族らの反発を封じることはできまい。
つまり彼女は飾りに過ぎず、真に命令を下している黒幕は重森なのだろう。表向き玲於奈を盾にしているようで、実のところ彼女は単なる蓄音機に過ぎないのだとしたら。
もしかしたら最初からそのつもりで彼女に近づいたのかもしれない。そうなると、父の死すらも怪しく思えてくる。自殺などするはずのない者の死。玲於奈の言うとおり、あやかしの仕業だとしたら。
(あの男こそが、あやかしなのではないの?)
その時漸く緋鞠は、重森の妖しげな美貌に気づいた。男にしてはやけになよなよしているくらいにしか思っていなかった彼女だったが、彼のその姿は人のものとしては十分に疑わしい。その顔をもってして玲於奈を誑かしたのだ。その考えに至った時、ぞっとした。
あの男が人ならざる力を使って父を殺したのだ。そして今度は玲於奈を操り、高之城家を潰そうとしている。詳細は知らないが、緋鞠のいないところで叔父が、「高之城の屋台骨は倒壊寸前だ」と嘆いていたのを下女が見ている。玲於奈の分不相応な散財がそれを後押ししているのは明らかだ。工場の閉鎖もそれに先立っているのだろう。
(あやかしに、潰される……?)
緋鞠の震える両手が、湯呑を包んだ。とうにぬるくなってしまっているそれはけれど、もっと冷えている彼女の指先を温めるには事足りた。それでも心までは届かない。
あやかしなど、信じていなかった。街の明かりがガス灯から電気に移り変わろうとしているこの明るい世の中で、闇の眷属たちが徘徊できるはずもないのだ。だが―――。
それはすぐ傍まで、迫っている。明るければ明るいほど影は濃くなり、あやかしが潜むにはそれで十分なのだ。
(どうすればいいの……どうすれば……)
緋鞠にできることなどたかが知れている。彼女は自分の小ささを知っていた。どれだけ自由を謳歌し奔放に生きようと、その手は箸より重い物を持ったこともない、あまりに弱い力しか宿っていないのだ。せいぜいが、足が痛くなるまで逃げることくらいしか。
「あやかし探偵って知っているかィ?」
湯呑を手に背を丸めていた緋鞠の耳にその時聞こえてきた声があった。はっとして顔を上げると、どうやら男の二人連れが店先で話をしているようだった。
「なんや、そいつ。聞いたことあれへんで」
訛りのある狸のような小太りの小男に、ルパシカを着た狐似の男が得意げに話している。あやかしと聞いては聞き流せずに、行儀が悪いとは分かっていつつも緋鞠は耳をそばだてた。
「なんでも古びた神社に住んでるあやかしのような男でねェ、あやかしが関わることならどんな難事件だってたちどころに解決しちまうのさァ」
「アホ言うたらあかんわ。あやかしなんぞおるかいな。どうせ詐欺やろ。高い相談料ふんだくるだけとちゃうんか、そいつ」
「ところがところが、その男には探し物がありやしてねェ。そいつをちらつかせさえすればどんな案件だってタダで請け負うってェ話よ」
「胡散臭いわぁ、探し物てなんやねんな」
「それはねェ……」
肝心のところで話が遠ざかって行ったのは、どうやら二人が歩き出したせいらしかった。いてもたってもいられない緋鞠は追いかけるべく慌てて席を立つと、茶菓子代を机上に置いて、茶屋を飛び出した。
「あら?」
だが二人の姿は既にどこにもなかった。茶屋の前には一本道が左右に伸びているばかりで、あとは田畑しかない。遮る木々とてないわけではないが、こんな短時間で辿り着ける距離にはなく、よしんばできたとしてもする意味が分からない。緋鞠を引っ掛けようとしたのか。
念のため小さな茶屋の裏手も見てみたが、二人の影も形も見つけられなかった。はるか遠くをよちよち歩く丸い影が見えたが、よもやあれではあるまい。
「変ね……」
解決策を切望するあまり幻聴でも聞いたのか。それにしては話をしていた男たちの姿をはっきりと覚えている。緋鞠は首をひねりながら、歩き出した。そろそろ日が暮れる。これ以上進んでも何もなかろうと、家に戻ろうとしていた。暗い我が家を思うと再び足が重くなるのを感じる。
あやかし探偵。いるのなら、是が非でも助力を請いたい。そのための出費なら惜しむつもりはない。どうせ玲於奈と重森に散々吸い尽くされているのだ。だが、必要なのは金ではないと言う。探し物とはなんだろうか。それに住処だと言う古びた神社。
考えてみたが、彼女の知る中にそれに該当する場所は思い当たらなかった。それさえ分かれば、何はなくともとるものもとりあえず、そこへ向かうのだが。
しかし、いかにも怪しい話だ。担がれていたのか、化かされたのか。
少しずつ冷静さを取り戻しながらも思惑に溺れながら歩いていた彼女は、まさしく前方不注意であった。
「きゃっ」
気づいたときには、前から来た男にぶつかっていた。だが男はびくともせず、緋鞠だけが弾かれて後方によろめいた。筋骨隆々たる厳つい男と、折れそうなほど細い緋鞠であったから、当然そうなるだろう。だが。
「いってえええ! 骨が折れたじゃねえか、このアマ!」
男が大仰に叫んで、自らの肩を押さえた。訳が分からず目を白黒させる緋鞠に、彼はなおも喚きたてる。
「おうコラ姉ちゃん、この落とし前どうつけてくれるんだ、ああ? 治療費払ってくれんのか?」
「お、お金なら、差し上げます」
「こんなもんで足りるわけねえだろうが! 舐めてんのか!」
十分だと思うのだが、男は確認もせずに緋鞠が差し出したがま口を叩き落とした。男の大声に圧倒されながらも、どうやら因縁をつけられていると気付く緋鞠だったが、金を受け取ってくれない以上場を治める手段を持てなかった。助けを求めようにも生憎、誰も通りかからない。行きもそうだったが、もとより人通りは少ない道なのだろう。それでよくあんな場所に茶屋を開けるものだと、緋鞠は関係ないことを思った。
「聞いてんのか、てめえ! どうやらこの落とし前、体で払ってもらうしかねえようだな」
「えっ?」
男は最初からそのつもりだったとしか思えない。いかつい手が伸びてくるのを、緋鞠は反射的に避けた。それが男の癇に障ったのか、怒りの形相に染まる。
「てめえ、ふざけてんじゃねえぞ!」
「ひぃっ……!」
咄嗟に緋鞠は、帰るべき方向に背を向けて逃げ出した。その背に男が迫ってくるのを気配で感じる。茶屋まで逃げて助けてもらおうとしゃにむに駆ける緋鞠だったが、どうしたことか走れども茶屋は見えてこなかった。どこかで道を間違えたのだと気付いたのは、全く見覚えのないあぜ道を必死で駆けている時だった。
焦るあまり、視野が狭くなっているようだ。足ももつれる。喉も狭まる。だが男は諦めてくれない。どこまでも緋鞠を追いかけてくる。その背に今や感じているのは、殺気だった。そんなものこれまで触れた機会などないのに、はっきりとそう確信した。
乱暴目的だったはずなのに、どうして。そこまで怒らせるようなことをしたつもりはないのに。
だが問いただしたところで明確な答えなど得られるとは思えなかった。それに、そんな余裕はもとよりない。緋鞠はひたすらに、逃げるだけだ。どことも知れない道を延々と、恐怖におののきながら。
(嫌……誰か、助けて!)
そして彼女は、苔むした石段を登る。