15
目が覚めると、病院だった。
「???」
なぜそんなところに担ぎ込まれているのか意味が分からず束の間ぽかんとしていた酔夢だったが、医者によるとどうやら原因不明の集団昏睡事件に巻き込まれたらしいということだった。あの現場に倒れていた人は全員それが理由で、運ばれたらしい。
「君も相当衰弱していたようだが、もう大丈夫そうですね。ところでこの名前は、本名ですか?」
患者プレートにはカタカナで「オニウタスイム」と書かれていた。意識があるやなしやの状態で問いかけたところ、これを名乗ったようだ。酔夢は赤面しつつも肯定した。
「では後程、退院手続きをしてください」
簡単な検診を終えた医者は去って行った。大部屋に入院しているのは彼ひとりのようだ。それでも恥ずかしくなって手で顔を覆う。そこで、気づく。
腐っていた指先が元に戻っている。感覚もある。
どうやら沙玖蓮天が、石を取り戻す代償を支払ってくれたようだ。だが治すだけ治してその場に放置していった結果、ここに運ばれる羽目になったのだろう。アフターサービスという概念はないようだ。
それに、お願いごとをしてしまった代償の支払いもある。いったいどんな無茶ぶりをさせられるのだろう。
……怖いが、まあ、仕方ない。
「失礼、オニウタさん? ちょっとお話よろしいですかねえ」
着替えようかと、ベッド横の備え付けチェストに綺麗に畳まれている衣服に手を伸ばそうとしたところで、酔夢は声を掛けられた。見ると病室に、男が二人入ってきた。
「えっと……あなた方は?」
「警察です」
手帳を出して身分を明かす彼らを見て、酔夢は一瞬ぎくりとした。小出毬と和泉に似ているように思えたからだ。だがよく見れば厳つい風貌と軽い雰囲気の組み合わせというだけで、他に酷似する要素はなかった。名前も西園寺と御処野で、かすりもしない。
「どうかしましたか?」
「あ、いえ、何も」
刑事二人は怪訝がっていたが、職務に専念するつもりのようだ。酔夢としてもできればこんなことでやましい者として記憶されるのは避けたかった。大正の世と違い、ここでは歴史は修正してくれない。
「昏睡に陥ったことは覚えていますか? その前のこととか」
「いえ、全然さっぱり、記憶がなくて」
「そもそも、なぜあんな時間にあの場所に?」
「すみません、思い出せません」
二人は困ったように顔を見合わせていた。事件性の有無を探ろうとしているらしいが、この分では他の者たちも同じ回答しか得られていないのだろう。もちろん酔夢のそれは嘘なのでバレやしないかとひやひやしていたが、彼らは特に追求してくることなく去って行った。
ほっと胸をなでおろすも、今度の偽証は前回のそれとは打って変わって肝が冷えた。しかし真実など言えるわけもない。あやかしの存在など、大正以上にありえないご時世だ。それを目撃した者らが警察に伝えていないのはショックで本当に忘れているせいかもしれないが、中には酔夢と同じ考えて口をつぐんだものがいてもおかしくはない。
「マジで本名だったんだ」
病院服から自分の服に着替えたところで、酔夢は声を掛けられた。だが知らない女性だ。まだ高校生くらいの彼女は勝手に病室に入ってきて、じろじろと値踏みするように酔夢を眺めている。
「あの……誰かな」
「覚えてないの? まあ、自己紹介とかしてないし、しょうがないけどさ」
知らないと思った酔夢だったが、よく見るとどこか見覚えがあり、初めて会った気がしなかった。彼女の上に、重なりそうになる誰かがいる。だがまさかと、酔夢は己の妄想を断ち切った。
彼の葛藤を知らぬ彼女は、改めて名乗る。
「あたし、萬里小路鞠耶。あたしもあの現場にいたんだよ」
「……あ」
緋鞠と連れ立っていた女性である。ギャルっぽい彼女の恰好は入院患者には見えないものの、一応聞いておく。
「君も入院を?」
「あたしはかすり傷だけ。一応検査とかしたけど異常はないから。……でさあ」
あの現場にいたということは、大妖を見ているはずだ。集団昏睡の理由も知っている。その話をするために来たのかと思ったが、そうではなさそうだ。
「本名なんだね。オニウタスイムって」
「ええ、まあ……」
「ふうん」
改めて言われると余計に恥ずかしい。だが鞠耶には別の目的があったようだ。
「じゃあ、一発殴らせてね」
拳を振りかぶると、酔夢が了承を出すまでもなく彼の頬を殴り飛ばした。といっても女性の力だ。痛いというほどの痛みはない。だがこれで驚くなと言う方が無理だった。勢いで彼は、去りかけていたベッドに座り込んでしまう。
「な、何をするんですか」
「報いだよ、馬鹿。人を散々苦しめておいて、よく平然と生きてられるね、あんた。予告してやっただけありがたいと思いな」
強気な口調ながらも殴り慣れているわけではないのか、痛そうに手をさすりながら鞠耶はそう言った。だが酔夢にも、一方的な暴力に文句を言う言い分はある。
「いったい僕が誰を苦しめたって言うんですか。君とだって、ほぼ初対面なのに」
「初対面だって? 思い出さないの? あんた馬鹿なの。ほら、思い出しなさいよ」
鞠耶は少女にあるまじきはしたなさで酔夢の膝を割るようにしてベッドに乗り上げると、ぐいと顔を近づけてきた。人間誰しも知らずに恨みを買ってしまうことはあるだろうが、面識がない者にまで恨まれる筋合いはない。だが、ご覧じろと言われて、身を引きながらも彼女の顔を見つめていた酔夢は、またも奇妙な既視感に襲われた。
見覚えがある。細かなところは異なるのだが、少女の姿には面影があった。彼女の方は忘れてしまっても、彼の方は決して忘れえぬ面影。
「まさか……萬里小路というのは……」
「そうよ。萬里小路製薬。あたしの曾ばあちゃんが嫁いだ先よ」
国内最大手の製薬会社といっても過言ではない。つまり鞠耶はこう見えても大会社のご令嬢なのだろうが、問題はそこではなかった。
そこへ嫁ぐ予定だった者は誰か。鞠耶が似ているのは、誰か。彼女の曾祖母とは、誰なのか。
「君は―――緋鞠さんの」
「曾ばあちゃんはずっと苦しんでたんだ」
だが鞠耶の存在は、予想できていたはずだ。会えるとは思っていなかったけれど。何より沙玖蓮手が、「子孫」という単語をこぼしていたのを、酔夢は聞き逃しはしなかった。あたかも緋鞠がこの現代で生きる運命だと匂わせていたのが、そちらはあくまで仮の話として断定されていなかった。
狼狽する酔夢から目をそらして、鞠耶は吐き捨てるように言った。
「ずっと忘れてたけど、思い出したんだよ。忘れてたってことを思い出したんだ。あんたのこと、全部聞いた。曾ばあちゃんが死ぬ前に教えてくれた。あたし、まだ五歳だったけど、覚えてる。オニウタスイムっていう、あやかし探偵のこと」
鞠耶はもう、あんたがそうなのとは言わなかった。だがその目はきつく酔夢を睨みつけていて、言っているも同然だった。彼の方は頭が真っ白になったまま碌に思考力が回復しておらず、馬鹿のような質問を返すしかできない。
「彼女は、亡くなったんですか」
「当たり前じゃん。生きてたら百十二だよ。世界最長寿モンだよ。……あたしに話してくれた後、亡くなったよ、老人ホームでさ。白寿だから、それでも相当長生きだけど」
酔夢は何も言えずに俯いた。緋鞠を抱きしめた感触はまだ残っているのに、既に彼女はこの世にいない。時の流れからすれば当然のことだが、それをどう受け止めればいいのか分からなかった。
それに、思い出してしまったという。天狐が手を抜いたとは思えない。酔夢とて、その力を盲信していた。疑うことすらなかった。だからぶち破ったのはきっと、緋鞠の意思の力なのだろうけれど。
「君はあの夜、緋鞠さんに……曾おばあさんに会っていたことに、気づいていましたか」
酔夢の顔色が変わったのを見て睨むのをやめた鞠耶は、悲しげに首を横に振った。
「それは教えてくれてなかったんだ。だから夢にも思わなかった。……あたし、こう見えて家が厳しくてさ。嫌になって夜、時々抜け出すの。別に遊んでるわけじゃないよ。ただ歩いてるだけ。でもそこで、会ってたんだ……」
鞠耶はその夜のことを思い出すように、ぽつぽつと語った。
「少しだけ、話した。最近の話とか全然知らないから、変だなって思ったけど、服かわいいねとか、靴ないけど大丈夫、とか。お金持ってないから助けてもらってもお礼できないなんて、言ってたっけ。そんなもん、別に欲しくないのに義理堅いよね。それから、会いたくて、大好きな人がいる、とか……。思えば、似てたんだよね。だから放っておけなかった。助けてあげたいと思ったの」
似ているのは、顔だけではないのだろう。緋鞠も家の中がごたついて、外へ気晴らしに行っていた。遺伝と言ってしまえばそれまでだけれど、それぞれが抑圧された環境をどうにかして抜け出したがっていたのだ。それが親切心と、警戒心の解くことに繋がったのだろう。
「思い出してからはずっと、死ぬまで、あんたのことだけ思ってたみたい。曾じいちゃんには内緒、なんて言って、曾じいちゃんとっくに死んでんのにさ……忘れさせたの、あんたなんでしょ。ひどいことするよね」
「だから殴ったんですか?」
「そうよ。思い知りなさいよ。曾ばあちゃんの苦しみはこんなもんじゃなかったんだから」
「苦しんでいたと?」
「……そうに決まってる。けど……」
言い淀んだ鞠耶は、緩く首を振った。
「あんたを恨んでたかどうかは、分からない。だって曾ばあちゃん、死ぬまで、幸せそうだった。少なくともあたしの目にはそう見えた」
それでも殴ったのは、彼女なりの解釈ゆえだろう。例えその通りだったとしても、酔夢は甘んじて受け入れるつもりでいた。恨んででも、最期まで彼女の傍に彼の気持ちがあったのなら――――それ以上、何を望もうか。
「あたし、曾ばあちゃんに似てるって言われるの。でも、写真見てもあんまり似てないと思うんだ。あんたは似てるって思ったから、分かったんだよね」
「ええ、似てますよ」
酔夢の手が、鞠耶の頬に触れた。彼女の中には間違いなく緋鞠の面影がある。受け継いだものを、ちゃんと持っている。それは緋鞠が幸せだった証拠ではないだろうか。思い出してしまったけれど、忘れたことでこうしてまた、会えたのだ。熱いものがこみあげてきたが、酔夢は必死でそれを飲み込んだ。こんな高校生ほどの少女の前で涙など見せるわけにはいかない。
「あ、あたしの名前、曾ばあちゃんがら一字、もらってるんだ」
セクハラと罵られてもおかしくない状況だったにも関わらず、鞠耶は恥ずかしそうにしているだけで酔夢の手を振り払おうとはしなかった。焦って雰囲気を変えようとする声に、酔夢は慌てて手を引く。そもそも鞠耶自身がまだ半ば彼に乗りかかったような姿勢のままだったので、手を引いた程度では何も解決しないのだが。
「あんたの名前、変だけど、親がつけたの?」
「……正真正銘、本名ですよ」
「わあ、キラキラネームじゃん」
鞠耶は楽しそうだが、そういう問題でもない。むしろDQNネームの類だろう。酔夢としては恥ずかしくて、やたらに名乗りたくないのだ。公共の場でなぜハンドルネームを名乗るのかと怒られたこともある。だからついつい小声になってしまいがちだったが、通名でもなんでもない。正真正銘日本人だ。
「あの、萬里小路さん。そろそろ、どきませんか」
「なんであたしは苗字呼びなわけ?」
不満そうにしながらも、鞠耶は素直に従った。酔夢もこうして回復した以上、いつまでもここにいるわけにはいかない。しかし病室から出て行こうにも、鞠耶が進路を妨害していた。まだ何か言い足りないようだ。
「ほんとはね、殴って、それで終わりにするつもりだったんだ。でもなんか、それじゃ勿体ない気がしてさ」
「勿体ない?」
「だってせっかく曾ばあちゃんが結んでくれた縁だもの。これっきりなんて、ありえない」
「……」
鞠耶の表情は照れているとしか表現できなかったが、酔夢としては呆れるしかない。これも血のなせる技なのか。接触を厭わないところといい、惚れっぽいところといい、どうしてこうも緋鞠と同じなのだろう。否、うぬぼれるつもりはない。単に異性として意識されていないだけにすぎず、言葉だけを都合よく解釈した結果、そう思っただけである。
「緋鞠さんは、そんな展開望まないと思いますけどね」
「分かんないじゃん。望むかもしんないし」
「あの、とにかくどいてもらえますか。支払いを済ませてしまいたいので」
「駄目よ。そんなこと言って、何も言わずにいなくなるつもりでしょう」
不意に鞠耶に、緋鞠が重なった。彼女も同じことを言っていたことを思い出した。もっともそれは、人目を騙すための嘘だったけれど。
だが今になって考えてみると、緋鞠には偽りなど混じっていなかったように思う。それに対して酔夢はどう答えたのだったか。記憶を奪われたわけでもないのに、思い出せなかった。きっとブラフだからと、薄情なことを言ったに違いない。
つまりこれは、天がやり直すチャンスをくれたということか。だからといって、緋鞠が帰ってくるわけでもないけれど。
「いなくなりませんよ」
酔夢が返したのは、そんな平凡な答えだった。他に言葉は浮かばなかった。それを変に飾り立てようともしなかった。ありのままの思い。ただ、それだけでは不満そうだったので、子供をあやすように鞠耶の頭を撫でる。少し機嫌が直ったようで、バリケードのように妨害していた進路を譲ってくれた。
天がくれたわけではない、緋鞠がその機会をくれたのだ。鞠耶の、よく似た笑顔を見ていると、自然とそう思えてくるのだった。時が経てばきっと、途方もない喪失感に襲われるだろう。
けれど今は、手を伸ばせば届く距離にいてくれる彼女に、そして彼女の中にいる愛しい少女の面影に、感謝と安堵を覚えるのだった。
End