14
目を開けると、狐のモフモフした毛並みがあった。とはいえ沙璃はあやかしなので、獣臭さは感じない。代わりに覚えたのは、頭が割れるかと思うほどの強烈な痛みだった。
「師匠、大丈夫ですかィ?」
「……だいじょばない……」
「?」
「だいぶ参っておるようじゃの」
狐の隣で相変わらずにスーツ姿の沙玖蓮天が他人事のように笑っている。酔夢は沙璃の上でほぼ四肢を投げ出して、失神している形で運ばれていた。件の場所についているが、どうやら移動の最中にまた『目』を受信してしまったようだ。
「嫌なにおいが残ってますねェ、師匠」
「そう……? 今の僕には分からないな。目だけで精一杯で……でも君が言うならそうなんだろう」
沙璃の鼻はおそらく、大正時代にあった酔夢と同じに死体と悪霊の匂いを嗅ぎとれているはずだが、目を受信するだけでひどく消耗してしまう生身の今となっては、そこまでの余裕は持てない。
「人には肉体の制約があるからの。魂のみにならねば、領域は解放されぬのじゃ」
沙玖蓮天はそんな風に言うが、それだって彼女の何十分の一程度でしかないだろう。何百分の一かも知れない。あの折、暴漢を叩きのめしたり屋根の上を跳んだりと人間離れしていた酔夢だったが、それでもあやかしと対峙して退治できていたかどうかは、難しいところだ。
「でもおかげで、場所が分かりました。ここから北西にまっすぐいった先にある、小坂井高校。まさか元勤務先とは思いませんでしたが。そこに、大妖はいます。急ぎましょう」
「師匠、無理をなさっちゃいけませんぜ」
今にも割れそうな頭を堪えてなんとか平然と振る舞ったものの、荒い息までは隠せなかった。細胞組織を蝕んでいく呪いばかりは、気力だけで対抗することはできないのだ。そのうちにそんな抵抗力すら奪っていくだろう。
「大丈夫。今、無理しなきゃ、死んでも死にきれないですからね」
「支離滅裂ですよォ、師匠~」
「いいからさっさと跳んでください。時間がないんです」
沙璃からは錯乱しているように見えたかもしれない。実際それに近くはあった。だが本心だ。このまま放っておけば彼の死は確実なのだ。ならば足掻けるだけ足掻いてみたいと思うのは当然ではないか。その結果として緋鞠が助かるなら、言うことはない。
酔夢はもはや、SNSで晒されることもどうでもよくなっていた。今はただ緋鞠を助けられればそれでいい。それ以外のことは何一つ望んでいなかった。
体が、嘘のように軽い。これも全て、力が増幅したせいだ。人間の窮屈な体にあった時はこれほどまでの解放感はなかった。常に重石をつけられていたようなものだったのに、まるで霊体として浮遊していた時と変わらないくらいの爽快さだ。しかも実体があるから、意識して存在を持続させずとも消えることはない。
ただ時間的に、もうこれ以上の餌にありつけそうにないのが難点だったが、仕方あるまい。あとは匂いを辿っていくだけだ。
何やら後ろから迫ってくる気配があるが、恐れるに足らず。逆に返り討ちにしてやろう。飲みこんでしまうのもいいだろう。おそらくあの忌々しい探偵とか言う奴だ。婚約者だとか、嘘をつきやがって。養分にしてやれば溜飲も下がるというもの。
だがその前に―――当初の目的を果たそう。そもそもなぜ彼女を執拗に狙っていたのか、忘れてしまったけれど、きっと必要なことだったに違いない。自分が以前に何だったのか、何を目的としていたのか、思い出せないけれど、あの娘を得られればきっと区切りがつくはずだ。
そうしたら―――何をしよう。何になればいいだろう?
そもそも自分は―――何なのだ? 何かしたいことがあったはずなのだけれど……まあいい。
ああ、匂いが近い。もう間近だ。あと少し。
ほら。すぐそこに歩いてる。この体ならあっという間。
「見ぃつけた」
「うぐっ、がぁ……!」
これまでにない激痛に、酔夢の喉はたまらず声を上げた。このまま痛みで気を失ってしまいそうだ。いっそそうなったらどれほど楽だろう。だが彼の意識は彼を手放そうとせず、耐え難い苦痛を与え続けた。沙璃の背から落ちなかったのが不思議なくらいだ。
「師匠!」
「さ、沙璃……あっち……急いで!」
「でも師匠、死んでしまいますよォ」
「緋鞠さんがいたんだ! 早く!」
純粋に心配してくれる沙璃を怒鳴りつけるのは心苦しかったが、今はそれどころではないのだ。たった今見えた光景が、酔夢の脳が見せた悪夢でないならば、緋鞠が危ない。学校の校舎に到着したばかりの沙璃は大慌てで、その屋上を蹴って飛び上る。
「どうやら束の間、大妖の意識に入り込んでしまったようじゃな」
「人の意識だけじゃないんですか? 話が違いますよ。おかげで大当たりを引けましたけどね」
「あれも元は人じゃからの。既に人の形は捨てておるようじゃが。ならばまだ石は、完全に吸収されておらぬ証拠でもあるぞえ」
翼もなしに沙璃の隣を水平に移動しながら、沙玖蓮天が言った。軽く言うが、その反動は人にアクセスした時の比ではない。そのまま痛みの中で死を選んでいてもおかしくなかった。通常は時が経てば治まるはずのそれが、まだ長く尾を引いていて、碌に顔を上げることすらできない。
だが人の身であっても感じていた。その存在が、すぐ近くまで迫っていることに。
「いた……!」
緋鞠は、高校からいくらか進んだ先にある、神社が抱える杉林と、何年か前に廃屋になった元社員寮にはさまれた、細くて人通りもなければ明りも乏しい路地に、誰かと連れ立っていた。手書きの「痴漢注意」の看板が立てられているが、ここを通る生徒は遅刻直前に近道として駆けていく生徒以外、皆無だ。昼でも暗く感じて何か嫌なのだと、多くが口を揃えて言うのだ。
「ちょっと、何これ……ぎゃっ」
「邪魔だ」
餌となるはずの人を見つけたと言うのに、大妖はそれを振り払った。緋鞠の前に立ちふさがっていたせいだ。どうやら若い女性のようだが、ぐったりとしたまま動かない。大妖の手が緋鞠に迫る。彼女は動けず、固まっていた。
だがその手が届く前に、颶風となって飛んだ沙璃が間に入った。その背からほとんど滑り落ちる形で、酔夢は地に足を下ろした。
「師匠、あっしはここまでですぜ」
「分かってますよ。ありがとう」
酔夢が毛並みを一撫ですると、沙璃の姿は掻き消えた。心強い味方も消え、体調も万全とは言い難いがそれでも酔夢は立ち上がる。緋鞠を背に、大妖を睨む形で。
「お前……まだ、邪魔、するかぁ!」
大妖が吼えた。だが大声というよりは脳を揺さぶるような陰気さで、酔夢の足を一歩引かせた。それでも歯を食いしばって、すっかり姿を変えてしまった奈々子を見据えた。
酔夢が他人の意識を通して見た通り、顔には口しかなく、手は甲まで裂けて、見上げるほどの巨体となっている。それでも女性の丸みは顕在で、性別は明らかだった。長く伸びた腕とは逆に脚は退化して消え去り、ぶよぶよの肥大した五指が芋虫のように着物の下でわさわさ動いている。ほぼ腰から上しか残っていない状態で、移動も両手で行っているようだ。つまり、移動と攻撃は一度にはできないということでもあるが。
間違いなく、今の酔夢では一撃でやられてしまうだろう。先刻の女性のように振り払われたら、起き上がる時間を与えることなく緋鞠に向かうに違いない。
だから、勝機は一瞬。二度はない。幸いにも沙玖蓮天の目は、彼の中からまだ引き上げられていない。それがなくなれば体調もいくばくか持ち直すはずだが、逆に今はなくなっていないことが重要だった。
石が、見えるはずだ。酔夢は素早く目を走らせる。どこにある。石はどこだ。玉藻の石は。あの禍々しい存在は―――。
「ケヒャヒャヒャヒャヒャァ! 莫迦だね、お前! ワタシに勝てる気でいるのかい!」
突然大妖は、高笑いした。そして深呼吸するように、大口を開閉させる。
「ここの空気はいいねえ。陰湿で淀んでいる。すぐ横に神社があるのにねぇ。負の気配を呼び込んでるのは、こっちかい」
大妖の首がぐるりと廃屋の方へ向いた。そこが心霊スポットだという噂は聞いたことがないが、多くの者が近寄りたがらず、またいつまで経っても取り壊しすらされないのは、それが理由であるようだ。
そのせいで、目の前の怪物は力をより高めている様子だった。今にも死にそうな生身の酔夢など、指先で弾くだけで終わってしまうだろう。完全になめきっていた。
その油断を、使わない手はない。
「勝てるだなんて、とんでもないです。今の僕を見たら分かるでしょう? ただのか弱い人間ですよ」
両手を広げて酔夢は、引いた足を一歩前へと押し出した。攻撃の意思があるとは思われないように、またあっさり食われて終わってしまわないように、最小限の緊張感を保ちながら。
「お前、ワタシに調子に乗るなとかなんとか言ったね」
「そうでしたか? でもほら、本当に僕の体は死にかけているんですよ。呪いでね」
「のぉろぉいぃ? はっ、その手には乗らないよ」
一度は跪かせようとしたらしい大妖だったが、呪いと聞いたためか、酔夢の体をじろじろと眺めるようなしぐさをした。その間にもう一歩。
「呪われた体を食わせて、ワタシを倒そうってんだろ。誰が喰うもんか」
「そうですか? 意外と大丈夫かもしれませんよ。何せ負の感情ばかり食べてしまったのでしょう」
「それは美味だからに決まっている。だがお前は、見るからにまずそうだ」
「そう言わずに一口どうです?」
酔夢は右手を、大妖の口へと伸ばした。あと少し。体格差も力の差もあるため、大妖は酔夢が何かするとは思っていない様子で動きもしない。だがそれが届く前に割って入った者がいた。
「駄目よ! そんなこと許さなくってよ! 食べるならあたしをお食べなさい!」
「ひ、緋鞠さん……!」
酔夢の背後で固まっていたとばかり思った緋鞠が、彼を庇うように前へ飛び出したのだ。その時まで緋鞠の存在を完全に忘れていた大妖だったが、思い出してしまったようだ。自分の本来の目的を。
「高之城……ひまりぃいいいい!」
大妖は叫びながら、筋張った長い腕で緋鞠の細い体を捕まえた。大口が、彼女の頭部に迫る。それの意識はもはや緋鞠のみに絞られ、酔夢はわずかも意識を払われていない。
だがそれが、チャンスでもあった。
緋鞠に届くより先に、ままよとばかりに伸ばされた酔夢の腕が、大妖の口の中へと突っ込まれた。尖った歯が腕を傷つけたが構わずに、喉の奥へと押し込む。
「があッ!?」
革グローブ越しでもはっきりと分かるほどの気持ち悪い感触を乗り越えた先に、それはあった。硬質にして頼りないほどちいさなそれを握りこむと、すかさず腕を引き抜いた。
握りこまれているのは、赤い宝石のついた指輪。
「それは……ッ! お前……ッ! 最初から、それを、狙って……ッ、ウグッ、ぐあああああ!」
どんな作用があるものなのか、大妖はたまらず緋鞠から手を放すと、自らの喉をかきむしって転げまわった。謎の粘液にまみれた右腕は痺れて指輪を掴んでいられなかったため、左手に持ち変える。だが不思議と指輪の宝石には、液体は張り付いていないようだ。
「ヤメロ……カエセ……! ソレハ、ワタシノ……!」
「もともとあなたのものじゃあありませんよ。……さようなら」
左手でも呪いのせいで碌に力はこもらなかったが、弱くとも握りこむ真似事ぐらいはできた。再び開かれた掌に乗っていたのは、赤さを失ったただの石だ。
「アアアアアアアアァァァァァァァァ……!」
酔夢が掌を傾けて、指輪がからんと地面に落ちた。その輪の中で、身もだえしていた大妖が断末魔の叫びをあげて、前触れもなく爆裂四散した。あやかしだったものは、その破片すらも残らず霧状になって消えた。
「―――石を使った報いじゃの。こんなものを使えばただで済むはずもあるまいに。酔夢よ、ごくろうじゃった」
全ての力を使い果たしてへたり込んだ酔夢の横に、いつの間にか沙玖蓮天が立っていた。彼女は無用の長物と化した指輪を拾い、石だけをはぎ取って口中へと放り込むと、いらない指輪を粗雑に放り捨てた。その姿はさっきまでの男性ではなく、いつもの天狐の姿だった。目を丸くしていいはずの緋鞠は、まだ呆然と前を向いたままだ。
その視線の先には、倒れている人影がいくつかあった。皆、大妖に食われたと思われていた人間たちだった。どうやら息もあるらしい。石と同じく、未消化だったようだ。
「……沙玖蓮天様、お願いがあります」
「なんじゃ。高くつくぞえ」
「構いません。どうか彼女を、元の時代に戻してあげてください」
はっとなって、緋鞠が振り向いた。そこで初めて生身の酔夢と目を合わせたのだが、彼女には彼が誰なのか既に承知のようだった。
「元って、どういうことですの? やはりここは……」
皆まで言わず、緋鞠は言葉を切った。二人とも座り込んでいて、今更ながら距離が近すぎることに戸惑いを覚えたのかもしれない。おたおたと狼狽えながらも、恥ずかしそうに目を伏せる。彼女は靴を履いていなかった。すっかり汚れてしまった靴下では、アスファルトを踏み続けるのはさぞ痛かったろう。
酔夢は己の疲労と衰弱を押して、緋鞠の手を取って立ち上がらせた。彼女はまだ顔を上げない。こちらを向いてくれないのは寂しいけれど、やらなければならないことが残っていた。
「ぬしはそれで、良いのかえ?」
「いいも悪いも、それが道理というものでしょう」
「確かに、ぬしのやり残した仕事じゃろうがのう。そのままでは力は使えまい。……ほれ」
沙玖蓮天が、とんと背中を押したのを感じた。思わずつんのめって緋鞠の方へ距離を詰めた酔夢だったが、瞬間、くらりとめまいに襲われる。
「えっ」
と思ったときにはもう、臙脂色のインバネスコートを羽織っていた。緋鞠が驚いて思わず顔を上げている。振り向くと、ぐたりと脱力した酔夢の抜け殻を、雑に抱えた天狐がひらりと手を振った。
「互いに言いたいことがあるじゃろうから、しばし時間をくれてやろう」
そんなことを言って、酔夢の体と共に闇の中へと姿を消した。肉体を蝕んでいた苦しみからは解放されたが、気持ちが晴れたとは言い難かった。精神的な疲労もあり、これからすべきことへの罪悪感もあるのだろう。
「あ、あの……。あまり、お姿はお変わりないのですね」
緋鞠は握ったままの手をどうにか外したがっているようだが、酔夢としてはそれを許すつもりはなかった。逃げられるからという懸念ではない。そうしたいと魂が強く望むからだ。身勝手だろうと構わない。これで最後なのだ。
早く認めろの意味が、こうして対面したことでようやく分かった。だが、だからといってそれを押し通すつもりもなかった。
なぜなら彼女は、過去に生きるべき人間なのだ。何せ、他ならぬ天狐がそう言っていたのだから。
「今は、君のよく知る姿でしょう」
「どちらでも、あたしには変わりませんわ。……あ」
微笑みを見せた緋鞠の頬に、涙が一滴転がった。彼女は開いている手で慌てて拭う。
「ごめんなさい。違いますの。安心してしまって……本当に、驚いたものですから」
「君を見つけられてよかった。怖い思いをさせてしまって、申し訳ありません」
「いいえ、いいえ。親切な方に助けていただきましたし、あなたにまたこうして会えたのですもの」
安心ゆえか、緋鞠の涙は拭っても止まらなかった。美しいそれらを閉じ込めるように、酔夢は彼女をそっと抱き寄せた。緋鞠は一瞬だけ身を固くしたが、縋りつくように手を回してきた。
「もう離れたくありません。どうかあたしを、お傍に置いてくださいまし」
「駄目です」
「お願い、何でもしますから」
「では、君の記憶を奪わせてください」
酔夢の腕の中で、緋鞠が涙に濡れた顔を上げた。何も告げずに無断で記憶を奪うこともできたが、それではフェアでないと思ったからだ。どうせそれすら忘れてしまうとしても。
「ひどいわ。忘れろと言うの?」
「僕の気持ちが君と共にあるように、君の気持ちも、ずっと僕と共にあり続けます。それではいけませんか」
「そ、そんなの……あまりにも、ずるくてよ」
言葉に込められた思いを悟ったのだろう、非難しきれずに口ごもる緋鞠の頬に、酔夢は両手を添えた。温かな雫がその上を新たに伝っていく。泣きじゃくる緋鞠を見ているのはつらかったが、翻意するわけにはいかない。酔夢はあやすように彼女の小さな額に自らのそれを寄せるが、拭えど涙は次から次へと溢れるばかりだ。
「あたし、ちゃんと元の時代に帰るわ。だからどうか記憶だけは奪わないで……お願いよ。忘れてしまったら、あなたから頂いた気持ちまで忘れてしまうんですのよ。そんなの嫌」
「僕が奪わずとも、忘れ香を使わずとも、皆、僕のことは覚えていられないでしょう。……だからこれは僕のエゴ。我儘なんです。君の一部を、僕に奪わせてください」
酔夢は緋鞠の額に、掌をかざした。触れればすべて終わる。ためらう彼の掌越しに、緋鞠が微笑んだ。覚悟を決めた顔であった。
「もう全部、奪われているわ。あたし、あなたのものよ」
瞬間、愛しさがこみあげてきたが、歯を食いしばって衝動を堪えた。ためらった時間はわずか、酔夢は掌を、彼女の額に当てた。途端に緋鞠の体から力が抜けて、倒れそうになる体を酔夢が抱き留める。
「絶対に忘れないわ……忘れても、探し出して差し上げてよ」
腕の中でうわごとのように、緋鞠が呟いた。だがその意識はもう、ここにはないようだ。最後のあがきだったのかもしれない。目を覚ませばもう、酔夢のことは一切記憶していないはずだった。天狐から借りた力は絶大だ。それに、歴史の修正力も侮ってはならない。彼女が彼のことを今後思い出すことはない。
通じ合った想いがあったことなど、最初からなかったものとして生きていくのだ。
酔夢は、酔夢だけは忘れないようにと、今一度緋鞠を抱きしめた。
「終わったようじゃの」
音もなく沙玖蓮天が、酔夢の背後より現れた。彼は彼女に、腕の中の少女を託した。ぬくもりはあっさりと引きはがされ、天狐の腕の中に納まる。
「後はお願いします」
「ふふ、ぬしがこの娘を帰すために、わらわに代償を支払わねばらならぬと知ったら、また怒りそうじゃの」
空しいばかりのもしもの話だ。それに奪った記憶は実感こそないものの、酔夢の掌の中にある。彼はそっと手を握りこんだ。
「そういえば、なぜ緋鞠さんだけ忘れ香が効かなかったのでしょうか」
「一途な恋心ゆえ、と言いたいところじゃがおそらく、石を持っておったせいじゃろうな。正しく使えば、魔除けにもなるのじゃ」
だがその石も、もうない。酔夢は最後に、意識を失っている緋鞠に向かって囁いた。いつもの別れ際の言葉。身を引きちぎられるような苦しさを伴っても、言わねばならない。いわばここで立ち止まらないための、おまじないである。
「さようなら。……幸せに」
それを告げたのを最後に、酔夢の意識も途絶えた。