12
「緋鞠さん!」
叫んだ自分の声で目を覚ました。視界には、真っ暗だが馴染みのある天井。これ以上ないくらいに人工的で、異様に思うくらい冷淡なそれは、きわめて懐かしい景色だった。
ここは、彼が寝室として使っている部屋だ。築十年、1LDKの賃貸アパート。
酔夢は慌てて、身を起こした。途端に錐をねじ込まれたような頭痛が襲う。たまらず上体を丸めて痛みに耐えていると、すぐ傍に誰かが立っていることに気づいた。
「おかえり、酔夢。大正の世はどうであった? 随分と楽しんでおったようじゃの」
「……勝手なことを……」
痛みに喘ぎながら顔を上げた先にいるのは、沙玖蓮天だ。見た目は、この世のものとは思えぬ宝飾品と美しい衣を纏った絶世の美女であるが、そこはかとなく漂う意地悪さが否が応にも狐を連想させた。もちろん、尻尾も耳もないが。
「こんな反動があるなんて、聞いていませんよ」
「それはぬしが、石を飲んで大妖と化したあの悪霊から攻撃を受けたせいじゃ。確かにわらわの力を使った代償も、ないとは言わぬがの」
酔夢ははっとなって、自らの両手を見た。緑と黒に染まり、皺皺に草臥れて骨と変わらぬ細さになった指先は、以前は発していた鈍痛を今では失って、一切の感覚をなくしている。溶けださないだけマシだったが―――いずれそうなるとしても―――まだちゃんとついているのが不思議なくらいだ。指だけではない足の先の方も、また体の中もそうだ。
腐っている。原因不明の病による浸食は、未だとどまらず進行中。じわじわと体力を奪い、衰弱している最中だった。
それもそのはず、彼は役目を全うせずに、戻ってきてしまったからだ。目的の石は、あの悪霊どもが飲み込んでしまった。大願はかなわず、もはや腐って死ぬしかない。本来なら父が施されたように病院で応急処置をしてもらうのが筋なのだろうが、無駄を悟っている彼は最初から諦めていて、発症した時から退職を願い出て、そして家にこもったままだった。
だが手入れしていないにも関わらず、もともと薄い髭は生えていないようだ。男性ホルモンが一番に死んでしまったのか、だとしたらそれはそれで絶望的なのだが。
「なんで、戻したんです?」
「わらわではない。あの大妖じゃ。あやつ、妖力を増したせいで時を渡る能力を得たようじゃ。とはいえ使い方を知らぬのか、わらわの後を追うことしかできぬようでの。ここか、さもなくば元いた大正にしか戻れぬようじゃが」
「大妖って、あれ、あやかしになったんですか」
「元が死体であれ悪霊であれ、なれぬことはないぞ。人だとてその可能性は秘めておる。ぬしのようにな」
「僕は人間ですよ」
「ほほ、何を言う。ぬしは立派なあやかし探偵であろう?」
茶化すように天狐に笑われては、酔夢としてはふてくされるしかない。本気で自称したわけではなく、いわばノリというか、どうせ全員忘れるからと思ったためだ。現実の彼は今も死に向かって全速力で疾走していて、探偵でもなければあやかしバスターでもない。
だがあやかし探偵と言われて、忘れてはならぬ事項があったことを思い出した。
「そうだ、緋鞠さん」
布団を剥いでベッドから降りた酔夢は、足が腐りかけていたことを忘れていたせいで、よろめいて思わず天女の方へもたれかかってしまった。だが彼女は怒りもしなければ突っぱねもせず、彼を支えた。
「なんじゃ。どうした?」
「彼女を探さないと。こっちに来てる」
普段、絶対に関わることのない美女に触れているというのに、柔らかさも心地よさも、ましてや色香すらも、酔夢は何も感じなかった。ただ、人と同じ形のものに触れているという程度。それどころではなかったせいかもしれない。彼女を押しのけるようにして進むと、重たい体を引きずりながら着替える。ボタンは嵌められないので長袖Tシャツを着て、脱ぎっぱなしだったジーンズに足を通す。ベルトが要らないのはこれしか持っていない。
「あの娘か。探してどうするのじゃ」
沙玖蓮天が着替えを眺めているのが分かったが、必死だったせいか恥じらいなど湧かなかった。少し体を動かすだけで息が上がり、体力を消耗しているのが分かるが、止まるわけにはいかない。無理を押してでもせねばならぬことがある。
「どうするって、放っておけるわけないでしょう。彼女はいわば、未来にタイムスリップしたんですよ。助けてあげないと」
「確かにあの娘、こちらに来ておるようじゃの。ぬしと一緒に渡らされた、いわば巻き添えを食ったのじゃな」
「やっぱり」
「じゃがのう、ぬしよ。プライオリティというものがあろう?」
天狐の口から横文字が飛び出たことで、酔夢は思わずぽかんとしてしまった。時代がかった喋り方にはあまりにも不似合いだったせいだ。だが沙玖蓮天の方は、それに頓着する気配はない。
「ぬしはまだ、わらわの『お願い』をきいてくれておらぬぞえ。そちらを優先せねば、ぬしは死んでしまうのじゃぞ」
「お願いって……」
妙にかわいらしく言ったものだ。だがその内容はハードに極まっている。何せ件の石は、大妖が飲み込んでしまったのだ。
「あやかし退治をしろとでも?」
「石が完全に奴に吸収してしまうまでには、時間がかかるのじゃ。だから今なら、間に合うぞえ。打ち倒せば、取り戻せるのじゃ」
「あの、見たらわかりますよね。僕、ただの人間なんですけど」
しかも死にかけている。魂を具現化され天狐の力を借りていたあの時代においてならいざ知らず、人としての能力すら危うい状態だ。そんな体で緋鞠を助けられるかどうか限りなく怪しいが、あやかし退治よりは難易度は低い。何より放っておけるはずもない。
「あなたがやればいいじゃないですか」
「言うたであろう。わらわは石には直接触れぬのじゃ。ぬしが無効化してくれぬ限りはの」
できるならとっくにやっていると言わんばかりの苦笑を浮かべて、彼女はかぶりを振った。
「力として吸収されておらぬ今、あの大妖はどこに石を持っておるのか分からぬ。安易に手を出せぬのじゃよ。わらわにできるのは、『貸す』ことだけじゃ」
自分でやってはくれないようだ。あくまで酔夢が、呪いを信じていないにも関わらず呪いに侵された者が表に立たなければ意味がないのだと。沙玖蓮天が差し出したその手を取ればおそらく、またあの力を使えるようになるのだろう。だが酔夢にとって優先度が高いのは、石ではないのだ。
「でもそいつがどこにいるのかなんて、分からないんじゃないですか。もうとっくに追いつけないところへ行ってしまっているかも」
「ぬしはよほどあの娘が気になるようじゃな」
沙玖蓮天としては、含みを持たせたつもりはなかったかもしれない。だが酔夢には、何の意味もない感想だとは思えなかった。天狐から目を逸らす。
「そんなんじゃないですよ。僕はただ、僕がもし彼女の立場だったら、助けを求めるに違いないって……」
たったひとり知らない世界に放り出されて、不安を感じない者がいるはずもない。心細さを取り除いてあげたい。だから助けたい。それだけだ。他に理由などあるはずもない。
「じゃがのう、この時代、治安はそこまで悪くなかろう? 百年程度の差はあれ、同じ国じゃ、言葉も通じる。仮に帰れぬとしても、案外生きていけるやもしれぬぞ」
「あなたにとって百年は短いかもしれませんけど、変化は劇的です。異世界に来たようなものですよ。しかも僕が連れてきたのも同然なのに」
「それが本来の歴史かもしれぬとは、ぬしは考えぬのか」
沙玖蓮天が口調すら乱さない理由を、酔夢はこの時初めて理解した。だがそうだとしても、このまま一人っきりにさせておいていいはずもない。申し訳が立たないし、あんまりだ。
会わなくてはならないと、強く心が訴えるのだ。放っておいては駄目だと。彼女の手を今すぐにでも取って、生きていることを確認しないと気が済まない。
「だとしても、僕は……」
「やれやれ、不安で心細いのはどちらじゃ。離れとうないならそう言えばよかろ」
「ち、違……っ」
呆れたように、沙玖蓮天はため息をついた。だが彼女のそれは誤解だ。酔夢はただ焦っているだけだ。一刻も早く会うべしと心が執拗にけしかけて落ち着かないから、自らが安心するために緋鞠を優先しようとしているだけで、決してそれ以上の気持ちなどない。もちろん落ち着くためには、緋鞠が安心することも必要だけれど、そのためには元の時代に戻してあげることが何よりだと思っているからで、他意はない。
ないのだ。
「大妖の狙いはあの娘じゃ。心配せずとも、大妖を追えば追いつく」
そういえば、悪霊は高之城家に恨みがあるようだった。その殺意は緋鞠にも向いており、ここへきてもなお彼女を追跡する気だと言う。
「奴は血筋が見えておるわけではない。じゃから娘の子孫がいたとしても構わず、娘だけを狙うじゃろうて。匂いを追跡しながらのう。じゃから、うかうかしておれんのじゃよ」
「そ、それじゃあ猶更急がないと!」
奈々子が緋鞠の匂い袋を嗅いでいたことを思い出した酔夢は、にわかに焦りだした。さっきから焦ってばかりだ。慌てながら、今度こそ沙玖蓮天の手を取ろうとした酔夢だったが、白魚のような手の上にかざされた自らのそれを見て、踵を返した。
「どうした。何をしておる」
「ちょっと待ってください」
怪訝な沙玖蓮天の声を背後に聞きながら、酔夢は苦労して引出しを開け、両手で挟むようにしながら革のグローブを取り出した。
「すみません、これ、手にはめてもらっていいですか? 緋鞠さんが気持ち悪がると思うので」
照れながらとはいえ天狐に対する申し出としてはありえないもので、怒られるかと思ったが、沙玖蓮天は呆れた顔を見せただけだった。その際「早う認めぬか、愚図め」と罵られたが、意味が分からなかった。
あのクソ男、また浮気しやがった。絶対に許さない。今度こそ殺してやる。
「あの客、マジクソうぜー。殺すか」
「やめなよ。大事なATMじゃん」
「お腹すいたあ」
「何食べる?」
「なんでもいい」
「じゃあ牛丼にしよう」
「えー。やだ」
(なんでもいいっつっただろうが、クソブス)
無能女め。男上司に媚びることしか能がないくせに、ミスを全部こっちに押し付けてきやがった。そのせいでこっちはサビ残だ。あんな女が私と同じ給料をもらってるなんて許せない。いびって辞めさせてやる。まずはSNSを使って、悪評をネットに拡散させてやろう。出会い系にも載せてやれ。
「こんな時間に出歩いてちゃ、危ないよ。家は近い? 送ってこうか? ……別に下心とかないから、安心しなよ」
随分と派手な格好をした人だったが、悪い人ではなさそうだ。聞けばどうやら年も近いようである。笑顔がとても素敵だと思った。
「あーだりぃ。受験生だからって勉強なんかしてられっかよ」
滑り止め受験で燃え尽きてしまったのか。時期は大詰めだったがやる気がまるで湧いてこない。彼は机の上にシャープペンシルを放り出すと、端末機を手に取った。どうやら友人もまだ起きているようだ。ゲームでもしようかと思ったがふと思いついたことがあったので、メール画面を呼び出した。
「その頬どうしたの?」
「クソ親がぶちやがった。死ね」
「ったくよぉ……ざけんじゃねえっての」
男は強か酔っていた。足をふらつかせながら、夜道に愚痴を吐き捨てていた。年齢からすると新卒のようだが、その草臥れた容貌は早くも社会に揉まれた中堅といった風情だった。
「俺はなあ……新入社員様なんだぞぉ……それなのによぉ、無理な残業押しつけやがってよぉ……帰るなら仕事教えてけってんだ……死ね、クソ先輩め」
男は薄暗い夜道をふらふらしながら、閑静な住宅街の方へと入っていく。時間帯も遅く、通りかかる者はいない。家々の明りも既に消灯しているところが多かった。
「くそっ、こんなはずじゃなかったのに……ブラック企業だって訴えてやる……。……ん?」
不意に男は口を閉じた。通り過ぎようとした空き地の前に、人影が見えたからだった。酒の勢いがあるとはいえ、さすがに誰かがいるところでまでぶちぶち言うつもりはない。まだそこまでの理性は残っていたようだ。
その空地はよくゴミなどが不法投棄されていることもあって、住民の目が厳しく光っているところだった。手書きで「ゴミ捨てるな!」と書かれた看板が掲げてあるが、心無い誰かが捨てたと思しき空き缶が、その根元に転がっていた。
人影もその一味なのかもしれないと、男は思った。そして声をかけて辞めさせるべきかどうか、迷った。暴力を振るってくるような危ない外人とかだったりしたら困る。異国語でがなりたてられるのも嫌だった。日本に住むなら日本語覚えろと思うが、日本人が怯むことを知っているのか、大抵悪いことをする奴らは母国語しか喋らないのだ。
結局、男は見なかったことにして通り過ぎようとした。だがその足が、ためらうように止まってしまった。なぜならそこにいたのが苦しそうに蹲った若い女性だったからだ。
「どうしました? 大丈夫ですか?」
男は酔いも忘れて駆け寄った。女性は背を丸めて顔を手で覆っているようだ。着物姿だったため、きっちりと抜いてある衣紋からうなじが見えた。夜闇に白く浮かび上がったそれはやけになまめかしくて思わず目が吸い寄せられた。
「どなた?」
顔をこちらに向けぬまま、女性が誰何した。たおやかな声音は、たやすく男から警戒心を解いていく。何せ女性にはとんと縁がない人生を送ってきたのだ。これはもしかしたら、そっち方面へのチャンスかもしれないなどと不届きなことを考える。見知らぬ女性だが、声からすると相当な美人だ。
「あの、どこか痛いんですか?」
「痛い……? いいえ、痛くはないわ。でも苦しいの」
「救急車呼びますか?」
男が携帯電話を取り出そうとポケットをまさぐるが、結局それを取り出すことはできなかった。ただぽかんと、目の前にある光景を眺めるばかりだ。
「いいえ、いらないわ。―――欲しいのは、あなた」
女が、顔を覆っていた手を下ろしてこちらを向いていた。
そこには、口しかなかった。本来あるべき位置に口だけがぽつんとついている、というわけではない。その口は、顔全体に広がっていた。そして唇を上下に開いて、尖った全歯をのぞかせている。
そいつが、にたりと笑った。
口人間、と男は思ったが、それが最後の思考になった。
彼の意識は、都会の闇より深い黒に覆われた。黒の中で一点の赤い光を見た気がしたが、救いの光でも出口の明りでもなかった。