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 その場で幻想が打ち砕かれることはなかった。確かに奈々子が父を殺すなどとは思ってもいなかったが、だからといって彼女に何かしらを期待していたことはない。何せ身分が違うのだ。

 ではまだ、先があるのだ。

 しかし肝心の先が聞けないままに、家に辿り着いてしまった。

「ただいま帰りました」

「お帰りなさいませ、お嬢様。……もうてんやわんやですよ」

 出迎えてくれた聡子がそっと耳打ちしてきた。既にてんやわんやは始まっていたようだ。緋鞠の帰宅を待ちわびていたように、奥から重森と玲於奈が出てきた。さすがに着替えて化粧も終えているが、それが崩れるのも厭わず彼女は、さめざめと泣いていた。その肩をそっと重森が抱いている。玲於奈と同じ洋装で、自信たっぷりに髪を後ろへと撫でつけていた。

「ごめんなさい……あなたの大事なものを……」

「いいんですよ。形あるものはいずれ、崩れ去るもの。それに奥様には、もっと美しい宝石が似合う」

 重森の口ぶりからすると、彼にとってあの指輪は大して価値があるとは思っていないようだった。二人の後ろには奈々子もつき従っている。彼らが出てきたのは、緋鞠の婚約者である酔夢を検分するためであったようだ。その主軸は勿論重森であり、実質その場で泣き縋る玲於奈は不要とも言えた。

 だが二人は決して離れえぬ誓いを立てあった者のように、固く寄り添って離れない。

「君か。緋鞠様の婚約者というのは」

「鬼生田と申します」

 緋鞠は一足先に靴を脱いで上がっていたが、小声で名乗った酔夢はまだ編み上げを脱ごうともしていなかった。確かに着脱に時間がかかる靴だが、家の中へ上り込むつもりはないように見受けられた。

「上がりたまえ。じっくりと話をしようじゃあないか」

「いいえ、結構です。その代り、ちょっとこちらへ来ていただけませんか?」

「なんだと?」

 激昂した玲於奈とは違い冷静さを保っていた重森だったが、酔夢の提案に眉をしかめた。

「すみません。あなたの顔、ここからではよく見えなくて」

「近眼か? そうは見えないが」

 そこまでして顔をよく見る必要があるとは思えなかったが、玲於奈をその場に残した重森は存外素直に、そして無防備に、酔夢へとその身を近づけた。勝ち誇ったような表情からすると単純に、自分の容貌に自信があっただけかもしれない。ぐいと無遠慮なまでに近づけられたそれに向かって、酔夢はにっこりとほほ笑んだ。

「ありがとうございます。これで十分、届きます」

「は?」

 ぽかんとした重森のむき出しの額に、酔夢の掌が当てられた。ぺちりと軽い音がしたのち、彼はくたりとその場に頽れた。途端に玲於奈が悲鳴を上げる。

「白夜っ! あなた、何をしたの!」

 だが駆け寄る玲於奈とは反対に、屋敷の奥へと駆け出した者がいた。緋鞠は反射的に体をはねさせると、その者の手を摑まえる。

「どこへ行くの、奈々子」

 何も考えずに行動した緋鞠だったが、詰問してから気づいた。そしてこちらを向かない奈々子の腕を握り続けていることが、恐ろしくなった。なぜなら、彼女は―――。

「手を放しても大丈夫ですよ、緋鞠さん。彼女はこの屋敷からもう出られません。結界をかけてもらいましたから」

「うーん……、おや、あなたは?」

 恐る恐る奈々子から手を放す緋鞠の後ろで、重森が間抜けな声を出した。それまでずっと玲於奈がキイキイ喚いていたようだが、どうやら彼女の耳にはそれが届いていなかったようだ。

「初めまして、鬼生田と申します。奥様に、少々お話したいことがありまして」

「そうですか。では中へどうぞ」

「いえ、ここで結構。すぐ終わりますから」

 座り込んだまま酔夢を見上げる重森は、別人のようだった。彼が何をしたのかは、一目瞭然だった。だが改めて名乗ったその声は、今までの消え入りそうな小ささではなかった。極めて普通の音量である。よろけながら立ち上がる重森を支えながら、玲於奈が目を白黒させている。

「どうしたの、白夜? 何をされたの?」

「何をおっしゃいます。何もされておりませんよ、奥様。それでお話というのは?」

「ええ。ですがその前に一つだけ。緋鞠さん。これを焚いてもらえますか」

 呼ばれて渡されたのは、例の香木である。とはいえそれがどのような匂いを発するものなのかは緋鞠も分からない。酔夢は、不快なものではないというが。しかし否やと言えるはずもなく、言われるままに従う。

 香を焚く準備をしながら、緋鞠はひそかにがっかりしていた。あの反応は、新聞記者の次郎丸と同じ。つまり重森は、あやかしではなく人なのだ。

 そして逃げ出した奈々子はといえば、昏い目つきで酔夢を睨んでいた。どこかに突破口はないかと時折視線を彷徨わせているが、どうやら徒労に終わりそうで、歯をきしらせている。

 彼女こそが、あやかし。

 だが見た目は、普通の人と変わらない。確かに進退窮まって本性が出そうになっているけれど、あくまでそうと知っているのは緋鞠と酔夢のみで、玲於奈を味方につければ切り抜けられそうなのに、それもしないでいる。酔夢の力を見て、万事休すを悟っているのか。

 その奈々子が、不意に緋鞠の方に目を向けた。全身を舐るように睨むさまは、下女の仮面をとうに脱ぎ捨てており、緋鞠に後退りさせるほどの恐怖を抱かせた。ちょうど、玲於奈が般若の顔を見せた時と同じように。連想としてその二つがつながったのは、奈々子の体から執拗なほどに玲於奈の香水の移り香が強く漂ってきていたからだ。

「何ですか? あなたは緋鞠お嬢様とお知り合いですか?」

 緋鞠の名を呼んだことで、一度記憶を奪われた重森にも疑問を抱かれてしまったようだ。だが酔夢は臆せず、頭を下げる。

「失礼。実は僕は、緋鞠さんから依頼を受けた探偵です」

「探偵?」

「巷では、あやかし探偵と呼ばれています」

 一度ならず幾度となく否定した言葉を、よもやこんな場で聞くことになるとは、緋鞠は思わなかった。とはいえ重森はそれで納得しようとも、違うように聞かされていた玲於奈まではそうはいかない。

「どういうこと? 探偵ですって? 婚約者ではなかったの? どちらが本当なの?」

「奥様、どうされました」

「あなたこそどうしてしまったの、白夜」

「ご心配なく、奥様」

 玲於奈が重森に説明するのを遮るように、酔夢が割って入った。睨み付けられても平気な顔で、重森の記憶を奪った掌を彼女の方へと向ける。

「僕はあなたの企んだ悪事をこの場の皆様に聞いていただくためだけに、ここにいるのです。それ以上でも、以下でもない」

「悪事? 何を言っているのです」

 玲於奈が息を飲む隣で、重森は怪訝な顔をしていた。それで味方を得たとばかりに、玲於奈も勢い込む。

「そうよ。私が悪事だなんて、何をおっしゃっているのか分からないわ。戯言はやめて頂戴」

「高之城富雄氏の変死についてですが」

 酔夢は玲於奈には構わず、喋り出した。取り立てて大きな声でもないのに、その一声だけで辺りがしんと静まり返った。もっとも直前まで口を開いていたのは玲於奈だけだったが、それを閉じさせるのには十分だった。

「彼の死によって得をする者は誰でしょう。恨み妬みについては聞かないのでここでは除外すると、一人しかいませんね。しかし家族すら近づかない自室で服毒死してもらうには、一人では無理です。共犯たる人物は、毒を自然に盛れる、給仕担当である必要があります」

 酔夢の視線が動いて下女の姿をとらえた。咄嗟に聡子が身をすくませて自分でないことを訴えるが、彼の目はすぐさまもう一人へと飛んで、そこから動かなくなった。聡子のみならず他の者らもつられて、彼女の方へ目を向ける。

 だが奈々子は全員に見つめられても、言い訳も否定もせずにただじっとりとした目つきで、酔夢だけを睨んでいた。目だけで呪い殺しそうなそれを、けれど酔夢は平然と受け止めていた。

「ここで重要なのは、毒の知識です。この毒を作るためには必要不可欠な知識があるのです。これは別に理系じゃなくても、ちょっと興味を持って調べればすぐに分かる。誰にでもね。ねえ、奈々子さん」

「……必要な知識って、なんですの?」

 奈々子は答えない。代わりに緋鞠が、耐え切れず問いかけた。誰にでもというのが引っかかったのだ。だが酔夢は分かると言っただけだ。作れるとは言っていない。

「トリカブトのアコニチンとフグ毒のテトロドキシンはそれぞれ猛毒ですが、互いを一定期間殺しあう拮抗作用があるのです。先に半減期が来るのは、テトロドキシン。その効果が消えた先に残るのは、アコニチンの作用だけです。これで時間差の説明がつきます」

「そんなことが……う」

 驚愕する重森が、不意に頭を押さえた。見れば聡子も、他の使用人たちも、どことなく眠そうだった。時間的に、まだ夕暮れ前なのだが。

「済まない。何やら眠くて……」

「どうぞ、腰を下ろして休んでください」

 だが酔夢は、場を下がっていいとは言わなかった。重森もそれに疑問を挟むでもなく、言われるがままにその場に座り込む。そんな彼の様子を怪訝がるかと思いきや、玲於奈は何も言わずただ己の足元をじっと見ているのみだった。眠そうには見えない。

「富雄氏はその毒で死に至り、そして西村氏もおそらく、死因は同じです」

「西村……? それは、辞めたっていう……? なぜ、彼が……」

 重森は眠そうながらも必死に眠気と闘いながら、口を開いた。

「用済みになったからですよ。西村氏は、富雄氏より前に死んでいます。死体は腐乱するまで見つかりませんでしたがね。彼はあなたの元客だったようですね、玲於奈さん?」

「……」

「順番はこうです。まず玲於奈さんは、富雄氏を殺すことを決意する。けれど証拠が残らない殺し方など知らない。そこで第三者があなたに囁くのです、この毒なら絶対に大丈夫と。それをあなたは、散々贔屓にしてくれていた西村氏に依頼する。金では言うことは聞かないでしょうから、たぶん、自分の体を代償にね。ただ混ぜればいいというものではありませんから、ここは慎重な計算と実験が必要になります。そしてレシピ……調剤方法を得たのち、その毒で西村氏を始末、富雄氏に遺言書を書かせてから、食事に毒を入れさせた。あとは放っておけば自室で死にます」

 行商の老婆は玲於奈の変身だったと、彼は言うのだった。通っていたのは褒美を与えるため。その想像に、緋鞠はぞっと鳥肌が立った。そういえば玲於奈はいつもは細やかなのに、やけに香水がきつい日があった。その日はあの臭い家に行っていたのだ。あの鼠の死骸が転がる家で―――。

 だがそんな疑いを緋鞠から向けられても、玲於奈は何も反論しなかった。ただ悔しそうに、唇を噛んでいるだけだ。代わりに黙って聞いていた使用人が口を挟んだ。

「待ってください。食事の用意は二人です。それでは、奈々子さんじゃなくて聡子さんにもできるのでは」

「ち、違うわ! 私じゃない! そんな恐ろしいこと……!」

 必死で否定する聡子に、酔夢は追い打ちをかけるようなことはしなかった。むしろ彼女の悲鳴など聞こえていないように、じっと奈々子を見つめていた。彼には、聡子にないものを奈々子にだけ見ているのだ。だから犯人だと名指しした。もっとも彼女は実行犯でしかなく、指示したのは玲於奈ということになるのだが。

 だから緋鞠には、奈々子より玲於奈の方が気になった。その玲於奈が、ひっそりと噛んでいた唇を開いた。

「……遺言書は、旦那様が自らしてくだすったことよ。私からは何も、頼んでいなくてよ」

「では殺意は認めるのですね」

 静かに問いかける酔夢に、玲於奈は答えなかった。彼女の援護を最もしてくれそうな重森はどうやら完全に、座ったまま寝入ってしまっているようだった。一度声を張り上げた聡子も、再び目をトロンとさせている。大事な局面なのに、積極的に聞こうと言う意思が見られない。どうしたのだろうか。

 すると玲於奈が、きっとまなじりを釣り上げて、甲高い声で奈々子を詰った。

「どういうことなの、話が違うじゃない! 絶対に明るみに出ないと言っていたでしょう! ……何よその顔は、裏切る気!?」

 奈々子は口をゆがめただけで、玲於奈に何の釈明もしなかった。落ちるなら一人で落ちろと言わんばかりだ。そんな彼女に掴みかかろうと身を翻した背中に、酔夢が静かに口を開く。

「遺言書があっても、全財産があなたのものになるわけじゃあない。それを、知っていましたね?」

「え?」

 緋鞠が酔夢を振り向き、玲於奈は動きを止めた。その背は肯定しているも同然だった。だが全財産を残すと遺言したのは富雄自身だ。緋鞠の分があるなど考えも及ばなかったのに、玲於奈は酔夢の言葉を否定しない。

「遺留分というものがあるのですよ、緋鞠さん。この場合、富雄氏がいくら玲於奈さんに全財産相続させたいと遺言したとしても、彼が好きにできるのは全財産の半分だけなのです。君は遺留分減殺請求ができ、いくらかを自分のものにする権利があります。この辺りの法律は、そんなに変わっていないはずですよ。そうですよね、玲於奈さん。あなたの全財産への固執は異常だ。緋鞠さんを殺してでも、奪いそうなくらいにね」

「……」

 誰も何も言わないと思ったら、既に聡子も他の使用人たちもそれぞれしゃがみこんで眠ってしまっていた。起きているのは緋鞠と玲於奈と、探偵と奈々子の四人だけである。緋鞠には、まるで眠気は襲ってこない。異様な事態だがそれをどうこう言うより今は、目の前で明かされようとしている真実の方が気になった。

「緋鞠さんは見覚えのないチンピラに襲われました。しかも人気のない田舎道なんかでね。その彼、あなたのお知り合いじゃあないんですか? 西村氏のように、芸者時代のね。緋鞠さんは出歩くことが多く、毒を仕込む機会はなかなかない。あわよくばそこで死んでくれればと思って尾行させていたのでしょう?」

 ゆっくりと探偵の方を振り向いた玲於奈はため息を一つついて、けだるげに髪をかきあげた。上品な何かを脱ぎ捨てたかのように、空気が一変する。

「まったく、忌々しい小娘だこと。こんなろくでもない男捕まえてさ」

 そこに、富豪に嫁いだ大人しい妻女の面影はない。上等な衣服を着ているのに、場末の酒場にいる女給のようなしどけなさで、婀娜っぽく酔夢に目をやる玲於奈は、もはや緋鞠の知る優しく穏やかな彼女ではなかった。吐き出された声は酒焼けしたかのように、低かった。だが緋鞠はその声を覚えている。般若顔に変化したあの時。だが認めたくなくて、彼女は体を硬直させたまま瞠目して見つめることしかできない。


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