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先の方で、ほんのちょっぴり、小指の先ほどですが、ホラー要素があります(苦手な方注意)
高之城緋鞠はがむしゃらに走っていた。どこへ向かうつもりもなく、ただ目の前にある道を必死で駆けるしかなかった。
立ち止まることはできない。止まれば、殺されてしまう。背後から彼女を執拗に追い立てている暴漢に。
「待て、コラア! 逃げんじゃねえ!」
深窓の令嬢として育てられた緋鞠の周囲では、決して聞くことのない聞き苦しいだみ声。それから、地を揺るがすような重たい足音。思わず、身が竦みそうになる。
よもや自分が、このような乱暴な悪意の対象になるとは思ってもみなかった。恐怖におののきながらも、男の言うままに従うことなどできない。ひたすらに逃げるしかなかった。
誰かに助けを求められたらよかったのだろうが、生憎走る先には誰も通りかからない。そもそも知った道ではない。延々と田畑が続く、身を隠す場所もない、夕暮れ時の田舎のあぜ道。息が切れ、足がもつれそうになるが、ひたすらに動かすしかなかった。
袴でも着物でもないのにやけに走りにくいのは、下ろしたての革靴のせいだ。ひどく擦れて、踵がもう限界だった。モダンガール風の緋鞠は、ひなびた田舎道では目立った。そのせいで避けられているわけでもないだろうが、助けを求められないまま彼女は、目についた石段を登っていく。苔むしていて滑りそうだが、構ってなどいられなかった。
だが必死に登ったその先は、行き止まりだった。朽ちかけた鳥居の向こうにあるのは、祀られる神など不在と言わんばかりの廃墟同然の本殿。さらに奥には手つかずの森がそびえている。おどろおどろしい闇が凝ったその中へ入っていくには、ためらってしまう。だがその逡巡が災いして彼女はとうとう、追いつかれてしまった。
「へへ、追い詰めたぜ。散々逃げ惑ってくれやがって、この落とし前はきっちりつけてもらうからな」
坊主頭の厳つい男が、息を弾ませながら緋鞠に迫っていた。振り向いた彼女の目に映ったのは、白刃。懐から取り出した匕首が、彼女を害そうと薄暗い景色の中で煌めく。
ここへきて、もはや緋鞠の足は一歩たりとも動けなくなってしまっていた。ただ漫然と、刃が近づいてくるのを見ていることしかできない。殺されたくなどないのに、悲鳴すら上げられない。精々無様に震えることしか、彼女にできることはなかった。
そうして彼女が振りかぶられた刃を見つめたまま、大きく息を吸い込んだ時だった。
カツンと、硬質な、耳慣れない音が、古びた神社に響いた。
「―――やれやれ、困りましたね」
「誰だ!?」
その異音と主が発した声は、暴漢にも届いていた。焦って辺りを見回す男とは違い、緋鞠は探すまでもなくその根源を見つけていた。男が振りかぶっていた刃の向こう。出の早い月がうっすら見えるのを背後に、塗の禿げた鳥居の上に危うげもなく立っているのは、臙脂の影。
「ここでのおいたは見逃してあげられませんよ。今は、僕の拠点なので」
影はにこりと微笑んだ。冷徹さすら滲ませたそれに、思わず緋鞠は見惚れてしまった。
緋鞠が非日常に踏み込むきっかけとなったのは、父・富雄の死であった。
それまで彼女の周囲にあったのは、煌びやかにして和やかな平穏だった。女学校を卒業したばかりの緋鞠には将来の展望も何もなかった。実母は既に亡く、父からは疾く見合いをと口を酸っぱくして言い含められていたが聞く耳持たず、手広くおしゃれを楽しみ、流行のダンスホールに足を運び、瀟洒なカフェーで一息つく。そんな優雅で贅沢な日々を送っていた。
学生時代の友人は、一人は師範学校へ進み、一人は早々に嫁いでしまったため出歩く際は常に一人であったが、寂しさを感じることはなかった。何より未だ和装が基本の大正の世において、最先端のモダンガールの装いに身を包んだ彼女は歩くだけで注目の的だったため、その快感が孤独を忘れさせていたのかもしれない。もちろんその視線の中には「はしたない」という非難の目も多くあったが、時代遅れの海老茶袴からようやく脱却できた喜びの前ではさしたる影響も与えなかった。
令嬢として生を受けた緋鞠は金に困ったことはなかったが、それでもやたらと浪費するわけでもなかった。曾祖父の代に高之城昌造商店として薬種問屋から出発した彼女の生家は、祖父の代には高之城商店と名を改め、近隣で知らぬ者はいないほどの製薬会社として名を馳せた。和漢薬専門店から洋薬中心に切り替えてからの発展はすさまじく、強心剤から子供の夜泣き用の薬まで、自社製だけでなく海外からも取り寄せていたため、客の需要に幅広く応えることができたのだ。
そうして商いを盤石なものとした祖父の口癖が、「無駄遣いするな」だった。厳格ながらも人徳のあった祖父が緋鞠は大好きで、親の言うことは聞かずとも祖父の言うことなら一も二もなく聞いたほどだ。
代が移り変わっても上り調子に変わりはなく、工場も新設された。父の商才の有無は分からないが、多くは祖父の残した人徳が作用しているようだった。
それでも末永く会社を存続させるために、緋鞠にはより良い婿を取らねばならぬと、富雄なりに必死だったのだろう。帰らぬ人となったのは、その志半ばのことだった。
服毒自殺であった。
「旦那様が自殺なんて、きっと何の間違いですわ。どうかもう一度調査なすってくださいまし」
泣いて刑事にすがっていたのは、後妻に入ったばかりの玲於奈だった。芸者上がりで三十がらみの年増であったが、おっとりとした優しい雰囲気を持った彼女を、緋鞠は好いていた。母というより姉のような存在で、時折暴力的なまでに香水を振りまいていることはあれども、その彼女が泣き崩れる様は、父の死よりも心が痛んだ。
「お気持ちは分かりますが、密室で毒死では、自殺以外の何者でもありませんな」
緋鞠とて、突然の父の死には信じられない思いだったのだが、刑事はにべもなかった。
「きっとあやかしのせいだわ」
泣きはらした目をして、玲於奈はそんなことを呟くようになった。現実を受け入れられないあまりついに尋常でないことを言い始めたのかと思い、緋鞠はそっと窘めた。
「あやかしなんて、玲於奈さん。今は大正なのよ」
「じゃあ旦那様の死をどう説明するの? 他に言いようがなくってよ。あやかしに殺されたのだわ」
歯車の狂いを緋鞠が感じ始めたのは、それからだった。
泣くのをやめた玲於奈は喪服を投げるように放り捨て、それまで一度とて身に着けたところを見たことのない華美な服装を身にまとうようになったのだ。和洋問わず誂えさせているようで、業者が頻繁に出入りするようになった。
出入りが頻繁になったのは、業者だけにとどまらなかった。まず古株の経理担当の斑鳩が、重森なる若い男にとって替わられた。彼は富雄が亡くなる前に補佐として入社した者で、気づいた時には斑鳩が座っていた椅子に当然のような顔をして座していた。
高之城商店の社屋と高之城の屋敷はまだ薬種問屋だった頃からの倣いで隣り合っていて、研究施設のみ離れている。といっても通りに面した側に販売店を兼ねた本店があり、その裏の広大な敷地に住処である日本家屋が連なっていて、通ろうと思えば本店側から屋敷へと通り抜けることもできるのだが、その屋敷の方に重森がちょくちょく顔を見せるのだった。
屋敷は広く、使用人もいる。だが重森には経理以上の仕事をさせるつもりは、そもそもなかったはずだ。ならば何をしに来ているかといえば、彼は玲於奈に会いに来ているのだった。そのことに最初に気づいたのは下女の聡子だった。
「どうにもあの二人、できているみたいですよ、お嬢様」
そんな風に告げ口してくれた聡子だったが、彼女は彼女で働きにくそうにしていた。なぜなら使用人のほとんどが、父の死に前後して入れ替わってしまったのだ。何か気に食わないことがあるのか、次から次へと新しい人を雇い古い者には暇をやってしまっているようで、気づいた時には緋鞠が子供のころから親しんできた乳母も下女もいなくなっていた。聡子とて今の中では古株とはいえ、まだ新顔なのだった。
だから告げ口は、安易に首を切らないでほしいとおもねっているのだろう。
「奈々子さんたら、喋らないし笑いもしない。それでいて奥様に気に入られていて大きな顔してるんですから、やりにくいったらないですよ。それに奥様の高価な香水の匂いが移っていて、もう……」
新たに入った同僚の愚痴まで言っていくのは、ひそかに彼女を切ってほしいと願っているからかもしれない。だが緋鞠に使用人の人事権はないのだ。何もかもが玲於奈の掌の上で決まっている。
当然緋鞠も、その範囲内にあった。
「緋鞠さんも出歩くのはそのくらいにして、そろそろお見合いをしなくてはいけないわね」
すぐ傍に臆面もなく重森をはべらせながら、そんなことを言うのだった。見目のいい若い男を傅かせ美しく着飾った玲於奈は、地味な装いで温和に微笑んでいたかつての彼女よりよほど輝いていたが、緋鞠はその変化について行けずに戸惑うしかなかった。
「どうしてお見合いなんて? 前は、まだ早いって一緒に反対してくだすったじゃない」
「前は前よ。今は状況が違うの。ほら、新聞記者が嗅ぎまわっているでしょう? 落ち着かないったらないわ。それでね、この方なんてどうかしら。萬里小路商社のご子息なのだけれど」
「萬里小路なんて、うちの競合相手じゃない!」
同じ製薬会社にして規模も同じくらいの、お互いに客を取り合っているところだった。あまりに馬鹿げた話に、当然緋鞠が首を縦に振るわけがなかった。だがそうして拒絶するのが分かっていたように、重森が笑って玲於奈に言ったのだ。
「ほら奥様、言った通りでしょう。このお話にお嬢様が納得するはずないと」
「あら嫌ね、もともとこの話を提案したのは白夜でしょう?」
「提案はしましたが納得させられるとは申しておりませんよ」
玲於奈は馴れ馴れしげに重森を下の名前で呼んでいた。彼らは緋鞠の目も気にせずに手を重ね合っており、男の小指には不似合いな指輪がはめられていた。
未亡人になったとはいえ、まだ忌が明けてもないこの時期に、堂々とそんな振る舞いを見せられる彼女の様子に、緋鞠は二の句が継げなくなった。
以前はそんな人ではなかったのに。
玲於奈は、変わってしまったのだ。きっかけは父の死だが、そこに付け込んだのは重森白夜に違いなかった。
緋鞠は悲しみと同時に怒りを覚えた。
だからそんな彼が提案した見合いならなおのこと、断固として拒否するまでだった。だが断り続けても、玲於奈は懲りずに進めてくる。重森が関わっていると思うと、嫌悪感しか湧かなかった。そんな何度目かの応酬の後だった。
「どんな方を持ってこられても無駄よ。あたし、お見合いなんてしないから」
見るだけでも、と写真を見せようと笑顔で迫ってくる玲於奈をいつものように追い払おうとした緋鞠だったが、不意にその手を掴まれた。ぎくりとして顔を向けると、鬼の形相をした玲於奈と目が合い、心臓を掴まれたような感覚に陥った。
「いい加減に、子供みたいな聞き分けのないことを言うんじゃなくってよ。あなた、誰のおかげで今まで、生きてこられたと思っているの?」
「誰のって……お父様、よ」
「でももう、そのお父様はいないのよ。今のこの家の主は、この私なの」
今まで見たことのない恐ろしい形相をした玲於奈は、聞いたこともない低い声でそう言った。屋敷の中にいるのに、温度が下がった気がした。これから外出の予定でもあるのか、着ている艶やかな京友禅の訪問着が幽霊のようにぽっかりと浮かんでいて、一層恐怖を引き立てる。振り払うこともできなければ、一歩たりとて動けない。掴まれた手が潰されそうなくらいに痛み、息がしづらい中、緋鞠は必死で喉をひくつかせた。
「で、でも、叔父様たちは、認めていないって、言ってたわ……」
「はん、金を無心しちゃあ袖にされている老いぼれに何ができるものですか。旦那様が私に全部くだすったのだからね。それよりこの家にいたいなら、私に逆らわないことよ。今日は見逃してあげるけれど、次はないから覚えておいで」
腕が解放された時には、先刻見たのは錯覚ではと思うほど完璧な笑顔を張り付けた玲於奈がそこにいた。緋鞠のよく知るおっとりした笑顔。だがその裏に隠されたものの正体を、緋鞠は忘れることはできなかった。
彼女は変わってしまったのだ。
その証拠にというわけでもないだろうが、後日、研究員の西村が馘首された。次いで久瀬工場の長を始めとする役員らも同様の道を辿った。いずれも長らく高之城に貢献してきた者たちだった。久瀬工場は代わりの者を立てることなく、畳むこととなった。どんな作用が働いたのか、緋鞠には分からなかった。だが確実によくない方向へ進んでいることだけは分かった。
家の中が良くないものの気配で満たされている。見えるわけでもないのに、何かがいるのを感じるのだ。天井の隅や物陰から見られているような。
緋鞠の生まれ育った家はもはや、息苦しくて居づらいだけの場所と成り果てていた。父・富雄がいた頃の明るさは失われ、今ではどんなだったか思い出せないくらい、家の中が暗い。それもみんな、あの二人のせいだ。
玲於奈に「重森と別れろ」と、またいつしか住みつくようになっていた重森に「出て行け」とは、言う勇気はない。その進言をした者らは皆この家や会社から去っている。正式な高之城家の人間は緋鞠なのに、その彼女すら追い出そうという意思が見え隠れしていた。
乗っ取られた場所が、居心地いいはずもない。