第3話 友達
私がこの世田谷の中学校に入学して早2週間になろうとしている。ゴールデンウィークが近い。春の陽気はまだ私達を照らし続けているけど、桜は既に散り、来年まで見納め。
私の周囲の人達もすっかり学校に慣れたのかクラス関係なく、次々と友達やグループやら、コミュニティを作っていく。
部活動も本格的に始まり、私も入学式の日に荻野先生から期待を受けつつもやはり先生が顧問であったバレーボール部に入部。勉強、部活動、家事と忙しい日が続いた。
家事の方はここでの生活のために今までやってきた事だから基本的な事は特に問題はなかった。洗濯、ご飯、掃除……どれも一人暮らしする上では大切な事。
洗濯は雨が最大の敵。天気予報を新聞やスマートフォンでチェックしてタイミングを見計らって行う必要がある。
早朝に干しても私が学校に行っている間に大雨で濡れたりでもしたら目も当てられないから。
料理の方も栄養が偏らない食生活になるようにバランスを整えている。こういう時、叔母さんの家から持ってきたレシピが役に立つ。
だけど、毎日が同じサイクルの食事なのもどうかと思うのでレシピに私なりのアレンジを加えたり、この前の休日は友達と食べたくてファミレスで済ませたりもした。
掃除は勿論、掃除機はない。雑巾や折りたたみ式モップを使っている。
新聞は世間の事を知っておいた方がいいとお義父さんや叔母さんの進めで契約して来るようになっている。
テレビはないけど、私のスマートフォンにはワンセグがあるので、一応テレビを観る事は出来る。だけど、情報収集をするのならば、ニュースじゃなくても新聞で事足りると思っている。
ところで、その叔母さんとお義父さんがこの前、私の様子を確かめに電話してきた。「こっちは大丈夫だよ」と笑って近況を報告した。
叔母さんも私が家からいなくなってご飯を作る量や洗濯物が減ったけど反対にちょっぴり寂しいらしい。
でも、私がやりたい事をやっている事に喜んでいる様子だった。
あと、ついこの前、叔母さんは二人目の子供の……小一のタクオ君の入学式に行ってきたらしい。それでお義父さんはカメラで写真をたくさん撮っていたとか。お義父さんは私には静かな態度が多いけど、やっぱり家族愛が凄いんだろうなぁ……
小三の兄のタクイ君もクラス変わっても元気に学校に通っているとか。
私も友達が出来た事や学校についても報告すると叔母さんもお義父さんも「良かった」と笑って返してくれた。
ありがとう……叔母さん、お義父さん。こっちに来て良かったって……そう言える三年間にしたい……改めてそう思った。
あと、一ヶ月に一度は電話して近況を教えて欲しいとも言われた。私も家を離れたとはいえ、たまには叔母さんやお義父さんの声を聞きたいので今度からは週末の夜にでも電話をしようと思った。
部活もバレーボールは小四の頃から続けてきたから慣れてるけど、難しくなった勉強と部活の両立が一番大変だった。
小学校の頃から勉強と部活を両立してきたけど、なんとか頑張ってきた。でも、環境の違いだからなのか、思いの他すんなりとはいかない。部活も小学校の時はやらなかった練習メニューだったりするし。
ランニングの距離も校庭が小学校よりも格段に広いため、長く感じた。まだ始まったばかりだけど、気を抜いちゃいけない、死ぬ気で頑張らなくちゃ……せっかくここまでやってきたのだから……そう考えれば考えるほど、私の心を振い立たせる。
そんな私にも入学式を終えた次の日から友達が出来た。
ここに入学して色々な人と話すけど、自分からグループに参加しようと思っても部活や家事、勉強などの用事で忙しくてどうしても一緒につるむ事が出来ない。
だけど、この友達は違う。私から見て右隣の席だったゆえに入学式終わった後の教室で目があった赤ピンセットの女の子。
自己紹介の後、帰り際に向こうから話しかけてきた事がきっかけなんだけど、その後も勉強を教えあったり何かと付き合いが多かった。その友達が……
「零さん、明日の数学の問題集でやる場所……どこだっけ? 確認させて」
「ええとね……このページのここから……ここと……あと、ここまでだよ」
ゴールデンウィークが近いその日の三時間目の理科の授業が終わった後の事。
私は気兼ねなく話しかけてきたその子に一時間目の授業のために持ってきた数学の問題集をめくりながら、明日やる場所をページを指差して優しく教えてあげる。
あの先生、時々ページを飛ばして授業やるから確認が必要になったんだろう。教科書じゃなくて問題集限定だけど。この問題集、結構飛ばし飛ばしで今のやってる授業に適した問題が色んな問題の中に入ってるから。
それに、教科書ほどではないけど、この問題集、結構分厚く問題の量も多くて、後半の部分をめくってみると訳が分からない数式や文章問題がズラズラと書かれている。
見ているだけで、訳が分からなくなり、中学校の洗礼を浴びせられたような嫌な気分になる。何せ、二年生までこの問題集は使うらしいから。
「ありがと、零さん」
数学の授業の範囲の確認を終えたその子は私に和やかな顔でお礼を言った。
「これぐらい、いいよ。隣同士だから」
「ふふっ、そうね。ありがと」
私が気さくに返すとその子は軽く笑い、再度礼を言った。
そう、その子の名前は同じクラスの笹城歩美。黒のショートヘアーで赤いピンセットで右に分け目を作っている活発な笑顔の女の子。
他の友達と交流はあっても部活以外ではなかなか友達の輪が広がらない私と同じく、歩美もあまり友達が出来ていなかった。帰り道に乗るバスが途中同じな事もあって、教室以外でも交流が多くて、最初は苗字で呼び合ってたけど一週間半もするといつの間にか自然に下の名前で呼び合うようになり、親しくなっていった。
この前は近くのファミレスで一緒に食事もした。最初、下の名前で呼ぶようになったのは歩美の方。私もそれに合わせた形だ。
そういう事もあって、私は歩美に普段、人にはあまり話せない事もすんなり話せると内心で密かに確信した。接していて、純粋で素直な優しい子だと感じたから。
両親がいない事で叔母さんのとこに引き取られて小学校を過ごした事、ゆえに今年から一人暮らしを決めた事など。自己紹介でこれを喋らなかったのはやっぱりああいう場では喋りにくいから……
あの場では喋らなくて良かったのかもしれない。バレーボールの話やその他の趣味の事で十分だった。一人暮らしなのを話すと何かと厄介な事に巻き込まれそうだから。
だけど、私は歩美を信じて、これは歩美になら喋ってもいいと思った。いや、喋りたくなったと言えば正しいかな。
隠す反面、どこかそれを理解してくれる人いたらと思った事がある。荻野先生も知ってるけど、先生もいつも傍にいてくれるわけじゃないし。
ゴールデンウィーク初頭のある日、短縮授業の帰りの正午を襲った激しい雨の中を走るやや混雑している帰りのバスの中で、私達は窓際の奥の席の左隅に並んで座っていた。
この日はもう昨日から大雨になる予報だったので、洗濯物のために急いで帰る必要もなかった。洗濯物も次の日にしようと決めたから。
私が自分の事をそっと喋った時、歩美はそんな私の事を、
「ええっ!? そうなの!?」
と、最初は仰天して驚きつつも大いに受け止めてくれた。
それどころか、私の事を凄い関心して、「私はダメだなー、もっと頑張らないと」と気合を入れていた。
私が口止めすると「大丈夫。この事、誰にも言わないから」と約束してくれた。二人だけの内緒だとも。
ただ、荻野先生以外の内緒、だけど。
すると歩美は口を開き、続けた。
「大丈夫、人って誰でも大勢の前で言いたくない事ってたくさんあるものだから。零さんだけじゃないよ。私だってそう。お父さんが会社経営してるからお金持ちなんだけど、これあまり大きく言えないもん」
歩美は私の方を見て優しく鼓舞するように言った。
「えっ……? お父さんが社長……?」
初耳の言葉に私もちょっと驚いた。まさか社長令嬢だなんて……
「うん。私のお父さん、一つの会社の社長なの」
でも、裏表もない……正直な顔だった。私が自分の素性を喋った事に対するお返しに歩美も自分の事を喋ってくれた。素直で健気さを感じた。
きっと、お金持ちの娘ゆえに裕福だけど、大変な事もあるんだろう。
「零さんの事も凄く分かる。お母さんもお父さんもいないって悲しすぎるもん。たぶん、私より辛いよ」
そう寂しく言うと歩美は右手にある白い窓の景色の方にそっと視線を向けた。外は白い空から降り止む事のない雨が降り続け、雨水がどしゃ降りに窓へと流れ落ちている。歩美はそれを見ながら、静かに話を始めた。
「私もね、幼稚園の頃にお母さんが病気で亡くなっちゃったんだけど……お父さんが必死に自分が興したSASAGIっていう電化製品売ってる会社を経営して、私を育ててくれたから……お父さんには凄く感謝してる」
SASAGIという会社名は私も初耳だ。経営する店舗には行った事があるかも分からない。けど、歩美が東京に住んでいる以上、この広い東京のどこかにそういうお店があるのだろう。
激しい雨が降り、雨の中を通り過ぎる景色と車を眺めながら、雨水が次々と上から流れ落ちる窓の方に視線を向ける歩美を見てるとどことなく切なさを感じた。
やっぱり、お母さんがいなくなって寂しいんだろう。歩美も私に言ったように私よりも辛いと返したいけど、返せそうな空気じゃない。
それに、どちらが辛いとかそういう問題じゃないと思う。このまま歩美の話に耳を傾ける。
「だからね、私、将来はお父さんの会社を継ぎたいって思ってる。恩返しするんだ、お父さんと天国にいるお母さんにね」
窓に向けるその眼差しはどことなく、その先の未来への希望を示したもののようだった。歩美も、頑張る事でお母さんを失った悲しみを乗り越えようと頑張っているんだろう。
さっきの「あまり大きく言えないもん」というのは、歩美は社長令嬢ゆえに小学生の頃から一段浮いた存在だったのかもしれない。ゆえに辛い事もあったのかも。
だったら、私も彼女に何か言ってやらないといけない。私は窓に視線を向ける歩美に話を切り出す。
「歩美。私もね、親戚の叔母さんの家でお世話になった時は辛い事もいっぱいあった。叔母さん、忙しいから授業参観とか保護者が必要な行事にも来てくれなかったから……いつも一人ぼっち。だけど、感謝してる。身寄りがない私を拾ってその上面倒まで見てくれたから」
「……私もそうだよ。親が来る行事ではいつも一人」
こちらを向く事なく、歩美は寂しげに答えた。
「歩美も?」
「うん。幼稚園とか小一の頃とか、授業参観や運動会にもお父さん、来れない事多かったし、クラスの人からいじめられた事もあった。でもね、それも仕方ないって思った」
「仕方ない?」
私が流れに乗って尋ねると歩美はそっと頷いた。
「お父さんも会社の経営で忙しいからいじめの事を話すと苦労をかけちゃうし、私はその娘なんだもん。だったら、私が強くならなきゃと思ったの……余計な迷惑なんて、かけたくないから……」
悲しい顔をせず、どこかぎこちないけど笑顔を保ってるからしっかりしてるなと思った。お母さんがいない社長令嬢だからこそなのかもしれない。
自分がしっかりしないといけない……自分とどこか同じものを感じる。
「だって――私が強くなれば問題解決だから」
ぎこちない笑顔を浮かべつつも歩美のその強い口からは真剣さと前向きさ、ひた向きさが伝わると同時に努力家な一面を感じさせた。
辛くても頑張る――自分と大切なもののために――私達はどこか似ているのかもしれない。私も小学校の後半はこの一人暮らしのために全てやってきた。
歩美もそうやってお父さんと会社の事を思ってここまでやってきたのかもしれない。
その後、私と歩美は雨の中を走行するバスの中で幼稚園や小学生の頃の思い出を時間の許す限り、お互いに語りあった。なるべく、暗い話よりも明るい話を積極的に話した。
雨の中なのか、時間の進みがいつもより遅い感じがする。幼稚園のお泊り会や小学校の移動教室の話とかの話を出して、歩美にもあったかを訊いてみる。
私が経験した事は歩美も殆ど経験していたようで、話が弾んだ。
私も普段の家ではない場所で一夜を過ごすお泊り会は凄い楽しかったのを覚えている。
夏の猛暑の中、明るいうちはみんなで水遊びをして、夜は組部屋でお弁当を食べた後、洗面所で持参の歯ブラシで歯磨きをして、体育館ホールに布団を引いて、ビンゴ大会をしてから就寝。
小五の移動教室は叔母さんの家の事も気にしないでずっと部活のように仲のいい友達と行事を楽しめた。山登りをしたり、神社にお参りしたり、お土産を買ったり。部屋ではトランプしたり、枕投げしたり。
それは歩美も同じようで、家から離れた場所では歩美も楽しい思い出を作っていたようだった。
私達はそうやってお互いの過去を共有していった――。
大雨で道路も混雑していて、更に休日である事も相まって、道路はやや渋滞していたので、バスのスピードものんびりだ。だが、話に熱中しているとそんな時間も早く過ぎてしまった。
ゴールデンウィーク初頭、その日初めて私達はお互いの過去を知った。
これもあって、私達は初めて親しい友達になれたのかもしれない。
勉強を一緒にやるのも席が近いのも何かの縁があったからなのかもしれないけど、お互いを知る事でより距離が縮まったような……そんな気がする。
歩美の悲しい過去も、私と同じく親を失って特別な立場に置かれたゆえにあったもの……いや、歩美の場合、そもそも家が家だけにより特別な立場に最初から置かれていた。
それが、お母さんを亡くした事でより他の人とは違う立場となったんだ。お父さんとお母さんを亡くした私のように。親を亡くした過去を持つ共通点が皮肉にも私達を友達の輪で結んでくれているのかもしれない。
私は物心つかない時にお父さんもお母さんも亡くなったけど、歩美の気持ちはよく分かる。歩美は自分よりも私の方が辛いと言ってたけど、歩美も本当は凄く辛いと思う。
物心がつく幼稚園の年齢でお母さんが亡くなるのは悲しかっただろうし、その年齢で辛い現実を突き付けられた時には……たまらなかっただろう。
今思えば、私も昔、叔母さんとかにお父さんやお母さんの話を聞かせてもらった後、行く先々で回りの一緒に楽しく笑いあう親がいる他人の家庭の明るい光景を見ると、思わず自然と寂しさが涙と同時にこみ上げてきた事がよくあった。
寂しさと一緒にどうして自分にはお母さんとお父さんがいないのかという羨ましさも同時ににじみ出た。
だけど、その時励ましてくれて、自分達が私の親だって言ってくれたのが叔母さんとお義父さんだった。
歩美もそんな事がきっと何度もあったと思う。ちょっとした事で泣いてしまったりする事……しかし、強くならなくちゃいけない。大切なもののために。
だから窓に視線を向けて、笑顔でごまかし、こらえていたのかもしれない。辛い事を思い出して流れる涙を。
今日の一件で、今までは一人暮らしのために頑張ってきたためか、いつの間にか私の中で離れていた記憶が一気に身近に近づいてきたような感じがした。
だけど、今は泣いたりしない。私も歩美を見習って、頑張っていこう。歩美だって、頑張ってるんだから――。
歩美と夢中になって話をしていると、私達の乗るバスは私の家の最寄のバス停に停車した。
「じゃあまたね」
「うん、またね! 零さん」
座席を立って歩美に挨拶し、別れて一人、バス停に降り立った。
どしゃぶりの雨の中、なるべく体が濡れないように素早く透明のビニール傘をさして家に向かって歩きながら、私は改めて歩美と話した事を思い出し、自分を奮い立たせ、そう決心した。