第1話 私の生い立ち
これはまだ、私が中学一年生になる頃の事。
今思えば懐かしくもあり、全ての始まりの出来事が起こる前の話。勿論、今親しいみんながまだ私の傍にはいない頃で、今とは違って、髪もまだ黒髪で長くて右目の視力も正常で……
まだごく普通の人間だった頃のお話……
私の名前は黒條零。
はたから見れば、どこにでもいる小学校を三月に卒業してこれから中学一年生になろうとしているごく普通の将来に夢と希望がある学生。
私は両親を幼い頃に交通事故で亡くした。物心つく前の2才の頃に。私は何とか助かったけど、お父さんもお母さんも……死んでしまった。
お母さんはバツイチでお父さんと再婚して、そして私は生まれた。物心つく前の事だったので、私はお父さんとお母さんの事は親戚から話を聞くか残された写真とビデオでしか確認が出来ない。
お父さんとお母さんは仕事先で知り合った事が交際のきっかけで付き合い始めたという。バツイチのお母さんは前の旦那さんと長らく冷戦状態で別れた後、お父さんと出会ったらしいけど、前のお義父さんとは不倫が理由で離婚の引き金になったみたいだ。
お母さんは髪が長くてとても優しい笑みを浮かべていて綺麗だった。お父さんもサイドバックの整った髪、鋭い目がとてもカッコ良かった。写真の中ではまだ赤ん坊だった私をお母さんが抱いて二人とも幸せそうに笑っていた。
お父さんとお母さんが亡くなった後、私は埼玉の親戚の叔母さんの家にお世話になった。親戚の叔母さんはお父さんの妹にあたる。両親を亡くしてすぐ、私には身寄りがなくなったから赤ん坊だった私は叔母さんの家にそのまま引き取られる事になった。
それで物心つくようになって、初めて……叔母さんから生前のお父さんとお母さんについて聞かされた。
物心ついてから、話を聞かされたばかり頃は私にはお母さんとお父さんがいないという事がとても信じられず、一人暗い部屋で泣いたのを今も覚えている。
そして、今までお父さん、お母さんと思っていたお義父さんと叔母さんが本当の親ではない事も。
埼玉と言っても、都会ではなく山の近くで自然と都会の境目と言った所。保育園を経て、叔母さんの家から歩いて通える小学校に通った。住宅街の中を歩いて、裏山がある小学校。
私はそこで叔母さんとお義父さんのお世話になりながらも毎日を楽しく過ごした。
だけど……月日が経つにつれ、成長するにつれ……また、自分の境遇を知って、いつまでもこの家にお世話になる事に――私は次第に自分の置かれている立場に抵抗感を感じた。
叔母さんの家には私以外にも男の子が二人いる。どちらも2036年現在ではまだ小三と小一になったばかり。お義父さんと共に共働きしなければ、とても食べてはいけない。
年長の私だけでなく、子供二人の面倒も見なければならないのだから叔母さんは毎日とても忙しい。仕事だってあるし……
でも、いつもそんなことお構いなしに親戚の私に良くしてくれるし、優しくしてくれる叔母さんだけど……悪いと思った。
同時に小さい子供が二人いるのに私を引き取ってくれた事に改めて感謝しないといけない。私はそう強く感じた。
もしも、私達三人の面倒を見るあまり、無理をしすぎて叔母さんが病気にでもなってしまったら……
誰が美味しいご飯を作るのだろう? 誰がみんなの洋服を洗うのだろう?
だから私は決めた。この家にお世話になるのは小学校までだと。私が叔母さんの家事の手伝いをしても、その全てを助けられるわけじゃない。
私が学校へ行っている間も叔母さんがやらないといけない事はたくさんある。
私も含めて五人家族を養うための仕事量は尋常じゃない。
小四の段階で将来に向けて自立を考えた私は小学校卒業後は叔母さんの家を離れ、無謀かもしれないと思いつつも中学からはどうにか一人で都会の方で……東京で暮らせないかと考えるようになった。東京ならば住む場所はたくさんある。
バイトなんて出来る年じゃないし、家賃や学費、生活費とかお金は結局全部色々とお世話になってしまうだろうけど……私一人さえこの家にいなければ……叔母さんも家で少しは楽が出来るはずだ。
毎日私のご飯を作る必要もなくなるし、私の洋服を洗う必要もなくなる。よそ者の私の事なんか気にしないで二人の男の子を見られる。
二人の子供もこれから大きくなるし、私がいない方が叔母さんもきっと楽になるはずだ。
実際にそれを言いだす時は最初は怒られるかもしれないと凄い怖かった。叔母さんとお義父さんは親がいない私の事を思って私を引き取ってくれたから。簡単に首を縦に振ってくれるとは思えない。
けど、私は諦めなかった。小四の時から頑張って、自分だけで家事が何もかも出来るよう、より積極的に叔母さんの手伝いを学校から帰ってきて毎日やったのだから。
洗濯物の整理や洗濯、夕飯の準備ともう色々。家事は小一の頃から時々手伝いでやっていたけど、自立を決心した小四からは、よりそれを積極的にやるようになった。
それもあったから、一つを除いて成績は――中頃。赤点だけは避けていたけど。60~80点。で、たまに90点台に届くぐらい。
友達もいたはいたけど、自分の事を優先していたので、あまり一緒に遊ぶ事は少なかった。
代わりにクラブ活動で通常の体育の授業の中で得意だったバレーボールクラブに入って、その時限りは存分に家事や家の世話を忘れて一生懸命打ち込んだ。
仲のいいみんなは室内遊びクラブとかに行ったけど、この時だけは……放課後だけは自分のやりたい事をやろうと思ったんだ……帰れば、将来のための家の手伝いや勉強が待ってるから。
当初はクラブなんて邪魔だと思ったけど、四年生になってみんなが必ずやる事だから、私は授業と同じ感覚だった。
バレーも私達の学校は全国大会まで進んだ。学校としては四度目の出場だった。優勝は最初の一回。が、準決勝で惜しくも健闘むなしく敗退した。
悔しかったけど、四度目の出場を決め、準決勝まで進めた功績を校長先生らが凄い褒めてくれたのを覚えている。
勉強、家の手伝い、クラブ活動……そんな日常を繰り返しているうちに小学校生活の終わりが刻々と近づいてきた。
六年生の新学期がこれから始まろうとしている春休みの終わりに私は一人暮らしの意志を思い切り、夕飯後に叔母さんとお義父さんに伝える事を決めた。
「夕飯の後にちょっと将来の事で大切な話があるんだけどいいかな……」と事前に話をする事を伝えた上で。
「叔母さん……お義父さん……私……」
私はこれまで抱えていた全てを……叔母さんとお義父さんが二人いる前で全部打ち明けた。
叔母さんは私の意志を聞いた時、驚いたと同時にこれまでの私を見ていて察してくれたのか、反対するよりも先に「いいんだよ。ずっとここにいて」と優しい言葉をかけてくれた。叔母さんはたとえ、親戚の私がいつまでもこの家にいても構わない様子だった。だけど、私の一連の気持ちを聞いて、叔母さんの口からは思わぬ言葉が飛び出した。
「零ちゃんのやりたい事だったら、叔母さんは思い切り応援するわ。すごいじゃない……人生設計を早いうちから考えるなんて……すごい立派な事よ」
叔母さんに抱きしめられて、その優しくも背中を押す一言で……私は自分が立てた目標がいつの間にかこの家のためというよりも自分のやりたい事なんだなという事を改めて自覚した。
てっきり、叔母さんだったら私の事を引き止めると思っていた。叔母さんは私のお父さんの妹。だから、私がどこかへ行ってしまう事を悲しむと思っていた。
一方、クギを刺すようにお義父さんからは予想通り、腕を組み気難しい顔で
「零。分かっていると思うが、一人暮らしは大変なんだぞ」
……と、静かなる厳しい忠告をかけられた。お義父さんは親身に接してくれる叔母さんと違い、厳しさも持っていた。
お義父さんの説得にはその場にいた叔母さんも小四時代からの私の事を出して、必死に協力してくれた。
また、お義父さんも叔母さんも当然、ニュースや新聞で一人暮らしの学生関係の情報については耳にしているようだった。
いつまでも甘えてちゃいけない事。
私から見たこの家の状況、そして意志をきっちり自分で伝え、叔母さんからも叔母さんから見た私の小四からの努力を伝えられたお義父さんの顔は厳しいものから徐々に諦めついた顔へと変化していった。
それに私は、ちゃんと努力を見てもらえるように『結果を形で示せるもの』だって用意したのだから……
「……そうか」
「分かった。分かったから。零、お前が2年前からこの日のために相当努力していた事はよく分かった……」
「どうせ、ダメと言っても……曲げないんだろう? 諦めないんだろう?」
「……認めよう」
「ただし……失敗はダメだからな」
最終的にはお義父さんもそう言って観念したかのように静かに私の意志を認めてくれた。だが、失敗しないという条件付きで。
失敗はしない――私も小四から目指していた事だから。
「あ……ありがとう! お義父さん!」
私は肩の力がその瞬間グッと抜け、その場で嬉しいあまり泣きそうになった。
叔母さんとお義父さんの了承をもらった私はそれから12ヶ月の大半を家事や手伝いの他に進路を探す事に費やした。中学生で一人暮らしなんて、生半可では出来ない事だ。
なのでまず、保護者であるお義父さんと叔母さんの協力は必要不可欠だった。だから進路について考え始める六年生が始まる早い段階でそれを伝えた。
お金とかの問題でどんなに貧相な所でもいい、一人暮らし出来る環境があれば。学校に通えるのならばどこへでも……その一心で私は卒業後の進路を探した……
* * * * * *
そもそも私が小四の時、無茶を承知で一人暮らししたいという考えに至ったのには、ちゃんとしたきっかけがある。
きっかけは、春の初めのある日、平日の夕方にやっていたニュースの特集。内容は近年この日本では中学に入ってから、自分でアパートに部屋を持って一人暮らしする学生も珍しくなくなっているというものだった。
新生活が始まるシーズンなのもあって、そういう特集が放送されていてもおかしくはなかった。
主に自主性を早いうちにつけるためという教育方針でごく一部の学校には学生が一人暮らしするための
支援制度や環境がしっかり組まれている。
特にそれが大きく充実してる場所として、お台場方面に学園都市って呼ばれてる場所があるナントカ……島っていう場所があるんだけど……
詳しい名前は忘れた。でも長い名前ではなかった……と思う。
短い名前なんだけど思い出せない……色んな記憶が混同する……覚えていたはずなのに……情けない。
でもとにかく、そこはそういう教育と支援制度の発祥の地で学生が多く住んでいる場所として有名のようだった。
レストランもあるので、家事が出来ない学生もある程度のお金さえあれば、始められるらしい。簡単に言えば、巨大な学生寮の中に学校があると思えばいい。
この話題は度々春方にはこの時間のニュース番組ではよく特集されていた。一方で茶色い赤ネクタイスーツ姿の厳しそうで辛口なおじさんのコメンテーターが少年犯罪を加速させるという懸念をしていた。
一応、例のナントカ島をはじめとしたそういう教育制度がある場所では何かしらの対策がされているらしいけれども……
当初は迷ったがこれしかないと叔母さんの家にいつまでも居続ける事に内心、モヤモヤで複雑な抵抗感を抱き始めていた私は心に決めた。
私も当初は出来ればそのナントカ島……学園都市と呼ばれてる場所が一番いいなと思った。
だけど、そこの学生用のマンションに住めるならまだしも、そういう豪華な場所はどうせ学費も高くて
叔母さん達に迷惑と負担をかけてしまうだろう。そしたら本末転倒だ。出来るなら負担が少ない場所がいい。
それに遠く離れたお台場という東京の大都市の真ん中にある。いきなり慣れ親しんだこの緑も溢れる埼玉を遠く離れ、慣れない大都会で一人、新生活となると、深く考えればかなり不安も大きかった。
学校で悩む私は叔母さんに将来の事をさりげなく相談した。勿論その時はストレートに一人暮らししたいとは言わず、ただ自然に
「今日、学校で友達が将来の事を話してて……叔母さん。友達は看護婦さんになりたいって言っていたんだけど……私は何を目指したらいいと思う?」
友達が看護婦さん目指しているのは本当だった。病気やケガの人を助けてあげたいって。
私は自分の疑問を恐る恐る訊いてみた。そしたら、皿洗いしながら叔母さんは何か懐かしむように
「ふーん、その子もちゃんと立派な目標を持ってるのねえ~勉強とかも頑張ってるのかしらねえ~……」
「零ちゃん、将来の事はねえ……誰かに決めてもらうんじゃないのよ。自分自身で決める事なの」
「最終的には、零ちゃんがこれからどうしたいか、よ。少しずつでもいいから、よく考えてね」
さりげなく訊いた事だけど、私の背中を押すような叔母さんの言葉は私の心に大きく響いた。
自分自身で決める事……これからどうしたいか……
今後どうしたいか……それで一週間ぐらい考えて、どこの学校に行きたいかの目標もないまま、ただひたすら一人暮らしを見越して、家の手伝いやクラブ活動、進路探しもしながら考えた。
それでようやく考えがついた。少しずつ過ぎ去っていく楽しい学校生活の中で決心した。
一人暮らししながら、やっぱり他のみんなの大半が行くような普通の中学校に行きたいって。
* * * * * *
それで私は小四から月日が経って2年後……叔母さん達と相談して現在に至る。
結果、中学は普通の学校に通いたいと、ナントカ島とは縁もない別の中学校を選んだ。
普通の中学校でかつ、学生の一人暮らしを容認している場所。そんな場所を私は六年生になって、叔母さん達に気持ちを伝えて以降、あてもなく探し回った。
広告からインターネット、通っている学校からの情報、色んな方法で。
担任の先生にも叔母さんと一緒に事情を最初の三者面談で話した。先生も凄い驚いていた。だけど、家に私以外の子供が二人いる事、私は一人暮らしをしたいがために2年前から進んで家事などをやっていた事などを叔母さんのフォローもあって話すとすぐに納得してくれた。
「そういえば、黒條さん。家庭科の成績良かったもんねー。他の……悪くはないけど似たり寄ったりの成績の科目と違って家庭科だけは頭抜きでて全部オール百点だもの」
そう、家庭科だけは特別取り柄があると周囲から言われた。家庭科の成績が良かったのも、叔母さん達に結果で示して認めてもらいたかったのもあった。
『結果を形で示せるもの』とはその家庭科の成績も書かれた成績表。
勿論、それは叔母さんだけでなく、お義父さんも私が意志を伝えた際はそれを努力の結晶として見てくれたものだ。
そういうわけで何とかお義父さんと叔母さんに話をつけたものの、進路探しも簡単ではなかった。
最寄りの埼玉で探しても最適な場所はどこも部屋がいっぱいとかで来年春から入れる場所がなかったり……そこから学校の通学路も考えるとその条件は更に狭まった。
なので東京も視野に入れて探したが、大都会ゆえに学校はあっても部屋がいっぱいというケースが多く、私は苦悩した。部屋は空いても次の予約が来ているというケースもあった。
本当にもう、一瞬諦めかけた。
だけど……夏の終わりのある日、お義父さんがインターネットを駆使し、通学出来て、かつ学生が一人暮らし出来るマンションをバレーの合宿で私が家を離れている間に見つけてくれていた。
その場所は世田谷区内にあるというマンション。一か八かでお義父さんが管理人に電話をして事情を説明した所、いつも通り、予約を確認するので数日間待って欲しいと言われた。
ここまでは毎回のパターンだった。数日間待って、「やっぱりダメです」と断られる。その度に私は凹んだ。
だから私も既に過度な期待なんてものはしていなかった。
ところが数日後……私に待ちわびた歓喜の知らせが届く。なんと、今は部屋はいっぱいだけれど、来年三月には今住んでる人が大学に進学するため、引っ越すので今なら次の予約が可能だという。
私はそれを叔母さんから聞いて、その場で飛び上がるように喜んだ。
その結果、私は叔母さんの仕送りの援助を受けながら、お台場ほどではないが、埼玉から離れた世田谷区内にある五階建てマンションの三階の部屋で一人暮らしをしながら近くの中学校に通う事になった。
通学にはバスを使って十分ぐらい。部屋は狭いけど、学生一人暮らしを容認しているマンションの一つで家賃は叔母さん曰く、比較的安いらしいし、一人暮らしには最適だった。
通学も家賃の額も納得の行く内容だった。
お義父さん曰く、仮に学生一人暮らしを容認していなければ家賃はもっと高かったかもしれないという。
学生一人暮らしが出来るマンションの家賃は場所によって異なる。お金に余裕ある人向けの場所、お金に余裕ない人向けの場所と色々。
ここは幸い、部屋は狭いけど一人暮らしには十分だった。
この部屋にはまず、玄関から上がって正面には一番広い、茶色いフローリングが床のリビングがある。
玄関のすぐの右手にドアがあってそこはトイレ、リビングに入ってすぐ左手前に冷蔵庫付きのキッチンが続いていて、逆に右手前に小さな洗面上とバスルームの入り口がある。
右側のドアの奥は大きな物や洋服をかけて収納する押入れ、奥には白いカーテンがついた小さなベランダがある。
叔母さんの家から私が使っていた物はそのままもらった。家事用具などの必須品、家の裏の物置に眠っていたふかふかの絨毯以外の布団や小さい白いテーブル、勉強机は元から叔母さんが私にくれて使ってきた物だ。
お年玉やお小遣いもみんなは好きなゲームとか玩具を買ってはお正月明けに自慢していたけど、私は自分用の文房具や家事用具などに殆ど使っていた。
だから、自分用の生活で使う道具は結構あった。叔母さん達になるべく負担はかけたくない。自分のものはなるべく自分で買うようにしていた。
学生のための一人暮らしの支援制度やそのために特別整えられた環境はこの中学校にはない。なので学校側からの特別な支援はない。
けど、叔母さん達の支援もあって安心して暮らせる事になった。マンション側だけでなく学校側にも容認はされているし、そのマンションにも最低限の設備は用意されている。
私のたぶん最後になるわがままを聞いてくれた叔母さん達に感謝しないといけない。
この辺で一人暮らししてる学生は当然、私ぐらいだろう。衣食住を全て自分でやらなければならないのだから。でも、家事は叔母さんの家で学んだからどうにでもなった。
忙しい叔母さんの家で小一の頃から出来る事を少しずつ、かつずっと当たり前のようにやってきた事を小四になって加速させてきた。だから自然と出来るようになっていた。
私が家を出る日にはここまで私を支えてくれた叔母さんも最初は厳しい反応を示したお義父さんも二人の子供も気持ちよく送り出してくれた。
私も荷物を手に見えなくなるまで手を振った。
叔母さん達の家に別れを告げ、
私はいよいよ新天地へと旅立った――。
私はそんな今までの事を学校までの道を歩きながら振り返っていた。今日は中学校の入学式の日だ。バスを降りて五分ほど歩いたとこにその中学校はある。既に入学手続きなどの関係で一回訪れてるんだけど、通学ではこれが初めて。
少し歩くと私は校門前についた。真新しい長いスカートのセーラー服に身を包み、真新しい青いバッグを左肩にかけて。辺りに咲く桜が辺りを華やかに彩り、とっさにふいてきた春風が私の長い黒髪を静かになびかせる。
家から学校まで、小学校の時よりも少し離れてるけど、近くのバス停からバスに乗り、歩いて気軽に通える場所だった。学生割引で簡単に定期も降りている。
私の目の前にはまだ見慣れない新鮮な空気に包まれた大きな建物がそびえ立っていた。大きな四角い四階建ての白色の校舎の横にはサッカーゴールがある砂だらけの大きなグラウンドが広がっている。
ここまでの道のりは最寄りのバス停から降りて、反対方向にしばらく歩き、二つ目の道を右に曲がり、歩いて一つ目の道を左に曲がると校門へとまっすぐ続く民家と桜が立ち並ぶ道に出る。
周りを見ると私と同じ学校の制服を着たたくさんの学生達とその保護者が校舎へ続々と歩を進め、校門を通り、続々と中へ入っていく。校門前では既にこの学校の教職員と思われる大人達が待機し、手厚く生徒や保護者を出迎えている。
そう、ここが私が三年間お世話になる中学校だ。ここに通える事とこの近くで暮らせるように援助してくれる叔母さん達にも改めてちゃんと感謝しないといけない。ちゃんと勉強して、良い高校に入って、それから……
夢と期待を胸に秘めて、私も目の前の校門へと向かっていく。そう、今この時こそ、私が中学生活のスタートラインを切った瞬間だった。
――2036年、4月8日。私の新たな中学生活が今、始まる。
でもこの時は、まだ新しい場所に飛び込む新鮮さと楽しさを募らせる気持ちだけ。入ってからどんな事が起こるかなんて、あまり深く考えてもなかったんだ……いや、あんな事が起こるなんて考えもしなかった……