第34話 包囲網
「待て!! 逃がすかぁ!!!」
後ろから大きな怒号が耳に響く。柔らかい手を引いて、背後から追ってくる魔の手から逃げ切るべく、通り過ぎる通行人の数々を上手く避け、時にぶつかりそうになりながらも間一髪避けて、それでも走り続ける。
「ちょっ、境輔!! どこに逃げるの!?」
「いいからついてこい!! このままじゃ殺される!!」
変に行き先を喋れば奴らも追いかけてくる。くそっ、まさかここで長瀬川篤郎本人と出くわすなんて。幸い、まだ僕らの部屋の場所は知られていないはずだ。鍵だって持ってる。
すぐに部屋に逃げ込んで、鍵をかけてずっと籠城してればいいんだ。そうすれば敵に追われる事もない。
17階に僕らの部屋はある。だからそこまで逃げ切れば――。
沢山のレストランが並ぶレストラン街を走り抜けて僕らはエレベーターの扉が三台ある広場に到着する。エレベーターの周りには他の宿泊客の姿もある。
「境輔! エレベーターはどれも来るのに時間がかかるみたいだよ?」
ユヒナの言う通り、三台のエレベーターの階層を確認すると左は25階、真ん中は1階。右は17階。
そして、僕らがいるのは10階。これじゃエレベーター来る前に長瀬川に捕まってしまうし他の客にも迷惑がかかる。僕はその場に何かないか見回した。すると右手に続く通路の天井にドアに向けて走る棒人間が描かれた緑色に光る看板が目に映った。
すかさず、僕はユヒナの手を握ってその方角へと走り出す。宿泊客を避けて早々と。その先にある非常口に。ドアもないその先の通路の左手には上下に階段が続いていた。
どうやらこの階段は通路の一つとして開放されているのと同時に非常口の役割も果たしているみたいだ。体力は使うがそんな事は言ってられない。僕は階段を上へ、上へと素早く駆け上がっていく。20段ずつで構成されているその階段を。
「境輔、手を離して!! その方が早く上れるよ!!」
と、いけない。必死のあまりずっとユヒナの手を引いたままだった。ユヒナに言われて引っ張る事によって発生する重さが自分の足を引っ張ってる事に初めて気づいた僕はその手を離した。
「そ、そうだよな」
急ぎ足で12階まで上りきり、13階へと上るべく次の階段の踊り場へと足を進めていると背後の下の階段通路の方から迫るように床を踏む音が聞こえてくる。カツカツと素早く響くその音は少しずつ大きくなっているのが分かる。僕は迫り来る恐怖と寒気から足を一層速めた。ユヒナにもそれを促す。
「ユヒナ!! 17階の僕らの部屋へ急ぐぞ!!」
「う、うん!!!」
ユヒナも慌てて頷きながらも僕の後を必死でついてくる。僕とユヒナの足音も混じって分からないけど足音から考えて、相手は一人だ。それが長瀬川篤郎なのか、それとも4人の部下なのかは分からない。とにかく向こうも分かれて僕らを追い詰めるつもりだろう。
逃げて、逃げてようやく15階まで上りきると僕もさすがに息が苦しくなる。
くそっ……柔道引退してから身体がなまったか……
「境輔!! 大丈夫!?」
まだまだ息が切れた様子がないユヒナは僕を追い越そうとする足を止めて心配してくれる。
「だ、大丈夫だ……それよりも早く行ってくれ!!」
僕は階段の手すりを掴みながらもユヒナの背中を追って階段を一歩遅れて上っていく。背後からの足音がだんだん近くなってくる。まずい、このままでは……冷や汗をかくしかない。
その足音の主はどうにか急いで上りきった16階を目前にして気がついたら僕らよりも一段下の階段の踊り場に立っていた。その姿を見た途端、僕とユヒナは目を丸くする。
「見つけたぞ~、ピンク髪の女!! もうここまでだ!!」
青いアロハシャツ姿で因縁をつけ、獲物を狙う狼のような目をした男、長瀬川篤郎。
まずい、このまま逃げてもこいつを振り切る事は困難だろう。たとえ逃げたとしても僕らの部屋の場所が最悪バレてしまって袋の鼠だ。
こうなったら……覚悟を決めるしかないか……
「俺の兄弟である真木田をよくも殺ってくれたな!! ついでにリッパー・ヴェノスのカタキもとらせてもらうぞ!!」
長瀬川がユヒナに襲いかかろうとする中、僕は覚悟を決めて雄叫びをあげながら長瀬川を抑えつけ、拘束。取っ組み合いへと持ち込む。
「ユヒナは早く上の部屋に逃げろ!! 早く!!」
「境輔!! 私も戦うよ!!」
「いいから逃げろ!!! 敵の狙いはお前なんだぞ!!」
「クソ~~このガキが!!!」
長瀬川の脚が僕の腹部を貫く。ぐっ……食べたばかりの腹にこれは……
「境輔!!」
ユヒナの叫び声が聞こえる。くっ、さすがは見た目からも分かる通り強い。ヤクザだけあって喧嘩慣れしているんだろう。だが、負けない。僕は何とか踏ん張る。
「いいから逃げろユヒナ!!! 早く!!!」
しばらくユヒナはあわあわとした顔を浮かべながらも振り切って階段を走って逃げていく。そうだ、それでいい。たとえ相手がソルジャーをのしてしまうほど強いと言われてても所詮は普通の人間だ。倒す事はかなわなくても、多少抑え付ける事は出来るはず。あと、ユヒナも部屋の鍵は持っている。逃げる事は出来るはずだ。
「さっさとどけえ!!!」
長瀬川のストレートなパンチを即座の反射神経で何とか避けると、僕は奴の顔を狙った。青いアロハシャツの袖を掴んで、お返しに長瀬川の顔を二回殴るが、すぐに体をジタバタ動かしてそれを解く。
「なにしやがる!!」
襲い来る長瀬川を止めようと再び取っ組み合いになる。こうなったらちょっと危ないが、足止めには十分だ。取っ組み合いをする中で僕は奴を動けなくする秘策を思いついた。ここは階段の踊り場だ。とにかく少しでも……逃げる時間さえ稼げれば……
「うぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉ!!!!」
昔、柔道や剣道をやっていた自分を脳裏に蘇らせ、果敢に長瀬川に立ち向かう。廊下中に響く雄叫びを上げて、両手に力を入れて邪魔な目の前の敵を打ち破るが如く、長瀬川を後ろへ追い詰めた。そのまま長瀬川を階段の足場もつけない宙へと放り出す。
放り出された長瀬川は階段の下の床へと豪快に落下していくのを見ると僕はすかさず目の前の階段を駆け上がった。
「くっそおおおおおおおおお!!! 待てえええええ!!! 待ちやがれ!!!」
痛みにもがく怪獣のように下から長瀬川の咆哮とも言うべき声が聞こえてくる。何とか押し飛ばす事が出来た……ヒヤリとしながらも僕は急ぎ足で目の前の階段を上っていく。
先ほど取っ組み合いになった時、内心恐怖を感じた。一気にひと思いに木っ端微塵にされてしまうような……並々ならぬ覇気。血を沢山見てきて、その血をすすり磨き上げてきただろう威圧感を。表社会で生きていた僕にはとても異質な代物でしかない。ソルジャーじゃなくて、同じ人間なのに。
僕はそのまま階段を17階まで上がりきってドアが並ぶ静寂に包まれた廊下に出ると僕は急ぎ足でドアの番号を見て自分の部屋を探して見つけるとすぐに鍵となるキーカードを通して中へと入った。自動ロック式だ。長瀬川も追ってきてるだろうが、これで外に出ない限りは見つかる事もないだろう。
「あ、境輔!! 怪我はない?」
部屋に入った瞬間、僕をユヒナが心配そうに迎えてくれた。
「あぁ、何とかな。長瀬川は突き飛ばして何とか逃げてきたよ。まだ外にいると思うからここでじっとしていよう」
ユヒナはうんと頷いた。安心感がこみ上げてくる。同時に早くなっていた心臓の鼓動が少しずつだが、落ち着いてくる。
この部屋はよほどカラオケ並みの大きな声を出さない限りは外には声は響かないはずだ。じっとしていれば、外から見つかる事はまずない。
しばらく状況が落ち着くまでここでじっとしていよう――。
* * *
と、その直後だった。
部屋からこの島の街並みと青い海を拝む事が出来る窓ガラスが一斉に砕け散る。あまりの衝撃に僕らは声をあげた。
風穴をあけられた窓からは強い風が吹きすさび、割れた窓の向こうからその原因が下から飛行して現れた。風は冷たいものではなく、真夏の気候によって熱風へと変わっていた。
そいつは大きな黒い翼のようなマントを広げ、口を開けて牙をのぞかせて僕らを見た。
「クククク……見つけたぞ。こんな所にいたか!」
外が暗い夜空に覆われる中、現れたのは僕も見た事がある顔。そう、牙楽だ。その姿を見た瞬間、名前をそのまま叫んでしまう。
アレクさんはさっき街に長瀬川会の組員だけでなくソルジャーもいるって言っていた。きっと長瀬川が呼んだのだろう。
まるで映画で高層ビルの窓ガラスをマシンガンで破壊するヘリのように一瞬で窓ガラスを破壊して現れやがった……
まずい、このままじゃもう追い詰められたも同然じゃないか……目の前には牙楽がいて、廊下にはどこかに長瀬川がいる。
しかも、ここはホテルの17階。無論、飛び降りるなんて馬鹿なマネは出来ない。
くっ……もはやここまでか……?




