後編
◇◆◇
夏休みが終わった。
始業式の日、私はとんでもなく緊張していた。この学校で、メイクもせず、制服を模範的に着るのなんて初めてだ。身を守る装備をすべて奪われた気分だ。
私があまりにも緊張していたので、圭史さんが一緒に登校しようかと親切心で言ってくれた。けれど、初っぱなからそんなに目立ってしまうと私の友達づくり計画に支障をきたすので、丁重にお断りした。
学校に近づくにつれ同じ学校の生徒が増えてくる。なぜか見られている気がするのは、私の自意識過剰だろう。
そうしてたどり着いた自分の教室の前で、深く深呼吸をする。
いざ参らん!
心の中だけでは盛大に、実際はそうっと静かにドアを開け、自分の席までこそこそと忍び寄るように向かった。情けない。
私が席につくと、普段はけっこう騒がしい教室がなぜか静まり返った。え、なにこれ、天使が通ったのか? こんないっせいに黙り込むなんて何事……。
キョロキョロと周りを見渡すと、周りの視線が私に向けられていて心底びっくりした。とったさに悲鳴をあげそうになったけど我慢した私えらい。
混乱の極みにいると、ふと隣の席の女子と目があった。
「あの、もしかしてあなた、白石さん……?」
「え、うん。白石だけど……」
そこで私はハッとした。ようやく気づいた。みんな、メイクを取り払ってすっかり地味になった私が誰だかわからなかったんだ。みんなからしたら、知らない女子生徒がいきなり教室に入ってきて白石ひかりの席に座ったから驚いていたのか。そうか、あれは不審者を見る目だったのね。
「うっそー! 白石さん!? あなたほんとにあの白石ひかり!?」
「えー! マジで!? なんで黒髪!? カラコンもつけまもない! え、それすっぴん? すっぴんなのケンカ売ってるの?」
「……ヤバくね? あいつ、なんか普通に……ヤバくね?」
「やべー、マジやべー、チョーやべー」
クラスメートたちが騒ぎ出した。女子は私の顔をぺたぺた触ってくるし、男子はなんかヤバいヤバい言ってる。なんだこのカオス。私はどうしたらいいのだろう。こんなにたくさんのひとと普通に話すのはたぶん中一の頃以来だ。あの彼氏と付き合うようになってからは友達とも疎遠になっちゃったからな。それにしてもヤバいは悪口だよね? ひどいな男子。
「ちょっと白石さん! これすっぴんなのどうなの!」
「い、いや、ちがいます。ちゃんと日焼け止めとベビーパウダーつけてるよ」
「それはもうすっぴんだよ! マジかよ! すっごい派手な盛り盛りメイクしてたから、アフターは可愛くてもビフォーは絶対しょぼいと思ってたのにぃぃい!」
「……そんなこと思われてたんだ……」
「だいたい夏休み明けにギャル化してくる子は珍しくないだろうけど、なんで夏休み明けに真面目な清楚系になってんの!? ウケる!」
隣の席の子は机に突っ伏して、激しく机を叩いている。
すると別の子にも話しかけられた。
「あの、白石さん、もうあの格好はしないの?」
「し、しない! 絶対にやらないよ」
「そっか……残念だな」
「えええ!?」
「先輩ウケは悪かったけど、同級生のなかじゃあの白石さんに憧れてた子もけっこういるんだよ。ギャル系でも可愛かったし。私の友達なんて、白石さんの真似して夏休みに髪まで染めて親にめちゃくちゃ怒られてたくらい」
私のあの馬鹿みたいに派手な格好が、まさか同級生に悪影響を与えていたなんて。申し訳ない。その子のご両親に土下座して謝らないといけないんじゃないかこれ。
「つーか、あんた九条君にフられたからイメチェンしたんでしょ。みじめだねー」
小馬鹿にしたように話しかけてきたのは、たぶんこのクラスの中心グループのリーダー格の子だ。可愛くてスタイルがよくておしゃれさん。ちなみに九条というのは元彼の苗字だ。
「……えっと、実は、まったくその通りなんだよね」
彼女の指摘がズバリ図星だったので、私はえへえへと笑ってやり過ごそうとした。けれど、笑い転げていた隣の席の子がその話題に食いついてきた。
「え、何々、白石さんってば、失恋したら髪を切っちゃうような古風なタイプだったの? それでメタモルフォーゼまでしちゃったの? ウケる!」
「ちがうからね? ただ……あの格好は、元彼が派手な子のほうが好きとかなんとか言うから、ついやりすぎてあんなことになってただけで……。別れたからにはもうあの格好でいる理由がなくなったから、元に戻しただけだよ」
「は? 何よあんた、彼氏の好みに合わせて自分を変えるような重いタイプだったの? てか結局あっちは年上のなんちゃって清純タイプに乗り換えてんじゃん。派手好きとか嘘じゃん。騙されてんじゃん。馬鹿なのあんた」
リーダーの子に痛いところをぐりぐりとほじくられ、私は撃沈した。そう、彼女の言うとおり。結局元彼が選んだのは清楚な可愛いひと。そうか、あのひと先輩だったのか。ていうか……。
「え? なんちゃってってどういう意味?」
「あの先輩、女子の間じゃただの男好きだって有名だよ。まあ男はあの清純そうな、男なんて知りませんみたいな顔に騙されるんだけど。……あんたもまあ、まんまと盗られちゃって、哀れね。カワイソーに」
そう言って頭をぐりぐりと撫でられた。最初は私のこと嫌いっぽかったけど、なんだか優しくていいひとだ。そ、そうだ、この勢いでお願いしちゃおうかな。
「……私の名前は白石ひかりです」
「は? いきなり何、キモイ」
「あっは! 白石さんがなんか自己紹介始めたんだけど! チョーウケるんだけど!」
「白石さん? どうしたの?」
リーダーと、隣の席の子と、友達が道を踏み外しそうになっている子が、三者三様の反応で私を見ている。
「わ、私と、どうか、おと、お、お友達になってくれませんか!」
ガバッと頭を下げる。
周りがまた静かになった。ヤバいこれ外したかも。空気読めてなかったかも。ちょっと話してくれたからって友達になってなんて、調子に乗りすぎたかも! いつもすぐに調子に乗るのは私の悪いくせだ。どうしよう、泣きそうだ。
「――あんたって、ことごとくイメージと違うんだけど。……あたしは高野涼子。あんたのことは無愛想でお高く止まってる勘違い馬鹿女だと思って嫌いだったけど、今のあんたは嫌いじゃないよ、ひかり」
そんな嬉しい言葉が降ってきた。驚きすぎて顔も上げられない私に、今度は違う声が聞こえてきた。
「私は八田茜だよ。隣の席のよしみでよろしくね! 白石さん……いや、ひかりんがこんなに面白い子だとは思ってなかった!」
「私もいいのかな? 私は園井三久。ふふ、白石さんと友達になったなんて言ったら、あなたに憧れてる友達に羨ましがられちゃうわ」
次々にそんなことを言ってもらえて、私は俯いたままちょっとだけ泣いた。
その日は、感動に浸っているうちに始業式も終わり、午前中の授業も終わり、あっという間にもう帰る時間となった。
帰りは友達とカフェでお茶して帰るという涼子ちゃんに誘ってもらえたので、私のワクワクが止まらない。元彼以外のひとと学校の帰りに寄り道をするなんて初めてだ。高まるテンションのまま茜ちゃんと三久ちゃんも誘った。茜ちゃんは来れるらしいが、三久ちゃんは友達と一緒に帰る約束をしていたらしいので、また今度誘ってねと言われた。何百回だって誘いますとも。
そうして涼子ちゃんと涼子ちゃんの友達の大神さんと茜ちゃんと私の四人で帰ることになった。
ふわふわとした気持ちのまま四人でしゃべりながら教室を出た。
そこに、なぜか不機嫌そうな顔をした元彼がいた。
約一ヶ月ぶりくらいに見た元彼――九条雅樹君は、相変わらずイケメンだった。少し肌が焼けたかな? 新しい年上の彼女さんと夏休みを満喫したのだろう。しかし私だってハワイまで行っちゃったもんね。セレブな四日間を過ごしちゃったもんね。海には入れなかったけど。
私はあんなに好きだった雅樹君を見ても、今はもう何も感じなかった。
どうやらいつの間にか失恋を乗り越えていたらしい。新しい家族が出来たり環境が変わったりでバタバタしていたのが良かったのかもしれない。可愛い天使のような女の子の友達も出来たし。いつまでも失恋なんか引きずっていられない。フルカスタムひかりはもうやめたのだ。これからはノーマルひかりで生きていく。
だから雅樹君と目が合っても、私は何も言うこともなくその隣を素通りしようとした。
「――待てよ、ひかり!」
「え」
雅樹君に名前を呼ばれ、二の腕までがっつり掴まれてしまい、私は立ち止まった。なんだ、何用だ。
驚いている私に構わず、雅樹君が私を引き寄せた。
「……何シカトしてんだよ。それにおまえ、なんで元に戻ってんだよ」
涼子ちゃんたちや、周囲のひとたちまで足を止めて、私たちを好奇の目で見つめている。
そんな中、雅樹君は周りを気にすることなく、私を捕まえたまま何やら怒りだした。まったく意味がわからない。
「な、なに? 何か用事でもあった?」
「何じゃねーよ。夏休み中も電話に出ねーし、おまえからも連絡よこさねーし、しかも俺以外の奴らに勝手に素を晒してるし喋ってるし、何考えてんだよ」
「え……? まって、何言ってるかわかんない、わかんない。えっと……、私たちって別れたんだよね?」
確かに私は振られたはずだ。新しい彼女さんだってこの目で確かに見た。
電話に出なかったのは、ひどい振り方をした雅樹君の番号なんて消しちゃる! と半ば勢いで連絡先を消したからだ。そういえば夏休み中に何度も知らない番号から電話がかかってきてたけど、まさかあれ雅樹君からだったのか。
ていうか、勝手に素を晒してるってどういう意味だ。
「ちょっと雅樹!? なんで夏休みもぜんぜん連絡くれなかったのよ! しかもなんでまたこの子のとこに……っ」
私が大混乱していると、見覚えのある女のひとが人ごみから出てきた。あ、新しい彼女さんだ。相変わらず清楚っぽくて可愛いけど、性格はけっこう激しいひとみたいだ。
そのひとを見て、私は少し落ち着いてきた。
「ほら、彼女さんきたよ。私のことなんて構ってる場合じゃないよ」
「あんなのほっとけ。そんなことより、俺の質問に答えろよ。なんで俺の言いつけ破ってんのおまえ」
「雅樹君おかしいよ。私たちはもう別れてるんだよ。雅樹君が、このひとと付き合うって言って、私を振ったんだ。今さらどうしたの」
ぷんぷんと怒っている彼女さんを手で指して言う。彼女さんは私を射殺しそうな目でキッと鋭く睨みつけ、雅樹君のもとに行くと、その腕を私に見せつけるように絡めた。
そんな姿を見ても痛む胸はない。
どこまでも凪いだ心のまま、無心にその光景を眺めていると、雅樹君は嫌そうなな顔で彼女さんを引き剥がしてしまった。
「触んな。……ひかり、こいつのこと気にしてんなら、もう大丈夫だから。こんな奴、最初から好きじゃねぇし、俺にはおまえだけだ」
「は?」
私と彼女さんの声が重なった。
「俺、このビッチと付き合って気づいたんだよ。俺はやっぱりおまえがいい。ひかりが好きなんだ。三年も付き合ってたんだぞ、俺たち。おまえは俺のもんだろ?」
「言ってることが本当に何もかもわからないんだけど……、とりあえず、びっちって何?」
私がそう訊いたら、周囲で野次馬してたひとたちから吹き出すような声や小さな悲鳴みたいな声まで聞こえた。
雅樹君はぐっと言葉に詰まって、言いにくそうな憮然とした顔で言った。
「……、おまえと正反対の女ってこと」
「なるほど……」
確かに彼女さんは黒髪ですっぴん風ナチュラルメイクで、目立った校則違反もなくて、以前の私とは正反対だったな。でも私だって今は条件は同じだ。
「だったら、私もびっちってやつになったのかな……」
独り言のつもりだったけど、雅樹君にははっきり聞こえたらしく。呆れたように「馬鹿か」と言われた。
「三年付き合って胸も触らせてくれなかったおまえがビッチなわけあるか、――あ」
言ったあとに雅樹君はしまったという顔で口元を隠した。しかし遅い。遅すぎるぞ雅樹君。
周りで私たちのやりとりを聞いていたひとたちが、いっせいに驚いた雰囲気になったのがわかった。涼子ちゃんたちも、目を丸くして私を見ている。彼女さんだけは馬鹿にするような顔だ。
そして誰かが言った。
「白石……あんな見た目だったのに処女だったんだ」
思わず呟いたような小さな声だったけど、この場にはやけに響いて聞こえた。
私は顔が真っ赤になるのを自覚した。
最悪だ。こんな大勢のひとに、そんなことを知られたなんて。べつに、そういう行為をしたことがないのが恥だとは思わない。私はまだ高校一年生だ。未経験でもなんらおかしなことなどないはずだ。けど、それはいちいち吹聴するようなことでもない。したことがあってもなくても、そういう話題でひとの口にのぼること自体が恥ずかしい。
「……あー、と、悪い」
俯いて震える私に雅樹君が話しかけてきた。私は真っ赤になっているであろう顔を上げて睨みつけた。
「ばか、最低!」
「……っ、おい、ひかり待て!」
とりあえず文句だけ言うと、この場の空気に耐えきれなくなった私は、掴まれていた腕も振り払って駆け出した。この数分間のみんなの記憶が消えてなくなればいいのにとひたすらに願ながら。
一心不乱に脱兎のごとく走って前をよく見ていなかったせいで、ドンと思い切りひとにぶつかってしまった。
そのひとは揺らぎもしなかったのに、ぶつかった私の方が反動で転びそうになった。けれど、腕を掴んで腰を支えてくれた誰かのおかけで、転倒はまぬがれた。
「ご、ごめんなさい、すみません! ぶつかっちゃって、しかも助けてまでいただいて……! 怪我とかしてませんか!」
「――ん、大丈夫だよ。ひかりちゃんこそ、どこも痛めてない?」
「え……、うわあ、圭史さん!」
「うん、俺。大丈夫ひかりちゃん?」
私がぶつかったのは圭史さんだった。なんて偶然だろう。
「私は圭史さんが助けてくれたから大丈夫ですけど……。圭史さんのほうこそ、私、思いっきりぶつかっちゃったから痛かったですよね、ごめんなさい……」
「そんなことないよ。ひかりちゃんは羽根みたいに軽いし柔らかいから、俺のほうが吹っ飛ばしちゃいそうで焦ったくらいだし」
「いや、それは言い過ぎじゃないかな……」
とか口では言いつつ、私の乙女心が喜んでいる。圭史さんって実はたらしさんなのかも。
はっ! いやいやいや、こんなことをしている場合じゃなかった! 義兄にお世辞を言われてうかれてる暇なんかないだろう。 一刻も早くこの場から離れないといけないのに。
というか、私は何を当然のように圭史さんと話してるんだろうか!? 目立たないようにするために学校では白石姓のままでいることに決めたのに、こんなに人目のあるところで普通に話してたら意味がないじゃないか馬鹿か私は!
案の定、私と圭史さんを見る周囲の視線は、さっき雅樹君と話していたときよりも好奇心と嫉妬に満ちている。
圭史さんは、私でもその存在を知っていたくらいの有名人で、女の子からモテモテだという噂だ。そんなみんなの憧れの圭史さんにぶつかったうえに、親しげに話したりなんかして……、私ってばこれもう詰んだ? 過激派もいるという圭史さんのファンに体育館裏に呼び出されて「あんたみたいな小娘が会計様に近づいてんじゃないわよ」とか言われちゃうんだろうか……。
「どうしよう……」
私の高校生活はお先真っ暗だ。――いやまてよ、こうなったらもういっそ、義理の兄妹になったこをバラしてしまったほうが被害は少なくすむんじゃ……。
「そんなに不安そうな顔をしなくても大丈夫だよ、ひかりちゃん。俺に任せて?」
圭史さんが、にっこりと最上級の笑顔で言ってくれた。どうやら機嫌がすごくいいみたいで、頬の筋肉が緩みまくっているように見える。それでもだらしなく見えないところは、さすがあの美貌のお父さんの息子ということか。すごく頼りがいがある。圭史さんに任せてしまえば、この騒ぎもなんかうまいこと収めてくれるんじゃないか、と、ついつい期待してしまう。
「――ひかり、なんだよ、その男は」
私についてきていたらしい雅樹君が、背筋がぞっとするような低い声で言った。振り返って見た彼の顔は、表情がなく、恐ろしいほど冷たかった。
「ひかり、今すぐそいつから離れろ。こっちに来い」
怖い顔した雅樹君が手を伸ばしてくる。なんだかこの上なくキレてるっぽい雅樹君に捕まるのが嫌で、私は思わず体を引いた。その拍子にトンと圭史さんにぶつかってしまった。謝ろうとしたけど、そのまま圭史さんに肩を抱かれて背後に匿われてしまった。背中すらいい匂いがする圭史さんはイケメン力が高すぎると思う。
私が変態のようにクンクンと鼻をひくつかせている間にも、話は進む。
「この子に気安く触らないでくれる?」
「――は? あんたこそベタベタ触ってんじゃねぇよ。そいつは俺のだ」
「とっくに別れてるくせに何言っちゃってんの。ストーカーみたいだよキミ」
「うるせぇよ、あんたには関係ねぇだろ」
「んー、それが関係なくないんだよね。ちょっとゴメンね、ひかりちゃん」
突然謝られたかと思えば、前に移動させられ圭史さんと向き合う体勢になった。そして圭史さんの大きな手で耳をふさがれた。え、何事ですか。
「――――、――」
「――――」
圭史さんの口はパクパク動いているけど、何を言ってるかはまったく聞こえない。誰となんの話をしているんだろう。気になる。そうだ、唇を読んでみるか。読唇術というやつだ。
そう思ってじーっとその薄い唇を眺めていると、圭史さんが誰かに冷めた視線を送った。私が睨まれたわけでもないのにヒヤッとして、肩が跳ねた。
それに目ざとく気づいたらしい圭史さんは、私と目を合わせるとにっこり微笑んで、困ったようにゆっくり唇を動かして『ゴメンね?』と言った。おお、今のははわかったぞ。私には読唇術の素質があるかもしれない。
「――――」
それからまた圭史さんが誰かに何かを言ったあと、パッと手のひらが外された。ようやく私の耳に音が戻ってきた。
「だ、ダメ! そんなの許さないんだから! 雅樹はわたしのことが好きなの! わたしたちは愛し合ってるの! 雅樹は付き合ったその日にわたしを求めてくれたんだから! そっちの元カノは、三年も付き合ってたのに何もさせてあげなかったんでしょ。バカじゃない? 男心をちっともわかってないそんな子、雅樹に捨てられて当然よ」
「おい黙れ――!」
聞こえてきた第一声がそれで、私はしばらく理解が追いつかなかった。
今のは、新しい彼女さんの声だ。振り返ると、雅樹君がひどく焦ったような顔で彼女さんを止めようとしていた。
ということは、どういうことだ?
雅樹君は、私がいつまでもそういう行為を拒否していたから、違うひとに乗り換えたということか? そして、まんまと初体験を終えた、と。 そしてそして、青少年の欲望と願望を満たした彼はまた私に復縁を迫っている、と。
なんだそれ最低じゃないか!
つまり私は、雅樹君の中で性欲と天秤にかけられて、負けたということだ。
「……きもちわるい。ごめん、もう二度と私に近づかないでください。――さようなら」
私は今度は自分からこそこそと圭史さんの背中に隠れ、その背から顔だけ出して元彼に絶縁宣言をした。
さっきまでは、私をひどい形で捨てた雅樹君に対してなんの感情もなかった。もう終わったことだし、引きずるつもりもなく、何年か後にまた友達の距離に戻るのも悪くないなくらいには思っていた。
けれど無理だ。生理的に気持ち悪い。男子なんてそんなものだと言われてしまえばそれまでだけど、私には理解できない。
「ひか――」
「さてと、ひかりちゃん、俺と一緒に帰ろ?」
雅樹君が何かを言おうとしたが、圭史さんに遮られてしまった。それに便乗して、私も聞こえないふりをする。嫌な女だな私。でも気持ち悪いからもう話したくもない。
「あ、ごめんなさい。私、今日は友達と約束してるから」
「お友達できたんだ、良かったね。あー……、でも」
圭史さんは私の耳元に唇を寄せて、内緒話をするみたいにひそひそと小さな声で言った。
「今お友達と帰っちゃったら、説明とかいろいろ大変じゃない? だから今日は俺と一緒に帰って、今後のための作戦会議しよーよ」
そう言われて極めつけににっこりと微笑まれると、なるほどそれもそうだなと納得してしまう。
確かに、こんなカオスな状況を今日できたばかりの友達にどう説明すればいいのか私にはわからない。圭史さんとの関係も突っ込まれるだろうし、本当のことを言うにしろ、誤魔化すにしろ、先に圭史さんと打ち合わせしといて損はないよね?
「……そうですね、今日は帰ります」
私は近くにいた涼子ちゃんたちに深々と頭を下げて、お騒がせしたことと一緒に帰れないことを謝り倒した。
みんな優しいから、笑顔で私を送り出してくれた。「また明日ね」という彼女たちの表情は好奇心に輝いていたけど。きっと明日はいろいろ訊かれるんだろうな……。
「災難だったね」
二人で並んで帰る中、圭史さんが労るような声で言ってくれた。よくよく考えたらべつに圭史さんと一緒に帰る必要はなかったのだけど、流されるままに帰路を共にしている。
「……まあ、私も悪かったのかもしれないけど」
「そんなわけないじゃん。ひかりちゃんは何も悪くないよ。男がバカなだけ。でもねひかりちゃん。男なんてみんな彼と同じだよ。だから、今度からは簡単にお付き合いなんかしちゃダメだからね?」
「やっぱりそうなんだ……。私、しばらくはもう恋愛はいいです」
あんなに大好きだったひとでさえ、気持ち悪いと思う日がくるなんて。恋愛は私にはちょっと難し過ぎるらしい。
「そうそう。恋愛なんかしなくても楽しいことはいっぱいあるし。そんなことよりも、俺たちともっと家族の絆を深めよ? 俺たちはまだ家族になったばかりでお互い知らないことも多いから、たくさん話して、一緒にお出かけしたり、一緒にゴハン食べたりしてさ、そういう時間を大切にしていこうよ」
チャラチャラと軽いルックスの割に、圭史さんの言ってることは至極真っ当だ。遊んでそうなひとかと思いきや、家族を大切にするすごく思いやりのある優しいひとじゃないか。
恋愛なんかにうつつを抜かすよりも、圭史さんの言うとおり、子供のうちはまだまだ家族との時間を大切にするほうがよほど有意義に思えてきた。どうせ男なんて、みんな雅樹君みたいなのしかいないらしいし。
「ね? ひかりちゃん。そうしよ」
「はい」
私のことを気遣ってくれる兄心が嬉しくて、私は満面の笑顔を浮かべた。
三年間も大切にしていた恋は失ってしまったけど、私には新しい家族ができた。
素敵なお父さんと、優しいお兄さんと、可愛い妹。
新しい家族はみんな素晴らしくて、お母さんも私も幸せ者だ。