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この作品には 〔残酷描写〕が含まれています。
苦手な方はご注意ください。

吸血鬼の食事情

作者: タロ

扱ったテーマの関係で、読むと、気分を害することがあるかもしれません。

ですが、バッドエンドではありません(ハッピーエンドにできた、と断言することもできないのですが…)。


それを踏まえて、よかったら、読んでやってください。

 クンクン。

 微かに感じるのは、匂いというよりも気配だった。

 近くに食料のある気配がする。

 黒いマントに身を包んだ男は、ニタリと笑った。

 月が雲に隠れる闇夜にあって、男の姿は、闇に溶け込んでいるようだ。

 しかし、雲の切れ間から月明かりが差し込んだ時、男の白い歯が光った。

 鋭く尖った、白い牙が。


     ○


 はぁっ…はぁっ…。

 まるで何かから逃げるかのように、呼吸が荒く、乱れていた。

 学校から家に帰ってきてから、女はずっと一人で自室に居る。

 一人なのに、何者かに襲われているような感覚があり、女は震えていた。

 もう嫌だ、逃げ出したい…。

 そう思った時に目に入ったのは、机の上のペン立てに入っているカッターナイフだった。

 慌てたような仕草で、女はそれを手にした。

 カチカチカチッと薄く錆がついて汚れた銀色の刃を出していく。

 数回荒く呼吸をすると、一度息を大きく噴き出した。

 そして、カッターナイフの刃を左手首に当てた。


 赤い血が出た。

 浅く切れた手首から、血が流れている。

 不思議と、痛みはなかった。

 痛みはない。

 手首を切る前に感じていた言い知れぬ不安感も、今は無い。

 どうせまた手首の傷跡を見れば後悔の念が湧くだろう、またしてしまったと反省するのだろうことは、頭の片隅ではわかっている…はずだ。

 しかし、今この瞬間はどうでもいい。

 タラタラと流れる血を見る。

 不思議なことに安心感すらあった。


 意識がぼんやりとする。

 だが、それも僅かな時間だった。

 カーテンが揺らめいたことに気付いた女は、窓の方を見て、直後、恐怖を感じた。

 見知らぬ黒マントの男が、窓を開けて入ってきたからだ。

 女の部屋は二階にあるが、けして入れない高さではないのだろう。男は、悠々とした様で女に近づいてきた。

 強盗か暴漢か、何にせよ良い予感はしない。

 恐怖で声も出ない。

 身体を強張らせ、抵抗することも諦めた女は、ギュッと目を瞑った。


 チュッ…チャッ…。

 左手に生温かく柔らかいモノが当たるのを感じ、困惑した女は、恐る恐る目を開けた。

 そこで見たのは、自分の血を舐める男の姿だった。

 長身痩躯で色白な二十歳くらいの若い男が、自分の手首から流れる血を吸っていた。

「ひぃっ!」

 目の前の光景に女は驚き、手を引っ込めた。

 とっさに右手で傷口を隠した。

 だが、男は逃がしてくれなかった。

 男に左手首を掴まれた。ひんやりとした男の手の冷たさが、掴まれた左手に伝わる。

 いくつか傷跡もあって血が流れている左手首を、女は隠したかった。

 しかし、それは出来ない。

 左手を男の口元にグイッと引き寄せられたこともあるが、それだけが理由ではない

 例えば噴水の噴出口には眼もくれずに湧きあがる水だけを見る様に、男の意識が流れ出る血だけに向いているのを、傷口なんて気にしていないのを、女は感じていたからだ。

 まったく気にされていないのであれば、隠す理由も無くなる。

 恐怖で身体は震えていたが、女は、黙って現状を受け入れた。

 謎の男が、自分の血を吸っている。いや、吸っているというよりも、流れ出ている血を舐めていると言った方がいいのかもしれない。

 実際に、左手首周辺を赤くしていた血がなくなると、それ以上は吸おうとせず、男は、女の手首を掴んでいた力を弱めた。

「ふぅ…」

 満足したように、男が一息ついた。

 解放された左手首を胸の前でぎゅっとにぎり、女は、男のことを凝視した。

 男は、口元についた血を親指で拭いとり、それを舐めると言った。

「とりあえず、手当てをしよう」


 男の手当ては、速くて正確だった。

 状況について行けていない女が気付いたら左手首に包帯が巻かれていたくらいだ。

 肩をすぼめて左手首を胸の前でにぎりながら、

「あ、あの…あなた何者?」

 と、女は訊いた。

 その眼は、不審者の奇行に怯えていた。

 大きめの弁当箱くらいのサイズの自前の救急箱を片付けていた男は、顔を上げた。

「『誰?』ではなく『何者?』と問う。それは、私が普通の人間ではないと判っているからなのだろう。ならば、名を名乗る必要はないな」

 口角をニィッと上げ、男は微笑した。

「私は、吸血鬼」

「えっ…?」

「よろしく、人間のお嬢さん」


「あ、あの…」

「もう少し待ってくれ」消毒液や脱脂綿、包帯にハサミなどを一度に出してしまった為、吸血鬼は、元のように救急箱にしまえずに苦戦していた。それでも、声は落ち着いて、慌てた様子は見られない。「すぐに出ていく。だから、大声を出したりしないでくれ。やかましいのは好きではないし、あまり人目につきたくないのだ」

「大丈夫です。今 家に誰もいないから」

「そうなのか?」

 吸血鬼は、意外そうに言った。

 ベッドの枕元に置かれた時計を見れば、夜の十時前になっている。

「そうじゃなくて…」女は、恐る恐るといった様子で「なんで手当てしてくれるの?」と訊ねた。

「血が流れるから」

 吸血鬼は平然と答えた。

 だが、それは女の疑問を解決してくれるものではなかった。なんでサッカーをしているのかと問い掛けたら、サッカーボールがあったから、と答えが返ってくるような気分だ。間違いではないのだろうが、そういう事を訊いているのではないと、もどかしくなる。

「あなた、吸血鬼なんですよね?」

「ああ」

「そ、その…血、吸って…こ、殺さないの?」

 恐怖から震える声で、女は訊いた。

「私をその辺の品性の欠片もない吸血鬼と一緒にするな」

 片付けの手を止め、迷惑そうに吸血鬼は言う。

 しかし、その辺の、と言われても、女は困ってしまう。

「あればあるだけ際限なく いただく。それでは品が無い」

「はぁ…」

「死なせてしまえば、その人間からは血が出ない。欲望のままに食べて食料を減らすようなマネは、極力避けたい。それが私好みの血を持つ者であれば、なおさらだ」

 そう言うと、吸血鬼は女を見て、意味深に微笑した。

 私があなた好みの血を持っているというの、と女は若干驚いた。しかし、そこを訊いて明確にすることは躊躇われたので、代わりに「血に、好みなんてあるの?」と訊いた。

「例えば、魚が好き、肉が好きと言っても、マグロは好きだけどイワシは嫌い、鶏肉よりも牛肉の方が好き、人間のそういう感覚に近い」

「はぁ…」

 よくわからず、女は生返事した。

「わからなくてもいい」

 吸血鬼は、再び片付けに取りかかった。

 しかし、何故か消毒液の瓶の収まりが悪くなり、しっくりこない。

 うーん、と唸っていると、気になった女が「あの」と声をかけた。

「私、やりましょうか?」

「あまり中が変わるのは好ましくないのだが…」

 吸血鬼が渋ると、女は「気をつけます」と言った。

「では、頼むとしよう」


 包帯をきちんと巻き、ガーゼが摩擦でめくれ上がるのに気をつける。ハサミ、消毒液の瓶ではなく、消毒液の瓶、ハサミの順に入れる。

 丁寧にやれば、何のことはなく片付けられた。

「あの…終わりましたよ」

「ん、ああ」部屋の中を見渡していた吸血鬼は、声をかけられて女の方に向き直った。「ありがとう」早いな、とその手際の良さに感心するが、正座している女の顔を見ていると、あることが気にかかり、つい「似ているな」と呟いた。

「似ている?」

「ああ。絵も無く固そうな本ばかりの本棚、教科書や参考書が整然と並ぶ机、遊びを感じない綺麗に片付いた部屋」

「すいませんね」

 つまらない女だ、と言われた気がして、女はついムッとなった。

「悪気はない」吸血鬼は、弁解した。「色々と似ているなと思っただけだ」

「似ているって、誰に、ですか?」

「以前、何度か血を吸わせてもらった人だ。綺麗な長い黒髪の女性」

「へぇ…」

 それが自分と似ているのか、と女は疑問に思った。

 自分の髪は短いし、綺麗だとも思えない。

 しかし、「年の頃も近いし、彼女もこんな感じの部屋に住んでいた」と思い出していた吸血鬼の次の言葉で、女は息を呑んだ。

「彼女とも、彼女が手首を切った時に出会った」

 女は、ほとんど意識せず、隠すように左手首を抑え、胸の前に持っていった。忘れていたワケではない、それまで大人しくなっていた恐怖や不安がまた暴れ出したかのように、胸が苦しくなる。包帯の巻かれている手首を、ギュッと握った。

 女の様子の変化には気付いていたが、吸血鬼は、特に気にすることなく話し始めた。

「初めて血をいただきに彼女の部屋へ行った時、最初は彼女も怯えていた。私も、好みの血の気配を追って来たら、それが零れているものだから、少し焦った。しかし、彼女も震えるだけで大人しいし、私も、静かな食事ができる、と満足した。そして、食事も終わり、無駄な血が流れるのを防ぐためにと、手当ても済ませた後だ。帰ろうとした時、私は、彼女の発言に耳を疑った。なんて言ったと思う?」

 唐突に質問を投げかけられ、女は頭を働かせてみた。

 だが、特に何も思い浮かばず、無言で首を横に振った。

 吸血鬼は、その時の事を懐かしむように、また少し楽しそうに、言った。

「『また、来ます?』と、彼女は言ったのだ」


     ○


「また、来ます?」

 そう問い掛けられ、吸血鬼は、窓の方に向かっていた歩みを止めた。

 振り返り、女の顔を見る。その顔は、愛しい人の再訪問に期待しているようなものとも、自分にまた危害が加えられることを怯えるようなものとも、違って見えた。怯えているが、来訪を拒んでいるワケでもない、吸血鬼の眼にはそう映った。

「いいのか?」

 吸血鬼は訊いた。が、内心、悩んでいた。

 一人の人間から何度も血を貰うのは依存している様な気がして、それでは自分が堕落してしまうのではないかという不安な思いもあり、今まではなるべく避ける様にしていた。それに、同じ相手から何度も血を貰うのは、なんとなく難しい気がしていた。だからだろうか、今の、相手から血の提供の意を示されるという予想外の展開に、吸血鬼の心は揺れていた。

 しかし、吸血鬼が葛藤している事など、女は気付く由も無い。

「ええ」申し訳ないなと思っている吸血鬼よりも申し訳なさそうに、女は言った。「どうせまた切っちゃうだろうし、こうやって貴方が飲んでくれるなら、誰かの為になっている気がして、罪悪感も少し減るから」

「そう言うのなら…」

 吸血鬼は、またこの女の所に来ることにした。

 だが、どこか気まずさを感じ、その日は「また来る」とだけ告げて、すぐ帰った。


 数日後、吸血鬼は、また女の所を訪れた。

「また、窓からなんですね」

 この日は怯えることなく、本人も意外なほどに平静として、女は、吸血鬼を迎え入れた。ベッドの上に座って読んでいたハードカバーの小説本をバタンと閉じ、立ち上がる。

「貴女は良くても、玄関からでは御両親の許可も必要になるからな」

「大丈夫ですよ。どっちも今いませんから」

「兄弟は?」

「一人っ子です」

「そうなのか?」

 吸血鬼は、壁に掛けられている時計を見た。針は、どちらもあと少しで頂上へと達する所まで来ていた。

 女の家もある住宅街から山の方へと車を走らせて三十分ほどの場所に、どこかの金持ちが昔、別荘にと建てた、古びた洋館がある。今では誰も住む者がおらず、時として人々の間で『幽霊屋敷』と噂される、その建物の二階の一室に、吸血鬼の寝室がある。この日、眠りから覚めた時に小腹が空いた気がした吸血鬼は、棺桶ベッドから起き上がり、女の事を思い出していた。普段よりも遅い起床であり、食事をとるかどうしようか悩んだのだが、好みの血を持つ人間を探す手間が無い事を考えれば、食べる気は湧く。しかし、前に訪ねた時よりも二時間近く遅い訪問である、ということが引っかかる。

 もし大丈夫だったら、というダメ元の気持ちで、吸血鬼は女の所に来た。だから、顔には出さないが内心 少し驚いていた。この時間に来ても良かったのか、と。ずいぶんと私に都合が良いが、もしかして罠ではないのか、と。

「どうかしましたか?」

「いや、なんでもない」

 変に勘繰るのはよそう、と吸血鬼は決めた。

 女の善意であれば、疑うのは失礼に思えた。それに、どうせ血が流れるようなことを言っていた。前のように目の前で血が流れているワケではないのだし、もったいない、と慌てることも無い。

「…ん?」

「どうしました?」

 女は、また訊いた。

 だが、今度は、なんでもない、と流すことは出来なかった。

 何かが、吸血鬼の中で引っかかる。何かが、おかしい気がする。

 アゴに手をやり、吸血鬼は考えた。

 いつも食事をする時、そぉっとであったり、いきなりであったりという違いはあるが、腕や首元などに噛みついて、そこから血を吸う。だが、前回、女の血をいただいた時は、女が自ら切った左の手首から流れ出る血を飲んだ。

 では、今日は?

 女の左手首には、この前のままということはないのだろうが、白い包帯が巻いてある。右手首に包帯はないが、血も流れていない。他に、体のどこからも、出血しているようには見えない。

「私は、どうすればいい?」

 噛みつけばいいのかと疑問に思い、吸血鬼は訊いた。

 その問い掛けの意味に気付いたのだろう、女はビクッと身体を強張らせ、「す、すいません」と謝った。

 まるで催促したようだな、と吸血鬼は申し訳なく感じながら、女のことを見ていた。

 女は、唇に軽く触れ、何かを考えだした。その様は、まるで怯えているようにも見えた。そのまま十秒くらいだろうか、女がジッとしてしまい、いや、正確に言うと少し震えていたのだが、とにかくどうしたらいいか分からず吸血鬼が待っていると、女が動いた。

 震える手が、包帯をほどいていく。

 そこから露わになったのは、数本の切り傷の跡だった。一本は、先日のだろう、まだ赤黒いかさぶたとなって、ある。

 ギュッと目をつぶり、女は、その手を吸血鬼に差し出した。左手には拳を作り、右手は、左手首を強く握っている。

 血を絞り出そうとしているのだ、と吸血鬼は察した。

 女のその必死な様を見ていると、本当に申し訳ないな、と思う一方で、やはりこれはおかしい、と吸血鬼は感じた。

 だから、そっと添える様に女の手をとると、歯は立てず、傷口に優しく触れる様に唇をつけた。

「えっ?」

 女が不思議そうにこちらを見ていたので、吸血鬼は口元に笑みを浮かべて、応えた。

「今日は、あまり腹が空いていない」


 その日は、二言三言の他愛ない会話を交わし、別れることにした。

 しかし、吸血鬼は帰る気でいても、女は「えっ、帰るのですか?」と不思議そうであった。血を吸いに来たと思った吸血鬼が、ただ雑談して帰ろうとしているのだ。これで終わりなのか、と拍子抜けしてしまう。

 その気持ちは、吸血鬼にもわかった。

「今日は…」吸血鬼は、とっさに考えた。「貴女の食の好みを確認しに来ただけだ」

「私の?」

「ああ。やはり、ただ何度も血を貰うというのは、私としても心苦しい。だから、私からも何かあげられないかと思ったのだ」

「そんな、気を遣わないでください…」

「私の気が済まない、と言っている」遠慮する女に、吸血鬼は、「貴女、トマトジュースは飲めるか?」と訊いた。

「はい…」

「では、貴女の血を貰う代わりに、私は、貴女にトマトジュースを持ってこよう」

 吸血鬼は、半ば強引に決めた。

 決められたことに異論はなかったが、女は、質問したい事があった。

「その…トマトジュースなのは、鉄分が豊富だからですか?」

「ああ、そう聞いたことがある。血の代わりには、ちょうど良いだろう」

「貴方は、トマトジュースは飲まないの?」

「…昔、血を飲むのを控えるようにと私に注意し、代わりにトマトジュースを飲むように勧めてきた人がいた」当時の事を思い出すと、吸血鬼の顔が苦いモノとなった。「貴女は、好きな食べ物を制限されて我慢できるか? 百歩譲って我慢できたとして、食事を全て点滴にされたら、どうする?」

「つまり、ダメってことですか」女は、苦笑した。

「そんなことはない。たまには、悪くないと思うかもしれない」


 それから、吸血鬼が女の血を飲み、女がトマトジュースを飲むような日が、何日かあった。そんな日を重ねていく中で、吸血鬼の中に、疑問に似た不可解な感情が生まれた。

 女の事が気になったのだ。

 私に血をくれる、あの女は何なのだ、と。


     ○


「『また、来ます?』と、彼女は言ったのだ」

 吸血鬼は言った。

 そして、当時の事を思い出しながら、その人との思い出を簡単に話して聞かせた。

「どこがどうと具体的には言えぬが、気になったのだ、彼女のことが」

「それって…」

 恋をしているのでは、と女は言おうとした。

 だが、

「だから、彼女のことを観察した。彼女が朝起きて、学校へ行って、帰って、寝るまで、ほとんど一日中、彼女のことを見ていたこともある」

 と吸血鬼が言うので、

「それって、ストーカーじゃないですか?」

 と言ってやった。

「あの頃は私も無理をして、睡眠不足になったものだ」

 やれやれと首を振って苦労をアピールしてくるその姿に、あ、無視した、と女は悟った。

 せめてもと非難する眼で見ていたのだが、吸血鬼は、どこか遠くを見ていた。


 何なのだ、この男は? と、今更なことを思い、呆れの感情が女の中に湧いてきた。が、「彼女は…」と語り出した吸血鬼の声が、抑揚はないが、それが静かに流れる川のように穏やかなものだったからだろうか、川面を眺める時のように女の心も平静となった。

「彼女は、なんというか…凄いと、私は思った」

「すごい?」

「勉強でも何でも、人より頑張っていた。考えの異なる周囲の人間にも、溶け込もうと努力していて…まぁ、それが報われているとは言い難かったが…。とにかく、見ていると色々と、よくやるな、凄いな、と感心させられた事を覚えている」

 吸血鬼の言わんとしている事を、なんとなくだが、女は察した。だから、自分でも可愛くないな、と思いながらも、小さな声で「そんなの、普通じゃないですか」と悪態ついた。

 それでも、平然とした面持ちで吸血鬼は「そうらしいな」と返した。

「彼女に、よくやるな、と感心して話した時、彼女も、同じように言っていた。彼女は自分を卑下していたが、そんなことはない。少なくとも、私はそう思っている」

「それは、その人が…」その人だから、と震える声は、続かなかった。

「いつだったか、彼女は教えてくれた。『色々と自分の中に溜め込んじゃって、うわぁってパンクしそうになった時、手首を切ってしまった』と」

 そう言うと、吸血鬼は、床に座っている女の前まで歩み寄った。片膝をつき、目線を女の目の高さに合わせる。

 右腕を伸ばし、包帯の巻かれている女の手をとった。その上に、左手を重ねる。

 女の態度から、どうやら自分の言おうとしている事はばれているらしいことは察していたが、それでも、吸血鬼は自分の想いを伝えることにした。

「大変なのだな」

 吸血鬼が自分の事を気遣っている。それは、女もわかっていた。

 だが、みんなが大変なのだ、それなのに自分だけ甘えるなんてことは許されない、そういう思いが女の中にあり、それが怒りとなって現れた。

「あなたが、私の何を知っているの!」

 吸血鬼の手を振り払い、思わず立ち上がって、吸血鬼の事を見下ろす。

 肩を上下させ、荒い呼吸を繰り返していた。

「すまない」相変わらずの落ち着いた声でそう言いながら、吸血鬼は立ち上がった。動じる様子も無く、女の眼を真っ直ぐに見る。「確かに、私は、貴女の事をほとんど何も知らない。だが、貴女の血の味と、貴女のように自分を傷つけてしまう程に自分を追い込み、悩み、苦しみ、頑張る、貴女に似た人の事は、よく知っているつもりだ。少なくとも、その他大勢の人間の事よりも」

 もう一度、吸血鬼は、女の包帯が巻かれた手をとった。

「あなたも、頑張っているのだな」

「そんなこと、ない…」

「あなたも、凄いと思うよ」

「そんなこと…」

 声を詰まらせながら、女は言った。

 そして、ずっと溜まっていたモノが弾け出すように、女の眼から涙が零れた。先程までと違い、怒りからではなく、肩を震わせている。

 ずっと、頑張ってきた。でも、努力が結果として出ない。もっと頑張らなければならない。勉強も、苦手な人付き合いも、頑張って、自分から変わって、ちゃんとやらなくちゃいけない。でも、上手く出来ない。だけど、そんな泣き言は、誰も聞いてくれない。泣いたからって、何も変わらない。

 自分に価値が無い様な気がして、嫌になって、逃げ出したくて、辛かった。

「頑張っているのだな」

 そんな時に掛けられた、その吸血鬼の言葉に、女は救われた気がした。

 吸血鬼は、女の震える肩を抱き、自分の方に引き寄せた。女の顔が、自分の薄い胸板にあたる。女の涙で胸元が濡れていくのを、感じた。

 その気になれば、ここで首元に噛みついて血を吸うことも出来る。

 しかし、食料である血を無駄に流さない為にした偽善だと解っていても、それでもいいか、とこの時は思った。

 トマトジュースも持ってきてないし…。


 女は、泣きやんだ。

 何度も涙を手で拭き取る。鼻をすする。吸血鬼からティッシュを渡され、鼻もかんだ。

 少しずつ落ち着いてくると、女は「すいません」と恥ずかしそうに頭を下げた。

「いや、構わない」

 吸血鬼は、目を充血させ、頬を赤く染める女の眼から逃げるように、顔を背けた。

 居心地が悪いな、そう感じ、吸血鬼は帰ろうと窓の方を向いた。

「また来るかもしれぬ」

 帰り際、呟くように吸血鬼が言った。

 はい、とは返事出来なかった。いくら自分と似ている誰かが吸血鬼の再来訪を期待するような事を言っていたとしても、自分は言っていない。どちらかというと女は、また来るの、と言いたかったが、それもやめて、「私が、手首切った時に?」と訊いた。

 こういう言い方、本当に可愛くないな、と女は自分でも思った。

 もしかしたら引かれるかも、そう不安に思いながら、吸血鬼の背中を見つめた。

「いや…」振り返らずに、吸血鬼は答えた。「貴女の血を吸いたくなったら来る。が、切るなら呼べ。貴女の血は、無駄に流れていいものじゃない」

 吸血鬼のその言葉が、女は不思議と嬉しかった。

 自分なんて、と自棄になって手首まで切った私の事を、受け入れてくれた。

 頑張っていると、言ってもらえた。

 それが嬉しくて、女は微笑んだ。

「では、失礼」

 吸血鬼が、窓のさんに足をかけた。

 帰ってしまう、そう思い慌てて「あの…」と女は声をかけた。

「あの、その女性のところ、血は、今も吸いに?」

 女は、自分と似た境遇にあるらしい人の事が、気になった。

 その人の事を自分に重ね合わせ、現況がどうあるか心配になったのだ。

 だから、「いや」と吸血鬼が答えた時、「そう、ですか」と残念そうに顔を伏せた。

「先程も言ったが、血にも好みがある」

 背を向けたまま、吸血鬼は言った。

 そういえば、言っていた。私の血は、どうやらこの吸血鬼の好みらしい、と女は思い出した。

 それがどうしたのだ、と思っていると吸血鬼は続けた。

「私は、若い女性の血が好きなのだ。年老いた彼女の血は、申し訳ないが遠慮したい。今は、たまに話をしに行く程度だ」

 そう言うと、吸血鬼は、窓の外に飛び出し、闇夜に消えた。

 学校に通っていた若い女性が、年老いたと言われるまでには、どれくらいの時間があるのだろう。そして、さっきまでここにいた二十歳くらいの外見をした吸血鬼は、いったい何歳なのだろう。本当に、また来てくれるの。

 訊きたい事が最後に一気に増えた。

 だが、「そう、なんですか」とだけ呟き、女は、窓に近寄った。

 雲の切れ間から顔を出した、まるく輝く月を眺め、目を細めて微笑んだ。

 そして、窓を閉めた。

 いつでもまた吸血鬼が来られるよう、鍵はかけずに。


・この話を書くに至った経緯

 「切った手首から流れる血を、吸血鬼が飲む」というイメージだけが先行としてあり、それを書きたくて、この話を書きました。私に絵をかく才能があればよかったのですが、生憎と絵が苦手なので、文字になりました。

 当初の私の予想以上に長い話となってしまいましたが、一番書きたかった部分は、「血を飲む」所です。


・自傷行為について

 いろいろな理由や原因などがある事だと思いますが、この話における、私の考えを少し。

 自傷行為に出てしまうのは、色んなことを自分の心の中にため込んでしまい、それが風船のように膨らんだ時、うまくガス抜きすることもできず、そのまま爆発してしまうことを防ぐため、だと考えています。生きていることの実感を得る、ストレスが発散される対象が外へではなく自分自身に向いている、などの理由もあるようです。

 それについて、甘えているとか、弱いとか思う人もいるかもしれませんが、できれば少しでもいいので解かってほしいです。辛いから、切ってしまうこともあるのです。


・吸血鬼

 自傷行為をして血を流す、そういう人を受け止めてくれる存在として、吸血鬼を主役にしました。話の中の様に、血を受け止めるという行為を人間がやったら不気味に思われるかもしれないけど、吸血鬼だったら、少しは抵抗が少ないかな、と。

 身近な人間が側で支えてくれる存在となってくれれば、それに越したことはありません。ですが、そうはいかないこともあるので、吸血鬼に登場してもらいました。

 この話では、よくある吸血鬼伝説のような設定は設けていません。血を受け止めてくれる存在として、吸血鬼です。


自傷行為について色々と書きましたが、あくまでも私の考えの一つであり、それも、うまく書けているとは思いません。この話は、自傷行為を推奨するものではありません。最初に書いたように、「流した血を飲む吸血鬼」というイメージだけが伝われば、それでいいかな…。




ここまで付き合っていただき、ありがとうございます。

最後に、話の中に収めきれなかったエピソードとして少し…。


     ○


「そういえば、この間、貴女の話をした」

 吸血鬼が言った。

「あら」

 女は、吸血鬼の突然の切り出しにも、楽しそうに微笑を浮かべていた。

 沈む夕日も先程 山向こうに隠れ、暗くなってきた。女の家のテラスで、二人は紅茶を飲みながら、会話している。六十近くになってもなお綺麗な女の長い黒髪が、風に揺れた。

「昔の貴女を彷彿させる女性に会って、つい…」

 吸血鬼が言うと、女の顔から笑顔が消えた。

「その子も、手首を…?」

 悲しそうに眼を伏せ、女は訊いた。

「ああ」平然と頷いた吸血鬼だが、「すまない」と謝った。「勝手に貴女の事を話してしまった」

「いいですよ、そんなことは」女は、笑顔を作ってみせると、「そんなことより、その子は?」と訊ねた。

「さあ?」

「知らないんですか?」

「一度しか会っていない。先に貴女に謝っておかなければ、と思ったのでな」

「私の事なんて、気にしなくていいのに」

 女は、テーブルの上のティーカップに視線を落とした。

 吸血鬼が、紅茶を一口飲む。

 その姿を盗み見て、女は、吸血鬼が嫌がることを承知で、「優しいですね」と微笑みかけた。

「ん?」吸血鬼の顔が、露骨に嫌そうなものになった。

「心配だから、またその子に会いに行くのでしょ?」

「優しくなどない。貴女だって、いくら他人のモノでも、好物が乗った皿が手もつけられずに投げ捨てられたら、嫌な気持ちになるだろう」

「そうですね。何があっても守るかもしれません、あなたのように」

 女の物言いに、吸血鬼の眉がピクッと引きついた。

 その反応すらも面白そうに、女は続けた。

「貴方は、優しいですよ」

「そんなことはない」

「三回目から、私の血を吸う時は、首筋でしたね。これが普通だから、とあの時、貴方は言っていましたが、私の手首の傷を気遣ってくださったのですよね」

 女が、微笑みかけた。

「…ふっ」吸血鬼は、口元に笑みを浮かべた。「それは違う。私は独占欲が強いから、あなたに私の印を付けたかっただけだ。あなたの綺麗な黒髪に隠してな」


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