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作者: 横浜 衛門
掲載日:2026/04/07

学校でうんこをするやつは終わりである、という法律にも校則にも載っていない掟が、この国にはあった。


少なくとも、松田侑生はそう信じていた。


誰が最初に言い出したのかは知らない。たぶん誰も言っていない。なのに小学校のころから、教室の空気には確かにそれがあった。

学校のトイレはおしっこのための場所であり、うんこに使った瞬間、そいつは「学校でうんこしたやつ」になる。たった一回でだ。一回で永久会員である。卒業アルバムの肩書きに載ってもおかしくない。

もちろん実際には、そんなに誰も他人の排便に興味はないのかもしれない。だが中学生男子の世界において、「かもしれない」は役に立たない。国家機密と同じで、漏れたら終わりなのである。内容が内容だけに。


だから松田侑生は、今日も我慢した。


六時間目の終わりあたりから、腹の奥で何かが会議を始めていた。しかも議題が嫌だった。

帰りのホームルーム中にはもう、議長が机を叩いていた。

だが学校でうんこは無理だ。無理なものは無理である。トイレの個室に入った瞬間、外から誰かの足音がしただけで「松田、いま戦ってるな」と全国放送される気がする。被害妄想? そうだよ。でも被害妄想を笑っていられるのは腹が無事なときだけだ。


チャイムが鳴った。

松田は静かに、しかし内心では難民輸送機みたいな必死さで校門を出た。


最初の波は、下校直後に来た。


痛い、というほどではない。圧。圧力。腹の下のほうで、見えない親指がぐっと押してくる感じ。

松田はまだ余裕のある顔を作れた。家までは歩いて十四分。いや、急げば十一分。今日は勝てる。これはただの前哨戦だ。チュートリアルだ。

「まあ、あるよなこういうの」

誰に向けたでもなく心でつぶやく。人は腹痛の初手に対してだいたい強気だ。台風の予報円がまだ海の上にあるときみたいなものである。こっち来るなよ、で済むと思っている。


交差点に着くころ、第一波はすっと引いた。


あれ、いけるかも。


腹痛にはこの「いけるかも」がある。最悪である。

一瞬、メーターがほぼゼロになる。さっきまで腹の中で暴れていたものが急に沈黙し、世界が普通の下校風景に戻る。信号はただの信号で、夕方の空はちゃんと夕方の空だ。

松田はそれで油断した。人類は何度この偽りの平穏に騙されてきたのか。あれは停戦ではない。次の空爆までのインターバルだ。


二度目の波は、コンビニの前で来た。


唐突だった。

さっきまで通常営業だった腹が、何の前触れもなく「では、始めます」と本番を始めた。

松田はその場で一歩だけ変な止まり方をした。膝が笑う、の逆で、笑ってる場合じゃない膝だった。

「……っ、うそだろ」

腹の奥で何かがドアを蹴っている。しかも両足で。

コンビニが救急病院みたいに見えた。入るか? 借りるか?

いや無理だ。店員に顔を見られる。出てきたあとに飲み物とか買う空気になる。何を? こんな決死の顔で入っておいてファンタでも買うのか。無理だろ。

公園のトイレも脳裏をよぎる。だが薄暗い。怖い。あと汚いかもしれない。路地裏? 論外だ。理性が最後の警官として立っている。

世界中のあらゆる場所が「ここで出すか?」の候補地に見え、そのすべてに「いや終わるだろ」と却下が入る。忙しい。脳内の会議が多すぎる。


そんなときに限って、同じクラスの久保が向こうから来た。


「お、松田。今日さ――」


殺意が湧いた。もちろん比喩だ。比喩だが、腹痛時の会話開始はテロに近い。

「ごめん今ちょっと急いでる」

「え、なに、走るの?」

走れるわけないだろ。走ったらそれはもう終了の号砲だよ。

松田は笑顔とも苦痛ともつかない顔で久保をかわし、信号待ちの列に加わった。赤。長い。ふざけるな。普段は気にも留めない三十秒が、死刑執行までのカウントダウンみたいに重い。

脳内の時間感覚が壊れる。あと七分? 長すぎる。いや三分? 三分でも文明は滅びる。もう一分でも無理かもしれない。


だが信号を渡り、住宅街に入ったところで、また引いた。


ゼロではない。だがかなりゼロ寄り。

腹の中の暴君が急に「今日はこのへんで」と帰り支度を始めた感じ。

松田は思わず背筋を伸ばした。勝った。いや、勝てる。家まであと少しだ。

歩き方も自然に戻る。さっきまで股関節に機密文書を挟んで運んでいるみたいな動きだったのが、普通の中学生の歩幅になる。夕日がやけに優しい。世界はまだ美しい。バカか。


三度目の波は、家が見えた瞬間に来た。


見えたのだ。松田家の二階のベランダが。見慣れた白い外壁が。

その瞬間、心が先にゴールテープを切った。

やった。着いた。助かった――

と、思ったのが悪かった。


腹が、それを合図だと勘違いした。


今まで鉄壁で閉ざされていた城門の内側から、「味方到着! 解散!」みたいな空気が流れた。

ふざけるな。まだだ。まだ玄関だって入ってない。

なのに身体は残酷なまでに単純で、安心した瞬間に一気にガードを緩めた。

その一撃は重かった。さっきまでの波が局地戦だとしたら、これは大陸間弾道ミサイルだった。

松田は家の前で一度立ち止まり、何でもない石ころを見るふりをして呼吸を整えた。通行人から見ればただのぼんやりした中学生だが、内実は国家予算すべてを注ぎ込んだ防衛戦である。


玄関までの数メートルが遠い。

一歩ごとに腹と交渉する。

右足、「今大丈夫か?」

腹、「条件付きで」

左足、「じゃあ行くぞ」

腹、「責任は持たない」

最悪のチームワークだった。


四度目の波は、玄関で待っていた。


鍵を出す。

出ない。カバンのポケットの裏地に引っかかる。なんでだ。今か。

ようやく掴む。差す。

入らない。角度が違う。手が震えている。映画ならここで観客が「早くしろ!」と叫ぶ場面だが、叫びたいのはこっちだ。

ガチャ。開いた。

その瞬間、腹の中の何かが拍手した。始まるな、拍手するな。


靴を脱ぐ。

たかが靴である。普段は一秒だ。だがこの一秒が長い。かかとを踏む、引っかかる、バランスを崩す、壁に手をつく。廊下が空港の滑走路みたいにまっすぐ長い。

トイレのドアは見えている。そこにある。希望が可視化されている。

脳内シミュレーションは完璧だった。

ドアを開ける。便座のふたを上げる。ズボンを下ろす。パンツを下ろす。座る。勝利。

コンマ何秒単位で、すでに三回は成功していた。頭の中では。

だが現実の身体はノロい。ジッパーは機械なのに裏切る。制服のベルトは今日に限って堅牢すぎる。

「ちょ、待っ――」

誰にだ。


パンツに指をかけた、その瞬間だった。


終わった、と思うより先に、出た。


ショットガンみたいに。

腹の底でずっと安全装置をかけていた何かが、至近距離で一気に撃ち放たれた感じだった。

熱。勢い。絶望。

同時に、とんでもない解放感。

世界が一瞬で静かになる。さっきまで耳の奥で鳴っていた警報も、信号も、足音も、全部遠のく。

ただ、自分が負けたことだけが、やけに鮮明だった。


松田侑生、中学二年。

自宅トイレの目の前で戦死。


叫びはしなかった。そんな元気もない。

ただ数秒、便座の前で止まった。

人は本当に終わると静かになる。ドラマみたいに「うわあああ!」とはならない。もっとこう、体育館の電気が全部消えたあとの空気に近い。

それから機械みたいに残りの工程を済ませ、必要最低限の処理をして、パンツをつまんで風呂場へ向かった。


敗戦処理である。


風呂場は湿っていた。家族の誰かが昼に使ったらしい水滴が壁に残っている。

洗面器に水をため、洗剤を落とし、パンツを押し洗いする。

水が濁る。見たくない。だが見るしかない。

指先にぬるい水の感触、換気扇の低い音、洗剤のやけに清潔な匂い。全部が妙に現実的で、それが腹立たしかった。世界はこんなときでも普通に回る。こっちは今、尊厳の遺品整理をしているというのに。

学校でしとけばよかったのか。

いや、無理だろ。あの空気で?

でもコンビニで借りれば。

いや、あのときはまだいけると思ったんだ。

「いけると思った」がいちばん危ない。今日、骨身にしみた。腹痛における「いける」は天気予報の「ところにより」である。信用すると死ぬ。


パンツをすすぎ、絞る。

手の中で、びしゃりと情けない音がした。


誰にも見つかりたくなかった。

母親が帰ってきて「洗濯物なにそれ」と聞いたら、その瞬間に人生の説明が必要になる。そんなの無理だ。国家機密どころか国が滅ぶ。

だから松田は、風呂場の隅にそれをそっと隠すように干した。犯罪の証拠品みたいに。


少しだけ笑えてきた。

なんでだよ、と思う。

家まで持ったのに。トイレの前まで来たのに。あと数秒だったのに。

でも、そういうものなのだ。腹痛の神は、人が「勝った」と思ったところを狙ってくる。ゴール前で足をかけるのが好きなのだ。性格が悪い。


風呂場を出る前に、松田は一度だけ深くため息をついた。

ひどい目に遭った。最悪だ。誰にも言えない。墓まで持っていく。

それでも明日になれば、たぶんまた普通に学校へ行く。何事もなかった顔で席につき、久保に「昨日なんで急いでたの」と聞かれたら、適当な嘘をつく。

そしてたぶん、懲りもせず、学校ではうんこをしない。


そういう掟が、この国にはまだある。

少なくとも、風呂場でパンツを洗う松田侑生の中には、確かにあった。

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