聖なる手
血を落としたエドアルドは城に戻った。
戻る道すがら、入り口までも古い石畳が敷かれているのを見て、やはり記憶にないことを不思議に思う。
疲れていたとはいえ、こんなにも目立つものを忘れてしまうものだろうか。
それとも、足を治療してくれた゛誰か"が運んでくれたのだろうか。
思いかけて、首を横に降った。
エドアルドの身長は他のガルドス人に比べると長身で、ずいぶんと体躯もいい。
同じくらいの背のアルノーでさえ、木を失った男を運ぶのは困難を極めるというのに、だれが自分を運べるというのか。
それに確かに足跡があの寝床まで続いていた。
血も泥も…残された足跡の大きさも自分のとピタリと重なる。
用意しておいた着衣を身にまとい、余分に持ってきた布でガシガシと乱雑に濡れた頭を拭った。
石鹸もなく、まだすべて落ちたわけではないのだろう。茶色い染みが布に移っていた。
だが、それでもわずかばかり気分が上昇する。
衣住食は、人が最低限度の生活をするために必要なものだ。
とにかく屋根のあるところを見つけた。
衣装も古くカビ臭いが耐えられないほどではない。
後は、「食べるもの」。
厨房も儚い期待をして探した。
だが、見つけたところにあったのは、狭い厨房に錆び付いた巨大な包丁。机一面に渡された巨大な大木から伐り出されたらしい人の大きさもあろうかという巨大なまな板だけ。
端に水受けがあって、かつては井戸水を組み上げて使っていたのであろう蛇口が見えた。
そっとひねってみたが、予想通り水は流れてこない。
今はもう残党を残すだけでほとんど滅んでしまった魔族に関する正確な記録が、ロアルドの残した口伝以外ほとんど残されていない。
ロアルドが意図したのか、もともとそうであったのか知る由もないが、今の人はほとんど魔族がどんな能力を持っていて、どんな恐怖をもたらしたのかを知らない。
知っているのは数少なく、魔族は飽食ではないということ。
生きている者を新鮮なものを新鮮なうちに食すのが好物だったと聞く。
動物や…時折は…。
だとすれば、調理などしていたはずもなく。
まな板の四方に、なぜ金属製の留め具が付いているのかさえ想像したくなかった。
自分のうちに浮かんだあまりにもグロテスクな想像に、エドアルドは早々にその場を立ち去っていた。
魔族の記録。
なぜ、人が近づかないのかその理由。
殺された数多くの生き物は魂が浄化されず、黒い影となって大地にとどまり、吸血鬼のごとくその地の生気を吸い取っていく魔族の影となる。
その影響は永く、魔族が死んだ後も続くのだ。
魔族の住んでいた土地の多くが、瘴気の渦巻く生き物のいない不毛の地になるのはそのせいでもある。
木々が枯れ、灰色の森が広がる。
泉が干上がり、赤茶けた砂の地となる。
今も、そうやってできた数多くの森や泉があるという。
それは王族にだけ密やかに伝わる話。
人がいつまでも魔族の影に怯え暮らすのは好ましくないと判断した王が封じた史実。
ただ立ち入るな、と噂を流す。
嘆きの森も例外はなかっただろう。
特に、魔王の居城ともなれば。
聖王ロアルドが、この森への立ち入りを禁じた理由を、半ばそうだと思っていたエドアルドは意外に思っていた。
なぜ…ロアルドは立ち入りを禁じたのだろう。
エドアルドは、今や言い伝えにきくような瘴気がこの森には無かったと知っていた。
― 嘆きの森に何人たりとも立ち入ることならず
そう宣言したロアルドの言葉は王の勅命となり、王がなくなって久しい今日でさえ民に徹底されている。
つまり。
人を入れたくなかった理由がここにあったのだ。
それは…なんだったのか。
秘めやかに密やかに囁かれる民のもうひとつの噂。
ロアルドの…ここに大切な者が眠っているのだというもの。
ロアルドが幼なじみの正妃を誰よりも愛していたことは、皆知っている。
王族をすべて魔族に殺され、旅立つ日に危険を犯してでも会いに行った娘。
その娘を守るために、ロアルドは戦った。
ロアルドが、民から期待されて口頭で残した旅立ちから魔族との戦いの記録は書物となり、民の間では未だ衰え知らぬベストセラーのひとつでもある。
だが、誰もが書物を読むたびに何か感じる違和感。
消えた××。
ロアルドがあからさまに秘そうとして、意図的に隠さなかった事実。
読めば読むほど、何かのピースが欠けていて、民は書かれていない何かを読もうとした。
実際に数多くの疑問がロアルドには残されている。
当時、魔族の勢力は四方に強い魔族が蔓延り、その中枢が魔王であったという。
東の魔族は形のない魔族。人や生き物の影に住み着き、生気を吸う。
魔族は闇に乗じて、人から生き物へと乗り移っていく。
光のなかで人の影を無くせば、東の魔族は行き場をなくして、影から出てくる。
ロアルドは光の魔術を使い、人に憑いていた魔族を引き出したとされる。
だが、ロアルドは引き出した魔族をどうやって倒したのか。
書物には、ただ、一言滅したとある。
西の魔族を倒したとき、その居城は縄の一本もたらされていない断崖絶壁に立っていた。
西の魔族には虫のような透明な羽があり、飛んでそこまで移動するのだという。
妖艶な女の姿をした魔族で、攫っていった人を弄んでは、そこから突き落として楽しむと言われていた。
だが、ロアルドは人である。空を飛んで、攻め行ったというのだろうか。
南の魔族は巨大な岩の魔族。
皮膚はゴーレムのように硬く、剣を通さない身体を持っていた。
自分の足元で生き物を虫けらのように踏み潰すのを愉しむ魔族。
唯一の弱点が、その水色の目。
ロアルドは、その魔族を足止めし、剣で突き刺したとあるが、どうやってそこが弱点と知ったのだろう。
北の魔族は雪の女王。
女に姿を変え、吹雪に紛れて人の男をまどわしていたという。
男たちは、女と交わると、意のままに操られる人形のようになる。
魔族の兵士となった人が、正気の人と戦う。
ロアルドは聖なる力を発揮し、魔族の誘惑を見抜き、魔族に止めを差す。
だが、魔族の残す根は深い。どうやって、兵士となった人々から魔族の痕跡を除いたのか。
そして、魔王の討伐の巻で、謎はさらに深まる。
ロアルドは、旅の途中で、ある高位の部族から伝えられている。
魔王は剣では倒せない、と。
だが、ロアルドは最期は剣で止めをさしている。
剣では倒せないはずの魔王をどうやって倒せたのか。
ロアルドを助ける仲間がそばにいたのだ、と解釈するのはたやすい。
しかし、ならば、なぜ隠さねばならないのか。
ロアルドは死ぬまで誰にも語らなかった。
残した記録がすべてなのか。
それとも、噂のとおり、誰かがいたのか。
民は、後者を選んだ。
そして、残った地に何かを期待する。
「聖王ロアルドが隠してきた大切な者か」
想像は妄想に過ぎないと思っていても、こうやって誰かがこの森にいるのを感じると考えてしまう。
そして。
こうやって、時折、自分の前を横切る影を見ると…。
城の片隅に滞る黒い塊。煙のように揺れて、瘴気を放つそれ。
これが自分にしか見えないものであると知った時の驚きは今でも覚えている。
王城の庭木が何度植えても枯れると言って庭師が嘆くので、興味半分で行ったらそこに同じように黒い塊があった。
あんな黒い塊があったら作業に邪魔だろうと庭師に告げたら、何を言っているのかという目でエドアルドを見られた。
こんなにもはっきりと自分には見えるのに、と思いながら、エドアルドは黒い塊に手を伸ばしたら、ピリと指先に痛みがを覚えて、とたんに黒い塊が霧散したのだった。
その後、庭師は木を飢えても枯れなくなったと喜んでいた。
エドアルドは自分が何をしたのかわからなかった。
ただ少なくとも黒い塊を消す何かが自分にあるのだと思った。
聖王ロアルドに、その呼称のとおり、闇を払うなにかがあったように。
だが、エドアルドはそのことを誰にも言わなかった。
そうでなくとも、ロアルドに似ているからとまつり上げられることが多かった。
もし、自分の兄ができない何かができることがわかってしまったら、政治に利用される。
エドアルドは、兄のフレッドを尊敬していたし、愛していた。
なにより政権にいくばくかの興味もわかなかった。
それよりはアルノーと馬鹿をやっているほうが楽しかった。
剣は、いつか兄の役に立つかも知れないと思って、学を好むのフレディの代わりに習った。
そうやって、この国の平穏は保たれてきたのだ。
エドアルドは無意識のまま、幼い頃そうしたように目の前の黒い塊に手を伸ばした。
黒い塊のふよふよとした煙のような輪郭に触れた瞬間。
あの時と同じように、ピリと痛みが指先を走りぬけ。
黒い塊が霧散した。
そういえば、ジャイーンの追手が来ない。
ここに魔王の城があることは誰もが知っていること。
いつ追いつかれるのか。
そして追いつかれて自分はこれ以上逃げることができるのか。