嘆きの森
はぁはぁはぁはぁ。
自分の息がうるさい。
くそっ。
止めたいと思うのに、思うようにできないもどかしさに舌打ちしてしまう。
逃げるしかできなかった。
自らの城から。
どうしてこうなったのか、エドアルドにはわからなかった。
ジャイーンの真の意図がなんなのか。
妹を取り返すとか…。
どういう意味だったのか。
その真意を探る余裕は今のエドアルドにはない。
そして…父の最期の姿に胸が痛んだ。
同時に多くの兵士の姿にも。
肩で息を慣らしながら、背後の気配を伺う。
どのくらい走ったのか、自分でもよくわかっていなかった。
ただ、馬で終われたら確実に追いつかれると思い。
それは確かで。
気がついたときには、嘆きの森に走りこんでいた。
真っ暗な闇だけが支配する森。
生き物の気配のしない森。
吐息一つ吸い込まれてしまいそうな静寂の森。
ジャイーンの部下たちも知らず入り込んだかも知れない。
だが、この森は馬を狂わす。
この森に潜む何かの気配が、生き物を恐怖に陥れるのだ。
背後を振り返ると、王城の姿は見えなくなっていた。
ぼんやりと、松明が木々の隙間から見える。
追っ手である。
森の中で、馬は狂うが、人は狂わない。
恐怖しなければ、侵入できるのだ。
今の自分のように。
「くそっ」
エドアルドはおおよそ王子には似つかわしい舌打ちをし、木々の隙間からのぞく松明のオレンジ色の明かりを背に追い立てられるかのように、さらに森の奥へと進んでいったのだった。
チチチチチ。
柔らかな日差しが頬を掠める。
背中が痛い。
足の裏もひどく痛む。
なぜだ。
自分は羽毛の布団を使用していたはずで、痛みとは無縁。なのに足が痛む。
顔の周りを何かが飛んでいる。
手で払う。
それでもしつこく何かが飛んできて、チクリと首筋を刺した。「っぅ」
バシリと叩くと、ヌルと嫌な感触が手のひらに伝わってきた。
「ここは」
目が覚めて自分がどこにいるのかとっさにわからなかった。
だが、血にまみれた夜着と、じくじくと痛む足。そして、たった今潰したばかりの手のひらの中の奇妙な虫の姿に、どこにいるのかを思い出した。
吸血虫であったかのようで、黒い虫が潰れた手のひらにはベットリと相当の血がついていた。
それが自分の血だけとは限らないが。
少しでも城から遠くにと思っているうちに、歩き疲れ眠ってしまっていたらしい。
しゃがみこんでいたのは木の根元である。
ふかふかの葉が尻の下を覆っていて、座り心地は決して悪いわけではない。
そして、差し込んだ日差しに目を細めた。
ここは一年中日も射さない暗闇の森だと思っていた。
実際には、変な虫もいるが。鳥の声もした。
決して、生き物の住めない森ではないのだと教えてくれるかのように。
良かった。
何がとは言えない。
だが、生き物がいるのであれば、自分もなんとかなるのではないかと思い始めてしまう。
「とにかく…移動しなければ」
自分でつぶやいてみるものの、どこを目指すべきかなど定めたものはなかった。
戻って状況を確認したいが。今戻っても森の出口で待ち構えられて、射殺されるのが関の山だ。
となると奥へと進むしかない。
だが、極めて気が重かった。
奥にあるものがなんなのか、この国の民であれば誰もが知っている。
知っていながら近寄らない。
エドアルドも例に漏れず、近づいたことはなかった。
エドアルドは、深い深いため息を吐き。
木に手を掛けて、ゆっくりと立ち上がった。
足の裏が痛むのは、たぶん、いろいろなものを踏んだからだろう。
ガラスかもしれないし、尖った石かもしれないし、木のささくれが刺さったのかもしれないし、この虫のように見たこともない虫に刺されているからなのかもしれない。
だが、今確かめる勇気はなかった。
顔も髪も手足もべとつくし、生臭い。血が臭うのだろう。
時が経つごとに、臭いは強くなり、自分にとってありがたくない獣を引き寄せてしまう可能性が高い。
だからといって、外敵から身を守る唯一手段である夜着を脱ぐわけにもいかない。
黄金の王子と呼ばれた自分の今の姿を想像して、思わず口元が緩む。
アルノーあたりが今のエドアルドを見たら、なんと言うだろう。
女もこんな姿では近寄ってくるのもいやがるだろう、とたやすく想像出来る。
泥だらけで、髪も顔も全身も血まみれで…まるで自分が王殺しの犯人のようで。
鏡では見ることが出来ないが、さぞ凄惨な姿をしていることだけは確信できた。
剣が重い気がするが、捨てるわけにはいかない。
唯一の武器なのだ。
刃こぼれもせず、ただ、血糊がついているので、早めに落としたほうが錆は広がりにくいだろう。
血糊をどうやって落とす?
水も、紙もこの場には何一つないのに。
頬を掠めていた日差しがふと揺れて目に入り込み、まぶしさに思わず目を細め、空を見上げた。
そのとたん視界を覆う緑。
なんという濃い緑。
天井はこれでもかと木々からの葉が生い茂り、時折風に揺れて日差しが差し込むのだとその時気がついた。
ゆっくりと唇を開いて、息を吸い込むと、肺に新鮮な冷えた空気が満ちていく。
その時、空気がどんな料理よりもうまいと感じた。
諦めるのはまだ早い。
まだ、自分は死んでいない。
この嘆きの森でさえも死んだ森ではない。
辿りつけるのかわからないが。
「後ろに行けないのなら、前に行くしかない、よな」
エドアルドはそう自分に言い聞かせ、木から手を離し、剣を杖がわりにその一歩を踏み出した。