帰城
アルノーは約束の日を過ぎても帰ってこなかった。
不安だけが募る。
もしかすると何かあったのかもしれない。
もちろん、何か、とは絶望的な意味でのもの。
リュウ、と思わず言いそうになるが、決して是としないリュウはエドアルドの視線に応えることはなかった。
アルノーが旅立っている間に、エドアルドはしばしば森の境界線を訪れるようになっていた。
遠く木立の隙間から外を覗くと。
森の入口を囲むように無数の兵士が立っていた。
ちょうどロアルドが立っていた場所だ。
こちらを監視するために常に視線はこちらに向いている。
いったい、アルノーはどうやってこの森に入ってこれたのだろう。
あれほどの監視を潜って入るのは、あとは崖の方向だけ。
2日が過ぎた。
エドアルドは、嫌な予感だけがしていた。
もう待っていられない。
その日は、朝起きるのが早かった。
日も射さず、まだ朝もやに包まれる森の入り口近くで、エドアルドは剣と共に立っていた。
その翠色の瞳が決意という名の輝きを放ち、早朝にもかかわらずすでに控えている兵士の動向を伺っていた。
「行くのか」
そんなエドアルドにふと後ろから声がかかった。
そうと告げたわけでもないのに、ふらりと木立の隙間から現れたのはリュウだった。
万が一を想定しているのだろうか、深く灰色のフードを被っている。
本当はずっとこのまま森で暮らせたらエドアルドは幸せなのかもしれないと、片隅で思う。
ただ、それは様変わりした王のことを聞かされるまでのこと。
「ああ」
「そうか」
『気をつけて』も、『また』でもない。
それでも、エドアルドにはリュウが自分を送るために現れたのだとわかっていた。
本当は、誰よりも優しいリュウ。
一緒に連れていけたらどんなに嬉しいことか。
それは、ありえない夢だった。
「リュウ」
名を呼ばず。
姿を見なければ抑えられた。
ただひとつ願いを。
このまま嫌な想い出なくリュウの元から消えてしまおうかと思ったが。
不意にエドアルドはリュウに近寄った。
つかの間、森の入口に目を向けていたリュウはとっさに反応が遅れた。
フードが取り払われ、逃げようとするその手首を布ごと押さえて、顎に手をかけ。
赤い目がエドアルドを見ていた。
信じられないもの見る目付きで。
その目が閉じないことをエドアルドは知っていて。
そっと唇を重ねた。
柔らかい桜色の唇は、他のどんな女のものよりも甘い香りがした。
リュウは動かなかった。
理由はわからない。
もしかすると、動くことでエドアルドに闇が触れてしまうことを恐れたのかも知れない。
やわらかくなんどか啄み。
エドアルドはその唇と、手から離れた。
「ばっ…かやろう」
リュウの顔が朱に染まっている。
かすかに浮かんだのは涙?
「大事なモノがある人間が無駄なリスクを冒すな」
リュウは自分のことをリスクと言い切った。
胸が裂けるような思いに包まれ、そんなことはないと首を横に振る。
大事なものに触れることを恐れるのは、愚か者だ。
「大切なんだ」
エドアルドは噛み締めるように言った。エドアルドにとってこの国と同じくらい。
「リュウ」
「あんたは、やっぱりエロで変態で大馬鹿なんだな」
「エロが増えてるぞ」
今までにない単語にエドアルドは苦笑する。
「うるさい」
「今まで世話になった」
エドアルドが鮮やかに笑い、もう一歩進めようとして「待て」と静止された。
くいと顎で前方を指すと、くらりとめまいがして、視界が一転、白黒に包まれた。
そこには森の入口一帯を覆う黒い糸が。
あのまま走っていたら、引っかかっていただろう。
「あれにかかると、ほら」
上方の木にかかった鈴がなる、というわけか。
初歩的な監視装置だが、暗闇やこの森のような場所では役に立つ。
「助かった」
「どうするんだ」
「気をつけながら進む」
あまりにも戦術性のないエドアルドの発言にリュウが軽く肩を落とした。
「今回だけ助けてやる」
「え!?」
驚きの声をあげた瞬間だった。
「さあ」というリュウのかけ声と共に、ざぁ、と木々が揺らめいた。
相変わらず、腹の奥から針でチクチクさされるような嫌な感覚が広がる。
リュウの足元から闇がこぼれ落ち、伸びた闇が糸を喰らっていく。
音もなく。
姿もなく。
その空間が切り取られて。
次の瞬間、闇の隙間に小道が出来た。
外にまで伸びる闇の回廊。
闇は闇で。
人は闇を恐れるが、真にそこに闇があることに気づかない。
その間を人が歩いているとはわからない。
エドアルドの目には、闇を通して、左右に立った兵士が弓をつがえてこちらを見ているのがわかるが、相手は気づかない。
「感謝する」
決して手は出さないと言っていたリュウ。
その意思を曲げてまで、助けてくれたことについて。
そして、踏み出す一歩。
闇の壁から、時折、ふよんとした影が湧き出してくるが、エドアルドに触れると霧散してしまう。
エドアルドは気にしない。
気にする必要もない。
「それがどんなに凄いことかなんて、あんたはわかってない」
リュウは闇を維持しながら、エドアルドの去っていく背中にそうつぶやいた。
エドアルドの耳に、言葉が届くことはないとわかっていて。
リュウはしばらく闇の壁を作ったまま、外の様子をながめていた。
何の喧騒もおきないことに、一息吐いて。
やがて、リュウは森の中に姿を消した。