終わりの日
「もう二度とここへは来るな」
その者は、そう言ってフードをさらに目深にかぶった。
泥や血に汚れた薄汚いねずみ色のフードの主は誰かも伺い知れない。
ただ目の前に倒れた魔王が絶命の時の表情を色濃く残したまま、自分たちの旅の終末の唯一の証であるかのようにいつまでも消えずにそこに在った。
「リュウ」
そうささやいて、その者に歩み寄ろうとする者は対照的に華やかだった。
重い甲冑に覆われた体躯の良い青年の手には、今も魔王の血が滴る剣が握られている。王者の剣と呼ばれる金色に輝くその剣はどんな魔物も倒してきた。そして今、同じように金色に輝く彼の髪が背中まで流され、風に揺らぎ輝きを増していく。これからの彼の人生のように。
翡翠のような透明なまなざしに、リュウと呼ばれたものはさらにうつむいた。
「ロアルド。ここでお別れにしよう」
「なぜだっ」
「わたしはもうお腹いっぱいなんだ」
いつもだった。
どんなに憎い魔物でも、一匹一匹と倒していくたびに、その顔は憂鬱にしずみ、そして影はこくなる。
なのに、泣きそうで泣かない。
「どうしたらいいのだ。私は、今この瞬間でもお前をこの手で抱きしめたいというのに」
ロアルドには夢があった。
この魔王によって乱された国を再興して、そして傍らにはリュウの姿が。
「そっとしておいてほしい」
「なぜだ…リュウ。君が勇者だ。魔王を倒したのだぞ。これから、ようやくこの国の復興だというのに。私は君にこれからもそばにいて欲しいと」
その言葉を逆に恐れるかのように、フードの主は後ろに後ずさった。
「そばにいるのは異形の者ではいけない」
「わたしは構わないっ!」
リュウと呼ばれたものは、かすかに唇のはしを上げた。
出会った時から変わらないまっすぐなロアルド。いつまでも自分が正義だと信じて疑わない好青年。
かすかに息を飲み、フードの端に手をかけて、一気にフードコートを脱ぎ去った。
その下から現れたのは、短パンと麻のシャツだけのシンプルな衣装に、丈夫な革靴を履いたまだあどけない少年のような姿。その容姿と背の低さに、こちらにきたときは良く幼子と間違われたものだった。
「っ」
「このわたしを見ても、同じ言葉が言えるか?」
だが、そうささやいた小柄な身体には、この世界に来たときは無かった様々な違いがあった。
日本からこの世界に飛ばされてきた自分は、世界にもいつまでも受け入れられずとても希薄な存在で。
だからこそ、何一つ拒否せず、受け入れることができた。
それがたとえ異種族の存在だとしても。
そして今。
真っ直ぐな黒髪の隙間からのぞく大きく尖った右耳。
赤に輝くネコ科の左の瞳。
背中からゆっくりと広がっていく、真っ白な羽。
ロアルドはこんなわたしを綺麗だと言ってくれた。
だが、今、その全身には真っ黒な蛇に侵されているかのように黒い模様が描かれていた。
むき出しになった手も足も。その真っ白な首筋さえも。
ロアルドから、声はなかった。
ただ、その瞳だけが自分という存在を拒絶しているのがわかった。
歴代随一と呼ばれた闇の魔王の力を喰らったのだ。半ば覚悟し、半ば期待していた。
魔王の力は、闇の蛇。
今もちりちりと身体の中でその力が蠢いているのを感じる。
聖なる力を持つというロアルドにも、この闇が今も死んではいないことを気づいただろう。
いや、さらに強大に、凶悪になったこの力。
守りたい。
壊したい。
二つの矛盾した感情が、自分の中でせめぎあう。
まるで世界で行われていた勇者と魔王の戦いが自分のうちで行われているかのようだった。
今まで浮かべることさえ考えたことのない残忍な笑みを無自覚に浮かべて、もう一度、コートを羽織る。
「幸せに」
そう言い捨てて、コートを翻した。
後ろは見ない。
ロアルドが目を剥いて、言葉を何か紡ごうとしているのがわかるから。
だが、ロアルドにそれはできない。
なぜなら、ロアルドは真の王だから。
誰よりも、もしかすると魔王よりも危険な存在を自らの…いや、愛する民のそばにおくことは、本能が拒絶するから。
『さようなら』
ロアルドの理解出来ない日本語でつぶやき、そして、魔王の城を抜け、その城の眼下に広がっている深い深い森の中に姿を消していったのだった。