聖女が現れたので身を引こうとした悪役令嬢ですが、王太子殿下が婚約を解消してくれません
一か月前、聖女が現れた。
緩やかに波打つピンクブロンドの髪と、瑞々しい柘榴のような赤い目を持つその女性は、とても可愛らしく、楚々としていたようだ。
大きな瞳は頼りなく揺れ、小柄で華奢な体はまるで妖精のようで、背中に羽でも生えているのではないかと、見る人に思わせたらしい。
「私はお役御免ということね」
オリヴィア・ユーヴェル侯爵令嬢は、深い溜息をついた。
ドレッサーの鏡に映るオリヴィアは、淡いラベンダー色の真っ直ぐな髪と、濃い紫色の目をしたキツめの美人である。
幼い頃は天使もびっくりな可愛らしさだったのだが、ここ数年で背が伸び、胸や腰は大きく女性らしく育ち、目鼻立ちがやたらはっきりして、今に至る。
「そんな……お嬢様、きっと大丈夫です。お嬢様ほど将来の国母に相応しい女性はいません」
「ありがとう、セシル。でも、仕方のないことなのよ」
オリヴィアは現在十八歳。
八年前、一つ年下の王太子テオフィヌスの婚約者に選ばれて以来、未来の王太子妃として妃教育を受け続けてきた。
来年、テオフィヌスが貴族学院を卒業すれば、翌月には正式に婚姻を結び、結婚式を挙げる予定になっている。
セシルはオリヴィアの侍女だ。
「きっとこれは、最初から決まっていたことなの」
そうだ。オリヴィアは選ばれない。
これは、小説のシナリオ通り。
三年ほど前、オリヴィアは前世を思い出した。
自分が、前世で読んでいた恋愛小説の悪役令嬢であること。
聖女が現れれば、王太子は彼女を愛し、婚約は解消されること。
そして、嫉妬に狂ったオリヴィアは破滅すること。
だから決めていた。
何が起きても、受け入れようと。
「ねえ、セシル。殿下との次のお茶会はいつかしら?」
「明後日でございます」
「そう。ではきっと、その時ね」
胸が痛むのは、元のオリヴィアの恋心の名残だろう。
今のオリヴィアに、恋情はない。
「殿下からいただいた贈り物は、全てまとめておいてちょうだい」
「申し訳ございませんが、まとめるとはどういうことでしょうか」
「お茶会に持っていけるようにしておいてくれる?」
「……かしこまりました」
セシルは瞠目し、何かを言いかけたが呑み込んだ。
オリヴィアは、諦めたように微笑む。
「ごめんなさい。――ありがとう」
物語には、流れというものがある。
流れに対して下手な抵抗をするのは無意味であり、ヒロインに対抗心を燃やすことは悪手だ。
嫉妬も厳禁。
何故ならば小説の中のオリヴィアは、日に日にヒロインに夢中になっていくテオフィヌスに衝撃を受け、傷付いて、心を病んでしまうからだ。
その後オリヴィアは、テオフィヌスから婚約解消を打診される。
理由は、ヒロインと婚約するため、というものだ。
これはテオフィヌスの一存というわけでもなく、どうにかしてヒロインを王家に取り込みたいという政治的判断も絡んでいる。
しかし、オリヴィアは拒否する。
何故ならば、テオフィヌスを愛してしまっていたからだ。
そしてヒロインに嫌がらせをした結果、王家の怒りを買い、婚約破棄をされて辺境の地に幽閉になる。
これは、高い塔のそれなりに豪奢な一室に軟禁され、外へは出られないことを意味する。
元のオリヴィアがどう思うかは知らないが、今のオリヴィアは、人間で文化的な生活をするためにこの未来は避けたい。
田舎で質素にスローライフの方が、百倍マシである。
だからオリヴィアは、全てを受け入れようと思っていた。
*****
穏やかな秋の日。
王宮の庭のガゼボで、オリヴィアは婚約者である王太子テオフィヌスと向かい合って座った。
「殿下、お待たせして申し訳ございません」
「よく来てくれた。いい天気だったから、少し早めに来ただけだ。此方に掛けてくれ」
「はい。かしこまりました」
テオフィヌスとは、今のところ良好な関係である。
確か元のオリヴィアもそうだった。
しかし、この日を境に全てが崩れ始める筈だ。
オリヴィアは腰を下ろし、ふとテオフィヌスを見つめた。
(小説では美形だとしか分からなかったけど、本当に綺麗な人。写真か動画に残せたらいいのに)
現代日本と異なり、そんなものがない世界なのが悔やまれる。
秋の陽の光を浴びて、金の髪が柔らかく輝く。
長い睫毛の向こうには、森を詰め込んで煮詰めたような青緑色の瞳。
やはり、王子様というものは絵になる。
「オリヴィア、今日は話がある」
「何でしょう」
「フローラ嬢――いや、聖女についてなのだが、王家に迎え入れることとなった」
始まった。
オリヴィアは、嗚呼、と内心ため息をついた。
聖女・フローラに心を奪われたテオフィヌスは、オリヴィアとの婚約を解消し、フローラを妃に迎える。
これはそういう物語だった。
今日のこの日に、この場所で、物語は動き出す。
だからオリヴィアは、秋もこの場所も嫌いになる。
――否、苦手になるのだ。そう思っていた。
「来月、聖女は私の妹になる」
「はい」
「将来的には、君の義妹になるから、そのつもりでいてほしい」
「……はい?」
妹に義妹。おかしい。聞き間違いだろうか。
そんな展開は、小説になかった筈だ。
オリヴィアは、思わず怪訝そうな顔をした。
「どうした」
「殿下、婚約の解消はなさらなくてよろしいのですか?」
「……は?」
テオフィヌスの顔から、すとんと微笑みが消えた。
「君は今、何と言った」
「婚約の解消はなさらなくてよろしいのですかと、申しました」
「一応聞くが、誰の話だ」
「殿下と私です」
「――オリヴィア。それが君の希望なのか」
テオフィヌスは、低い声で尋ねた。
その場の空気が、一変する。
オリヴィアは、背筋がぞわりとするのを感じた。
「殿下は、私がそんなことを希望するとお思いなのですか」
「君がそう言ったんだろう」
「確かにそうですね。では、そういうことで大丈夫です」
オリヴィアは、早々に諦めた。
テオフィヌスは王太子。オリヴィアが何と言おうが、テオフィヌスの方が身分は上なのだ。
オリヴィアはアメジストのような瞳を悲しく伏せ、手元の紅茶を見つめた。
「オリヴィア。君は私の妻になる。――君に拒否権はない」
まるで諭すように告げたテオフィヌスの瞳は、驚くほど昏かった。
*****
今のオリヴィアは、本当のオリヴィアではない。
中にいるのは、社会人数年目の日本人女性、天野雪音だ。
それなりに名のある会社で真面目に働き、楽しいことばかりではなかったけれど、生きるために毎日会社へ通っていた。
金曜日の夜、百貨店の地下で少し高級なお惣菜を買い、夜更かしをすることだけが、小さな楽しみだった。
世の中は、不平等で理不尽だ。
真面目で正直な人が報われるとは限らない。
要領よく立ち回れる人、多少適当でも周囲に好かれる人、精神的に図太い人が上手く渡っていくことも珍しくない。
そんなことを考えながら、雪音は毎日、満員電車に揺られて会社へ通っていた。
そしてある日。目を覚ますと、お姫様のような天蓋付きのベッドで眠っていた。
昨夜はいつものように仕事を終え、疲れ果てて終電に近い電車へ乗ったはずだった。
しかし、その後の記憶はない。
事故だったのか。病気だったのか。
あるいは神隠しにでも遭ったのか。
理由は分からない。
ただ、鏡に映る自分は、天野雪音ではなかった。
淡いラベンダー色の髪と、濃い紫色の瞳と、整い過ぎた美しい顔。
つまり、オリヴィア・ユーヴェル侯爵令嬢だった。
ほどなくして侍女が部屋へやって来て、会話を交わし、自分の置かれた状況を理解する。
ここは、雪音が通勤中にスマートフォンで読んでいた恋愛小説の世界だった。
しかも、自分は主人公ではない。
王太子・テオフィヌスの婚約者であり、最後には破滅する悪役令嬢・オリヴィアだった。
幸いだったのは、オリヴィア本人の記憶が残っていたことだ。
家族のこと、礼儀作法、勉強してきた知識。その全てを覚えていた。
だから、多少ぎこちなさはあったものの、致命的な失敗をすることなく生活できた。
「心を入れ替えて大人になることにしたのよ」
違和感を覚えた人には、そう言って微笑みかけた。
ひらり、ひらりと、綺麗に躱した。
その結果、人が変わったとか、優しくなったとか散々言われたものの、二年も経った今では、それが今のオリヴィアなのだと周囲も受け入れ始めている。
そして雪音は、この二年と少しの間で、オリヴィアのことを可哀想だと思うようになっていた。
オリヴィアは、未来の王太子妃として幼い頃から厳しい妃教育を受け、誰よりも努力を重ねてきた。
地頭も良く、知識も教養も一流。
その努力は、雪音には想像もできないほどだっただろう。
けれど、聖女が現れた途端、その未来は奪われる。
王太子妃になれなければ、自分の人生は何だったのか。
そう思い詰めても、何ら不思議ではない。
確かに、嫉妬に任せてヒロインへ嫌がらせをしたことは間違っていた。
それでも雪音は、オリヴィアという女性を責める気にはなれなかった。
だからこそ決めたのだ。同じ未来だけは辿らないと。
王太子を失ってもいい。侯爵令嬢でなくなってもいい。
けれど、人として穏やかに暮らせる未来だけは守りたい。
そう思っていた。
ほんの数時間前までは。
*****
諦めて、紅茶に視線を落としたオリヴィアが、ふと顔を上げると、テオフィヌスは何の表情も浮かべていなかった。
ただ無言で、オリヴィアを見つめていた。
痛いほどの視線。
そして、聴力をなくしかと思うほどの沈黙。
オリヴィアは、だんだんわけがわからなくなってきた。
青緑色の瞳に見つめられ、なんとなく気まずさが募り、オリヴィアはまたしても手元に視線を落とす。
暫くすると、視界に影ができたのが分かった。
「オリヴィア。君は、何も分かっていない」
「……?」
「公務があるので失礼する」
テオフィヌスは、無表情で淡々と述べて席を立った。
結局その日、オリヴィアはスッキリしない気持ちのまま、馬車で帰宅した。
(どうしてあんなに怒っていたのかしら)
一言で言うと、怖かった。
これまで、優しそうな微笑みを浮かべて貴公子然としているテオフィヌスしか知らなかったからだ。
小説で、オリヴィアに婚約の解消を伝えた時でさえ、少し困ったような柔らかな笑みを浮かべていたのに。
(まあ、いいわ。私は悪役令嬢で、お役御免になることに変わりはないのだものね)
そうだ。オリヴィアは、選ばれない。
だから、もう、テオフィヌスのことは忘れるのが一番だ。
そう思ったのに、翌朝、テオフィヌスからは薔薇の花束が届いた。
そこから、お菓子、綺麗な便箋、アクセサリー、ドレスと、2日と空けずに贈り物が届き始めた。
しかも毎回、カードが添えられている。
「君に似合うと思った」
「今、市井で人気があるらしい。君が甘いものを好きだと言っていたことを思い出した」
「君が好きそうなデザインだと思った」
「美しい紫だ。君の瞳を思い出した」
「これを着た君が見たい。私に、君と最初に踊る栄誉を」
という内容で、なかなかに熱烈である。
慰謝料のつもりかもしれない。
しかし、事情を知らない侍女は「殿下に愛されていらっしゃいますね」と頬を染めていた。
二週間に一度のお茶会が数日後に迫ったある日、オリヴィアに手紙が届く。
それは、「次のお茶会は、王都で人気の観劇にしよう」という内容で、テオフィヌスからのものだった。
(最後の思い出作りかしら)
オリヴィアは、一人小さく微笑む。
悪くないお誘いだ。恋心はまだ少し痛むけれど、初恋を甘酸っぱい思い出に昇華させるには、お誂向きのイベントだと思った。
はっきり言って、テオフィヌスは格好良くて素敵だ。
元のオリヴィアの記憶なんかなくても、きっと、好きになってしまうだろう。
(殿下、どうかヒロインとお幸せに)
*****
「うぅっ、可哀想……」
高位貴族専用の特等席にて。
舞台のエンディングが終わってからも、隣でえぐえぐと泣くオリヴィアを見て、テオフィヌスは苦笑していた。
舞台の内容は、平民の娘と貴族の青年の恋物語だった。
青年には決められた婚約者がいて、婚約者は青年を心から愛していた。
しかし、青年の心はどんどん離れていく。
やがて婚約者は、娘に直接会いに行って、別れてほしいと頼む。娘は承諾し、住処を変える。
しかし、青年は娘を愛してしまったため、婚約者の行動を責め立てる。
そして青年は、婚約者も身分も捨てて、娘を追いかけ、結婚することを決める。
(感動か?いやでも、可哀想といったな……)
舞台は、ハッピーエンドのはずだ。
これは、貴族の青年が、真実の愛に生きたことを讃える物語。
それなのに何故、オリヴィアはこんなに泣いているのか。
テオフィヌスからしてみれば、家を捨て身分を捨て平民との恋に生きるなど、愚かとしか思えない。
しかし、もしオリヴィアを手に入れられないとなったらどうするだろう。
権力を使って地の果てまで追いかけて、捕まえて、閉じ込めてしまうかもしれない。
(オリヴィアが、何を考えているのか分からない)
テオフィヌスは最近、オリヴィアのせいで心と頭が忙しい。
何故ならば、数日前、オリヴィアがお茶会で婚約解消と言い始めたことに、かなりのショックを受けたからだ。
あの日、目の前で、寂しそうに視線を落とすオリヴィアを見て、テオフィヌスは頭を抱えた。
一体、誰がそんなことを吹き込んだのか。
そんなことは、一度たりとも――否、一瞬たりとも考えたことがない。
顔にこそ出さなかったが、困惑と焦燥感と怒りで、思わず叫び出しそうになった。
対するオリヴィアは、酷く落ち着いていた。
諦めたように、穏やかだった。
テオフィヌスは、内心、かなりの恐慌状態で席を立ち、執務室へ戻りながらその優れた頭脳をフル回転させた。
どんなに頑張っても、学園と公務の合間に毎日オリヴィアに会いに行くことはできない。
ではどうするか、と。
そこで思いついたのが、贈り物を贈ることだった。
なお、品物は勿論テオフィヌスが自ら選んで、テオフィヌスからだと分かるようにカードを書いた。
そして、最近はいつも王宮でお茶会だったから、デートに誘ってみたのだ。
こんなにも必死にオリヴィアのことを考えたのは、初めてだった。
何故ならば、出会った頃からその日までずっと、オリヴィアはテオフィヌスの婚約者で、将来の妻だと決まっていたからだ。
「オリヴィア。大丈夫か?」
「はい。申し訳、ありませ……っ」
「うん。ゆっくり息をしようか」
「ふえ、っ、はい……っ、うっ」
此処まで泣くオリヴィアを、テオフィヌスは初めて見た。
妃教育で喜怒哀楽がどんどん薄くなっていくオリヴィアをテオフィヌスは見ていたから、いつも、申し訳なく思っていた。
テオフィヌス自身は元から感情の振れ幅も表情も少ないタイプだったけれど、オリヴィアは、どちらかといえば表情も感情も豊かな方なのだろうと気づいてはいたからだ。
「オリヴィア。もう少し落ち着いてから出ようか」
「いえっ、もう大丈夫です」
泣き濡れたオリヴィアは頬を染め、テオフィヌスを見上げて照れくさそうに微笑んだ。
(可愛い。何だこれは可愛すぎるだろう)
テオフィヌスは顔を顰めた。
そして短く告げる。
「駄目だ」
「!……では、少し失礼しますね」
「?何処へ行く」
「お化粧直しに。沢山泣いてしまったから、きっと酷い顔なのでしょう?申し訳ございません。このままでは、殿下の隣を歩けませんね」
困り顔で微笑むオリヴィアは、少し傷付いたように視線をそらし、ソファから腰を上げようとした。
テオフィヌスは、ハッとして、オリヴィアの手首を掴む。
「違う」
「……?」
「君が、その……から」
「え?」
「――だから!君の泣き顔が可愛いから駄目だと言ったんだ」
薄暗い客席。それでも分かるくらいに、テオフィヌスの整った顔は真っ赤だった。
「殿下……?」
「その顔を、他の者に見せるのは許さない」
そう言って、テオフィヌスはオリヴィアを見つめた。
オリヴィアはぽかんとしていたが、やがてテオフィヌスの青緑色の瞳が物凄く熱っぽいことに気付いて、声にならない悲鳴を上げた。
顔どころか、首まで真っ赤になって泣きそうな顔になるオリヴィアに、今度はテオフィヌスが瞠目する。
そして、ふっと切なく笑った。
「オリヴィア。少なくとも私は、君に嫌われているわけではないと思っていいかな」
「!?わ、私が殿下を嫌うなんて、そんなことありえません」
「そうなのか?」
「はい」
「ふぅん。では、どうして婚約解消なんて言ったんだ」
「それは……」
テオフィヌスに、フローラと結ばれてもらうためだなんて、言えなかった。
否、言いたくなかった。
今、オリヴィアの中にいるのは雪音なのに、オリヴィアの記憶があるせいか、まるでテオフィヌスを愛した心が残っているかのように胸が苦しくなったからだ。
「オリヴィア?」
「――殿下に、幸せになってほしいからです」
震える声でそう言って、オリヴィアは俯いた。
涙が零れそうだ。オリヴィアは多分、テオフィヌスが好きだ。
「何を言っている。私の幸せを思うなら、婚約の解消などありえない」
「……?」
「何故、私は君より年下に生まれてしまったのだろうな。本当は今すぐにでも結婚して、この先一生、私から離れられないようにしたいのに」
悔しそうな顔で言ったテオフィヌスは、つかんでいたオリヴィアの手を持ち上げ、手の甲にキスをした。
オリヴィアは、ドキドキしながらもテオフィヌスに尋ねる。
「殿下。聖女様はよろしいのですか」
「?」
「聖女様と、婚約されると思っていました」
「誰がだ」
「殿下です」
「……は?何を言っているんだ君は。あれは妹になると言った筈だが」
どうしてだろう。小説と違う。
テオフィヌスの台詞に、オリヴィアは戸惑った。
だから、「申し訳ございません。そうでしたね」と曖昧に微笑んでおいた。
*****
八年前、つまりテオフィヌスが九歳の頃に一つ年上のオリヴィアとの婚約が決まった。
最初こそぎこちなかったものの、二人はすぐに仲良くなった。
テオフィヌスは、可愛くて賢いオリヴィアを気に入っていた。
オリヴィアも頑張っていると思えば頑張れたし、オリヴィアに会えると思うと嬉しかった。
だからこそ、将来この国の王と王妃として、共に国政を担い、喜びも苦しみも分かち合える相手のような気がしていた。
四年ほど前、変化が訪れる。
テオフィヌス自身が思春期に入り、オリヴィアを異性として意識し始めた途端、どうにも照れくさくて、やりづらくて、かなわなくなったのだ。
テオフィヌスの態度をどう受け止めたのか、丁度その頃から、オリヴィアもツンツンし始めた。
よって、二人の間の空気は険悪なものになることが増えた。
しかし、二年と少し前から、オリヴィアは変わった。
急に、とても大人びた顔をするようになったのだ。
テオフィヌスにいけずな態度をとることはなくなり、言い返したり、嫌味を言うこともなくなった。
そして、まるで子供を見守るかのように、諦めたように微笑むことが増えた。
きっかけが何だったのかは、未だに分からない。
それでもテオフィヌスは、オリヴィアの変化に気付かないほどの鈍感さを持ち合わせていなかった。
だから、ずっと気になっていた。
オリヴィアの、その憂いを帯びた横顔の意味が。
不意に遠くを見るアメジストの瞳が、悲しく曇る理由が。
しかしテオフィヌスは、オリヴィアに直接問い詰める勇気もまた、持ち合わせていなかった。
*****
次のお茶会は観劇の二週間後、王宮の中庭だった。
オリヴィアがガゼボへ向かうと、そこにはテオフィヌスだけではなく、もう一人、小柄な少女が座っていた。
緩やかに波打つピンクブロンドの髪と、柘榴のように赤い瞳。
見間違えるはずもない。
聖女・フローラである。
「お姉様!」
オリヴィアの姿を見つけるや否や、フローラは、ぱあっと笑顔になって立ち上がった。
そして、そのまま無邪気に駆け寄ってくる。
惑うオリヴィアの両手をとり、フローラは、自らの両手でぎゅっと包み込んだ。
「お会いしたかったです!」
「え、ええと……?」
「フローラ。まずは挨拶だ」
テオフィヌスが静かな声で窘める。
するとフローラは、ハッとした顔になった。
「大変申し訳ございません」
フローラは慌てて一歩下がる。
そして、ドレスの裾を摘まんで綺麗に礼をした。
「はじめまして、フローラと申します。これからよろしくお願いいたします。お姉様」
「お姉様?」
「はい!」
何故だろう。
私はいつからフローラの姉になったのか、誰か説明してほしい。
困惑するオリヴィアを見て、フローラは首を傾げた。
「あれ?まだお聞きになっていませんでしたか?」
「フローラ」
テオフィヌスは、少しだけ低い声で制す。
しかしフローラは気付かない。
そして、事実をありのままに口にした。
「最初は、私がお兄様の婚約者候補になるお話があったのです」
その台詞に、オリヴィアの思考は停止する。
ほらやっぱり。オリヴィアは、テオフィヌスに捨てられる運命なのだ。
「でもお兄様が、婚約者はお姉様しか考えられないし、お姉様としか結婚しないと仰いまして。
だから陛下が、私のことは王家の養女に迎えようとお決めになりました」
「……え?」
「ですから私は、殿下の妹なのです」
フローラは、にこにこと笑顔だ。
嫉妬も嫌味もなく、ただ朗らかに微笑んでいる。
オリヴィアは、何を言われたのか咄嗟に理解できなかった。
フローラの斜め後ろでは、椅子に座ったままのテオフィヌスが、この上なく渋い顔で片手で額を押さえていた。
そして、ふーっとため息をついた。
「フローラ」
「はい!」
「その話は、オリヴィアにまだしていない」
「……えっ!?」
元気よく返事をしたフローラだったが、テオフィヌスの一言に、ぱちぱちと瞬きを繰り返した。
「もしかして、内緒でしたか?」
「内緒ではないが、少なくとも私から話すつもりだった」
「えぇ!?も、申し訳ございません……!」
フローラは口元を押さえて、ざっと青ざめた。
がばっと勢いよく頭を下げるフローラを見て、オリヴィアは呆然としていた。
(どういうこと……?)
気まずそうなテオフィヌスと、やってしまったと戦々恐々としているフローラは、どうやら事情を知っているようだ。
しかし、オリヴィアには分からない。
オリヴィアだけが取り残されている。
「いや、フローラは悪くない。――オリヴィア」
テオフィヌスは席を立ち、フローラの隣まで来て、オリヴィアと向き合った。
オリヴィアは、名前を呼ばれても返事ができなかった。
頭の中が真っ白だった。
(そんなはず、ない)
小説では、テオフィヌスは聖女を愛し、オリヴィアを捨てた。
それが、この世界の決められた結末だった。
だから受け入れようと思っていた。
嫌われても、選ばれなくても、仕方がないことなのだと。
ずっと諦めなければと思い続けてきた。
「お姉様?」
フローラが、心配そうにオリヴィアの顔を覗き込む。
すると、フローラの赤い目とオリヴィアの紫の目が合ってしまった。
オリヴィアは、ぎこちなく微笑んでかろうじて返事をした。
「はい」
「お兄様は、いつもお姉様のお話ばかりなさるんですよ」
オリヴィアの胸が、どくりと鳴った。
フローラは、ふふっ、と微笑んで続けた。
「この花はオリヴィアに似合う。
オリヴィアは甘いものが好きなんだ。
この便箋はオリヴィアが好きそうだ。
まるでオリヴィアの瞳みたいな宝石だ。
あと、何だっけ。このドレスを着たオリヴィアと踊りたい、だったかな。
――羨ましくなるくらい、お兄様はお姉様のことが大好きなんだなぁと、いつも思っていました」
フローラは、困ったようにはにかんだ。
その瞬間、オリヴィアの瞳から、するりと涙が滑り落ちて、ぽたりと豊かな胸元に落ちた。
泣くつもりなんて、なかった。
悲しくはなかった。
それなのに、涙は、次から次へと溢れてくる。
「オリヴィア、どうした」
テオフィヌスは、急に泣き始めたオリヴィアにギョッとして、激しく動揺した。
そして、もし迷惑とか、気持ち悪いとかだったら、一生立ち直れないとも思った。
(フローラ、なんてことを……)
事実をありのままに、しかも本人の前で暴露するとは、なかなかいい性格をしている。
とはいえ、これはわざとだったり嫌がらせなどではなくて、素直さから来るものだから、責めようがないのだが。
心配そうなテオフィヌスに、オリヴィアは、何でもないと言うかのように、首を横へ振った。
「ごめ、なさい……」
かろうじて紡がれた声は、震えていた。
オリヴィアはもう、テオフィヌスの顔も、フローラの顔も、正面から見られなかった。
「謝る必要はない」
「違うんです。私は、ずっと……」
言葉は詰まるのに、涙が止まらない。
オリヴィアは、しゃくりあげそうになるのを必死に堪えた。
言えるはずがない。
小説の話も、前世の話も、全部。
何も言えないのだ。
「ずっと……殿下に愛されないのだと思っていました」
震える唇からようやく出てきた台詞は、酷く悲しいものだった。
テオフィヌスは目を見開いた。
それは驚きと、痛みを湛えた表情だった。
フローラも、その赤い瞳を大きく見開いて、まるで自分のことであるかのようにつらそうな顔をしていた。
「誰が君にそんなことを言った」
低く言ったテオフィヌスに、フローラも頷いた。
オリヴィアは、泣きながら力なく微笑んだ。
「いいえ、誰も。ただ私が、そう思い込んでいただけです」
テオフィヌスは、暫く何も言わなかった。
やがて、声もなく泣き続けるオリヴィアの頭を、そっと撫でた。
「オリヴィア。私は一度も、君を手放そうと思ったことはない」
それは優しく、それでいて確かな声だった。
オリヴィアは、くしゃりと顔を歪めた。
みっともなく嗚咽が漏れてしまいそうで、歯を食いしばるのも忘れなかった。
「もし私がフローラを婚約者候補にすると言ったら、きっと君は身を引いたのだろう?文句一つ言わずに、ただ静かに微笑んで」
図星だ。
何も言えないオリヴィアに、テオフィヌスは苦く笑った。
「だから、そんな話は冗談でもできなかった。
――もし君が、少しくらい嫉妬してくれるならと、馬鹿なことも考えてみたけれどね。
でも、万が一にもそんなことをして、君に愛想を尽かされたらと思うと、とてもチャレンジする気にはなれなかった」
テオフィヌスは、オリヴィアの髪に触れる手をするりと滑らせた。
そして、ラベンダー色の髪を一房手に取り、恭しく口付けを落とす。
「――っ」
髪に神経なんて通っていないのに、オリヴィアはびくりと身を震わせる。
テオフィヌスの青緑色の瞳は、真っ直ぐにオリヴィアを映していた。
「オリヴィア。私は君が好きだ。私の妻は、君しかありえない」
その瞬間、オリヴィアの中で、張り詰めていた糸がぷつりと切れた。
涙が止まらない。テオフィヌスの声は、オリヴィアの最後の強がりを打ち崩すのに十二分な威力を持っていた。
(なんだ。オリヴィアは、ちゃんと愛されていたのね)
胸が苦しい。
これが喜びなのか安堵なのか、自分でも分からなかった。
(頑張ってきたこと、全部、無駄じゃなかった)
雪音は、オリヴィアの記憶を知っている。
未来の王太子妃になるために、幼い頃から必死に勉強して、礼儀を覚えて、笑顔を作って、感情を押し殺した日々。
やがて、テオフィヌス――つまり、好きな人にも素直になれなくなって、それでも報われなかった女性。
そう思っていたけれど。
(よかったね、オリヴィア)
その努力は。その恋は。全部、ちゃんと届いていた。
これはきっと、今のオリヴィアではなく、ずっと心の中でだけで、一人泣き続けていた本当のオリヴィアの涙だ。
「……っ!」
とうとう堪え切れず、オリヴィアはしゃくりあげて泣いた。
テオフィヌスとフローラは瞠目し、一瞬顔を見合わせた。
テオフィヌスは、そっと、包み込むようにオリヴィアを抱き締めた。
そして、ただ黙って、その涙が止まるまでオリヴィアに寄り添っていた。
フローラは、目配せの後、空気を読んで数歩後ろに退避した。
しかし、オリヴィアにつられて、ハンカチで目元を押さえながら、小さく鼻をすすっている。
「うぅっ、よかったです、お姉様……」
「フローラ。何故お前が泣く」
「だってぇ……、でも、これはお兄様が悪いですよぉ」
「……否定はしない」
「そうですよね?こんなにっ、お姉様を泣かせてぇっ、酷いです……っ」
べそべそと無きながら、フローラはテオフィヌスを責めた。
テオフィヌスは困ったように息を吐き、苦笑した。
その腕の中で、オリヴィアも泣きながら、くすりと笑う。
穏やかな秋風が、三人の間を吹き抜ける。
この日、悪役令嬢の運命は、静かに書き換えられた。
*****
「で、殿下。そんなに抱き寄せなくても……」
「何故だ」
オリヴィアがフローラと対面した日から約一ヶ月後。
聖女のお披露目会にて、テオフィヌスは、コルセットでいつも以上に細くなったオリヴィアの腰を遠慮なく抱き寄せていた。
「な、何故って……その、慣れておらず恥ずかしいので……」
恥ずかしそうに、もそもそと文句を言いながら俯くオリヴィアは今日も美しい。
テオフィヌスは、にやけてしまいそうになる顔面をきりりと引き締めてはいたが、少々浮かれていた。
片側に流された淡い紫の髪から、白く瑞々しい首筋が覗くのがなんともけしからん。
薄く染まった頬も、困ったように揺れるアメジストの瞳も、この上なく可愛らしくて愛しかった。
「綺麗だ」
「光栄です。素敵なドレスをありがとうございます」
「ふぅん。褒め言葉には照れないのか」
「?」
「――思わずそのドレスを乱したくなるくらい、いい女だ」
「――っ!?」
ボソリと耳元で低く囁かれた台詞に、オリヴィアはビクリとした。
そして、かぁっと、顔から首筋まで赤くなる。
テオフィヌスは、満足そうに笑みを浮かべた。
普段の淑女然としたオリヴィアを見慣れているテオフィヌスは、自分の言動で百面相をするオリヴィアの一挙手一投足に内心身悶える。
「もっと早く、こうすればよかったな」
「?」
「いや、君は思っていたより分かりやすいんだなと思っていたところだ」
この数年間、一体自分は何をしていたのだろう。
一年の年の差がなんだというのか。
オリヴィアが離れていってしまうくらいなら、羞恥心もプライドも全部丸ごと捨て去るしかないと腹を括ったのは、割と最近のことだ。
もう全力でオリヴィアを口説くしかないと、馬鹿みたいに奮起した結果が今ここに出ている。
テオフィヌスは、身長差のあるオリヴィアを見下ろして告げた。
「本当は、私が君の屋敷まで迎えに行きたかった」
「ありがとうございます。ですが、今日はフローラ様の晴れ舞台。殿下がお側にいて、エスコートして差し上げなくてはなりませんもの。私のことはよいのです」
「よくはない。その美しい姿を、私より先に見た男がいることが気に食わない。――だが、仕方がないと理解はしている」
「ふふ。そう仰りましても、相手は殿下の弟君のエルンハルト様ですよ?可愛らしい紳士で、確りとしたエスコートでした」
エルンハルトとは、テオフィヌスの年の離れた弟で、現在10歳である。
聖女をエスコートするのは次の国王、つまり王太子というのが慣例のため、テオフィヌスはフローラのエスコートをするしかなかったのだ。
事情を理解したオリヴィアとその両親は、仲が良い従兄弟にエスコートを依頼しようとした。
しかし、テオフィヌスは、年齢が近い男性にオリヴィアを任せたくなかったため、国王夫妻を説得した。
そして、流石に侯爵邸まで迎えに行かせることこそしなかったものの、両親と共に馬車で王城についたフローラを、護衛を引き連れたエルンハルトが出迎える形にしたのだった。
「オリヴィア様、来てくださってありがとうございます」
「フローラ様、この度はおめでとうございます」
「ありがとうございます。――お兄様、一度お席にお戻りください。陛下がお呼びです」
優しいピンクと白のドレス着たオリヴィアは、まずはフローラに声をかけた。
そして、オリヴィアの腰をがっちりホールドしている兄となったテオフィヌスを呼んだ。
テオフィヌスはお披露目会の最初、つまり、開会の挨拶や聖女の紹介の時は、王族の席である一段高いひな壇に大人しく着席していた。
しかし、それが終わると速やかに席を立ち、侯爵夫妻と出席していたオリヴィアを捕まえ、側から離れようとしなかった。
「何故陛下が私を?」
「隣国の王太子が来てくださっているため、ご挨拶をと」
「……分かった」
「ありがとうございます」
渋い顔になるテオフィヌスに、フローラは苦笑した。
フローラは最初、テオフィヌスのことを、綺麗だが蝋人形のような王子様だと思った。
しかし、オリヴィアのことになると忽ち人間らしくなるのを知り、親しみを覚えた。
「オリヴィアも行こう」
「え?よろしいのですか」
「よろしいもなにも、外交のためにも、君を婚約者として紹介する」
「!はい、かしこまりました」
サラリと答えたテオフィヌスに、オリヴィアは瞠目した。
そして、はにかんで了解した。
明らかに嬉しそうなオリヴィアに、テオフィヌスは、そう言えばオリヴィアを伴って要人に会うことは少なかったと気付く。
(まさか、気にしていたのか……?)
テオフィヌスとしては、オリヴィアをエスコートするまではよかったが、婚約者ですと紹介するのが、ただ気恥ずかしかっただけなのだが。
もしかしたらオリヴィアは、別の意味に捉えていたのかもしれない。
(だめだ。可愛い。オリヴィアから目が離せないし、オリヴィアのことが頭から離れない……)
もっと早く、こうすればよかった。
分かりやすく好意を伝えて、婚約者らしいスキンシップをすれば、それだけで、オリヴィアの硬い殻はこんなにも分かりやすく剥がれていく。
(あと数ヶ月だ。数ヶ月で、オリヴィアと正式に結婚できる。そうすれば、オリヴィアは私の妻になる)
テオフィヌスは、本当に今更だが、分かりやすくオリヴィアに夢中になっていた。
語彙力が著しく低下するほどに、テオフィヌスはオリヴィアが愛しくて堪らない。
テオフィヌスが変われば、オリヴィアは何度だって微笑みかけてくれる。
見たことのない表情を見せてくれる。
テオフィヌスは、己の幸運をかみしめた。
終
2026/7/13に加筆しました。
加筆箇所は最後の*****以降で、後日談になっております。
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