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『忘れられた夜に、小さな光を』

8月24日は、「聖バルトロメウスの夜(La nuit de la Saint-Barthélemy)」と呼ばれる、16世紀のフランスで多くの命が奪われた夜──


本作は、記憶の向こうにいる、名もなき小さな魂たちへの祈りとして紡いだ物語です。

歴史を知らなくても楽しんでいただけるように書いていますが、

“それでも、想いは残り続ける”という願いを込めて──

本編から少し離れた静かな一話として、お届けします。


よければ、ゆっくりとお付き合いください。

夏の終わりを告げる風が、セーヌの水面を撫でていた。

シトロンと玲央が橋の袂を歩いていると、川辺の石畳でひと組の親子の姿が目に留まった。


「ママ、どうして今日は……セーヌが赤いの?」


金色の巻き毛を揺らした少女が、無邪気に尋ねる。

夕陽の光が川面に反射していたのだ。

だがその瞬間、少女の表情が曇り、ふらりとよろめいた。


「エマ!?」


若い母親が慌てて抱きとめるも、少女はそのまま意識を失ってしまった。

思わず駆け寄ったシトロンと玲央。


「お連れください、うちはすぐ近くです」


玲央の静かな声に、母親──イザベル=アリーヌは小さく頷いた。

サン=ルイ島の邸宅へと連れていく間、少女は穏やかな眠りについたままだった。



エマはソファに横たえられ、冷たい布が額に当てられていた。


「赤いって……言ったんです。川が、赤いって。夕陽のせいかと思ったのですが……」


イザベルは少し戸惑いながらも、娘の様子を気遣っていた。

そのとき、玄関が開き、息を切らした男性が飛び込んできた。


「エマ……!」


その声に振り向いた玲央は、一瞬目を見開いた。


「黒川先生……?」


「マルセルが教えてくれた。……待ち合わせ場所に娘と孫が現れないって。

式神を何度も飛ばしたが見つからなくてな……」


普段は落ち着いた黒川が、明らかに狼狽していた。


「じいじ!」


ベッドの上で、目覚めたばかりのエマが無邪気に手を伸ばす。

黒川はほっと息をつき、ゆっくりとその手を包み込んだ。



その夜。


「赤かった日がある。ほんとうに、川が血に染まった夜が」


シトロンが窓の外、ゆらめく水面を眺めながら低く呟いた。


「サン・バルテルミーの夜──あれは、ひとつの鐘の音から始まった」


その夜、シトロンは猫の姿で、ひとりの少年のそばにいた。

少年は逃げ惑う人々の中で妹を庇い、倒れた母を呼び続けていた。


「俺は、彼を助けたかった。けれど、あの夜はあまりに早く、あまりに残酷で……」


少年は最後の力を振り絞り、小さな布に包まれた何かをシトロンの首にかけた。


『これを、未来の誰かに。忘れられないように。どうか……』


「俺はそれを、サン・ジェルマン=デ=プレの地下礼拝堂の隅に、封じるように隠した。人が近づかぬよう、古い石の奥に、猫の足跡を残して」


玲央は立ち上がる。

「行こう、シトロン。確かめに」


閉ざされた礼拝堂。今は立ち入りも禁じられ、忘れられたままの空間。

その奥、石板の裏に、小さな木片が、猫の爪痕とともに残されていた。


「これ……」


玲央が手に取る。

焦げた木板の裏に、たどたどしい猫の絵。

ぎこちない花の模様。

そして──母の名と思しき頭文字。

その場にいた黒川が、そっと眼鏡を上げる。


「これは……16世紀の“エクス・ヴォト”だ。自分の祈りや願いを込めて作った民間の奉納品。

当時は、木板に大切な者への祈りを込めて絵を描き、教会に捧げる風習があった。

この猫は、あの少年が信じた存在……君だったのかもしれないね」


シトロンは目を伏せた。


「……そうかもしれない」


玲央はその木板を、胸にそっと抱いた。


「……君の願いは、まだ消えていなかったんだね」



夜。邸宅の窓辺に、小さな蝋燭が並べられていた。

目覚めたエマが、祖父の手を取り、


「じいじ、これ、なに?」


と不思議そうに尋ねる。

黒川は柔らかく微笑む。


「これはね、祈りの灯。遠い昔に消えた声を、忘れないように灯すものなんだ」


シトロンが蝋燭に火を灯す。


「忘れられた夜に、小さな光を。俺たちはそうして、繋いでいく」


エマは頷き、そっと手を合わせた。

その手を見ながら、黒川がふと、少しだけ真剣な声で呟いた。


「願いって、たぶんとても単純なものなんだ。

一緒にいたい。もう一度、会いたい。

そう願う気持ちだけが、人の記憶と記録を超えて……奇跡を残すことがある」


玲央はその言葉を胸に刻むように、窓の外に視線を戻した。


今夜の川は、やさしい金に揺れていた。

シトロンがそっと、玲央の指先に触れる。

何も言わずに、ただ隣に立っていた。


──Fin──

最後まで読んでくださって、ありがとうございます。

この物語の中に登場する「猫の絵と木板の祈り」は、16世紀のフランスで実際に行われていた“Ex-votoエクス・ヴォト”という奉納文化をもとにしています。

500年前、名もなきひとりの子どもが「一緒にいたい」と願った気持ち。

それが時を越えて、誰かの心にふれていく──そんなささやかな奇跡を、玲央たちとともに描きました。

甘いシーンは今回ありませんが、彼らのそばにある“静かな愛”を、感じていただけたらうれしいです。

次回からは、また本編に戻ってまいります。どうぞ、引き続きよろしくお願いいたします。

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