『忘れられた夜に、小さな光を』
8月24日は、「聖バルトロメウスの夜(La nuit de la Saint-Barthélemy)」と呼ばれる、16世紀のフランスで多くの命が奪われた夜──
本作は、記憶の向こうにいる、名もなき小さな魂たちへの祈りとして紡いだ物語です。
歴史を知らなくても楽しんでいただけるように書いていますが、
“それでも、想いは残り続ける”という願いを込めて──
本編から少し離れた静かな一話として、お届けします。
よければ、ゆっくりとお付き合いください。
夏の終わりを告げる風が、セーヌの水面を撫でていた。
シトロンと玲央が橋の袂を歩いていると、川辺の石畳でひと組の親子の姿が目に留まった。
「ママ、どうして今日は……セーヌが赤いの?」
金色の巻き毛を揺らした少女が、無邪気に尋ねる。
夕陽の光が川面に反射していたのだ。
だがその瞬間、少女の表情が曇り、ふらりとよろめいた。
「エマ!?」
若い母親が慌てて抱きとめるも、少女はそのまま意識を失ってしまった。
思わず駆け寄ったシトロンと玲央。
「お連れください、うちはすぐ近くです」
玲央の静かな声に、母親──イザベル=アリーヌは小さく頷いた。
サン=ルイ島の邸宅へと連れていく間、少女は穏やかな眠りについたままだった。
*
エマはソファに横たえられ、冷たい布が額に当てられていた。
「赤いって……言ったんです。川が、赤いって。夕陽のせいかと思ったのですが……」
イザベルは少し戸惑いながらも、娘の様子を気遣っていた。
そのとき、玄関が開き、息を切らした男性が飛び込んできた。
「エマ……!」
その声に振り向いた玲央は、一瞬目を見開いた。
「黒川先生……?」
「マルセルが教えてくれた。……待ち合わせ場所に娘と孫が現れないって。
式神を何度も飛ばしたが見つからなくてな……」
普段は落ち着いた黒川が、明らかに狼狽していた。
「じいじ!」
ベッドの上で、目覚めたばかりのエマが無邪気に手を伸ばす。
黒川はほっと息をつき、ゆっくりとその手を包み込んだ。
*
その夜。
「赤かった日がある。ほんとうに、川が血に染まった夜が」
シトロンが窓の外、ゆらめく水面を眺めながら低く呟いた。
「サン・バルテルミーの夜──あれは、ひとつの鐘の音から始まった」
その夜、シトロンは猫の姿で、ひとりの少年のそばにいた。
少年は逃げ惑う人々の中で妹を庇い、倒れた母を呼び続けていた。
「俺は、彼を助けたかった。けれど、あの夜はあまりに早く、あまりに残酷で……」
少年は最後の力を振り絞り、小さな布に包まれた何かをシトロンの首にかけた。
『これを、未来の誰かに。忘れられないように。どうか……』
「俺はそれを、サン・ジェルマン=デ=プレの地下礼拝堂の隅に、封じるように隠した。人が近づかぬよう、古い石の奥に、猫の足跡を残して」
玲央は立ち上がる。
「行こう、シトロン。確かめに」
*
閉ざされた礼拝堂。今は立ち入りも禁じられ、忘れられたままの空間。
その奥、石板の裏に、小さな木片が、猫の爪痕とともに残されていた。
「これ……」
玲央が手に取る。
焦げた木板の裏に、たどたどしい猫の絵。
ぎこちない花の模様。
そして──母の名と思しき頭文字。
その場にいた黒川が、そっと眼鏡を上げる。
「これは……16世紀の“エクス・ヴォト”だ。自分の祈りや願いを込めて作った民間の奉納品。
当時は、木板に大切な者への祈りを込めて絵を描き、教会に捧げる風習があった。
この猫は、あの少年が信じた存在……君だったのかもしれないね」
シトロンは目を伏せた。
「……そうかもしれない」
玲央はその木板を、胸にそっと抱いた。
「……君の願いは、まだ消えていなかったんだね」
*
夜。邸宅の窓辺に、小さな蝋燭が並べられていた。
目覚めたエマが、祖父の手を取り、
「じいじ、これ、なに?」
と不思議そうに尋ねる。
黒川は柔らかく微笑む。
「これはね、祈りの灯。遠い昔に消えた声を、忘れないように灯すものなんだ」
シトロンが蝋燭に火を灯す。
「忘れられた夜に、小さな光を。俺たちはそうして、繋いでいく」
エマは頷き、そっと手を合わせた。
その手を見ながら、黒川がふと、少しだけ真剣な声で呟いた。
「願いって、たぶんとても単純なものなんだ。
一緒にいたい。もう一度、会いたい。
そう願う気持ちだけが、人の記憶と記録を超えて……奇跡を残すことがある」
玲央はその言葉を胸に刻むように、窓の外に視線を戻した。
今夜の川は、やさしい金に揺れていた。
シトロンがそっと、玲央の指先に触れる。
何も言わずに、ただ隣に立っていた。
──Fin──
最後まで読んでくださって、ありがとうございます。
この物語の中に登場する「猫の絵と木板の祈り」は、16世紀のフランスで実際に行われていた“Ex-voto”という奉納文化をもとにしています。
500年前、名もなきひとりの子どもが「一緒にいたい」と願った気持ち。
それが時を越えて、誰かの心にふれていく──そんなささやかな奇跡を、玲央たちとともに描きました。
甘いシーンは今回ありませんが、彼らのそばにある“静かな愛”を、感じていただけたらうれしいです。
次回からは、また本編に戻ってまいります。どうぞ、引き続きよろしくお願いいたします。