第1話 前編 『目覚めた街で、恋は走り出す』〜渋谷が、恋に落ちた午後 〜
梅雨の晴れ間の朝、
東京の高層マンションで目を覚ました金色の“彼”は、
ふと、あの夜の記憶を思い出していた。
・・・月の導きと共に、一匹の猫が、人の姿へと生まれ変わった。
それは、ひとりの青年と猫との、不思議で優しい日々の物語。
そして“恋”が静かに満ちていくまでの第一章。
このスピンオフは、その続き。
“人間”になったシトロンが、初めて世界と出会う物語。
まだ見ぬ東京、胸が高鳴る春の午後、
そして・・・玲央というたったひとりへの、あたらしい想い。
恋は、ここからもう一度、走り出す。
・・・6月末、東京。
梅雨の合間、ひさしぶりに朝日が差し込む都会の空。
窓の外では、まだ少し湿気を帯びた風が、街路樹の葉をそっと揺らしている。
街はゆっくりと目覚め、アスファルトには夜の雨の名残がかすかに光っていた。
そんな静けさのなか、
玲央のマンションでは、ひと足先に始まるふたりの朝があった・・・
玲央がネクタイを締める鏡越しに、シトロンの姿が映る。
白のシャツは胸元まで開かれ、ゆるやかに羽織った薄手のジャケットがその肩に優雅にかかっていた。
ソファに背を預け、窓の向こうに広がる都市の光景を静かに眺めている。
「今日は、ちゃんと留守番してろよ」
玲央がそう声をかけると、シトロンはゆっくりと振り返った。
金の髪が朝の光を受けて、淡く、柔らかく輝く。
「玲央はいつもそう言うけれど……俺に“待て”は、ちょっと難しい願いだよ」
声は低く穏やかで、どこか甘やかな響きを帯びている。
けれどその言い回しには、刺々しさも反抗心もなく、ただひとつ・・・優しさが滲んでいた。
「でも、君が心配する気持ちは、ちゃんとわかってる。……だから、今日は約束する」
そう言って、シトロンは立ち上がった。
その一歩ごとに空気が揺れるような存在感。
自然体でありながら、視線を引きつけずにはいられない、気品と光をまとった所作。
玲央の正面に立ち、ネクタイの結び目をそっと整えると、彼はふっと微笑んだ。
「……このあたり、ちょっと甘く緩んでる。玲央らしいけどね」
冗談めかして言いながら、次の瞬間、その手がそっと玲央の前髪に触れる。
指先が髪を耳にかけ、額を露わにしたかと思えば・・・
シトロンはすっと顔を寄せ、額にふわりと口づけた。
まるで祈るように、穏やかで、柔らかなキス。
「俺のことは……心配いらないよ」
囁く声が、すぐそばで震える。
そのまま、もう一度そっと顔を近づけ、今度は玲央の目元に、ふわりと唇を落とす。
それは、ひどく甘くて、くすぐったくて、そして・・・優しかった。
「君が戻るまでに、夢をひとつだけ見てくる。……行ってらっしゃい、玲央」
玲央は目を見開き、そして・・・ゆっくりと微笑んだ。
「……ありがとう。ちゃんと帰るから、待ってて」
「もちろん。君と交わした約束は、俺にとって世界でいちばん大切なものだから」
シトロンは一瞬だけ瞬きをし、玲央の背を見送った。
その姿はまるで、朝の光とともに、空へ祈りを送る神のようだった。
玄関の扉が静かに閉まり、部屋に静寂が戻る。
シトロンはひとつ息をついてから、窓辺へと視線を移した。
高層階のガラス越しに広がる東京の朝。
ビルの谷間を縫うように光が差し、空の色が淡く変わっていく。
ソファに腰を下ろし、脚を組んで、顎に手を添える。
・・・ふと、ある春の夜のことがよみがえった。
まだ毛の生えた小さな身体で、玲央と並んでいた頃。
開けた窓からは、やわらかな夜風と桜の香り。
湯気の立つカップの横で、毛布にくるまりながら見ていた、テレビの中の世界。
画面のなかで、金色の少年が、渋谷の交差点を駆けていた。
人波を切り裂くように、まっすぐに。
音と光、喧騒と夢の奔流のなかで・・・たしかに、なにかを追いかけていた。
「……あそこ、一度でいいから行ってみたかったんだ」
そっと目を開けたシトロンは立ち上がる。
胸元を整え、玲央のクローゼットから借りたジャケットを優雅に羽織る。
鏡の前で金の髪を指先で整え、真っ直ぐに自分を見つめる。
その姿には、人ならざる気配と、この世界に対する抑えきれない好奇心とが同時に宿っていた。
「さて……夢の続きを、見に行こうか」
そう呟き、彼は玄関のドアに手をかける。
鍵は使っていないのに、まるで誘われるように静かに開いた。
東京という舞台が、王の降臨を待っていたかのように・・・
彼は、朝の光のなかへ踏み出した。
* * *
午後の渋谷、スクランブル交差点。
信号が青に変わった瞬間、人々の流れが一斉に動き出す。
その中心で・・・
腰まで届く、陽光を受けて揺れる金色の髪を風にたなびかせたひとりの青年が、まるで光の輪郭を帯びるように立ち尽くしていた。
その瞬間、時が止まったように感じた者は少なくない。
誰もが目を奪われた。
彫刻のように整った顔立ち、まっすぐに伸びた脚、さらりと羽織ったシャツとベージュのパンツ。
そして何より、全身から立ちのぼる、ひとを寄せつけぬ気高さと、眩いばかりの存在感・・・
彼のまなざしがふと、空の一点を見上げる。
「……ここが、渋谷」
呟いた声は小さい。
けれどその響きすら、周囲に静けさを生むようだった。
彼は歩き出す。
まるでこの街の喧騒すら背景にしてしまうかのように、ひとつの物語を纏いながら。
「え、誰……?」
「王子様みたい……いや、もう……貴公子か……」
「あの佇まい……映画?現実?」「現実バグった……」
スマホを向ける人々の手が震え、瞬く間にSNSには《#渋谷の金の貴公子》《#時空の交差点》《#次元超越美》などのタグが踊り出す。
だが、彼はまったく気づいていないように、あるいは気にも留めていないように、視線を街の奥へと滑らせる。
ふと、甘く香ばしい風が吹き抜けた。
「……あっち、好きな匂いがする」
そう言って、青年――シトロンは、ふたたび歩き出した。
きらめく都市のざわめきをその身にまといながら、ゆっくりと、けれど確かに、夢の続きを辿るように。
その後ろ姿を、見送った誰もが、息をのんで立ち尽くしていた。
〜後半につづく〜
猫だった彼が、人の姿になって初めて踏み出した東京の街。
アニメのように夢見た渋谷の交差点で、
金色の髪を風に揺らしながら立つその姿は、まるで“現実に降りた王子”のようでした。
玲央との朝のやりとりに甘さを詰め込みつつも、
この1話前半ではまだ、ふたりはほんの少し離れた場所にいます。
けれど、読者のみなさんはきっと気づいているはず・・・
シトロンが見つめている“夢”の先に、いつも玲央がいることを。
次回はいよいよ、彼が玲央のもとへ・・・
人の姿だからこそできること、伝えられる想い。
そして、ふたりだけの夜が、そっと幕を開けます。
甘く、鮮やかに。
ときめきは、まだ始まったばかりです。