没落貴族の俺は、10年越しに再開した幼馴染から婚約破棄されたが……
所謂、一般的なこのwebだけで流行っている婚約破棄物語じゃありません。
勘違いする人が発生したため、前書きに明記:ざまぁなし・ロマンス的(ラノベ+少女漫画的)・男性視点
「私、大きくなったらリフェトくんと結婚する~!」
草原。地平線。大きな木の下。遊び疲れたリーシアはそう言った。
屈託もない、無邪気な笑みだった。
風に舞う銀色の髪を右手で押さえながら、リーシアは返事を待っている。
僕は視線を逸らすと、首を何度も小刻みに横に振った。
「僕らはできない、と伝えたはずだ」
「できるわよ」
「リーシア。僕と君では生れが違うから無理なんだ。君はこの地方の大商人の生れ。僕は没落が運命づけられている貴族の生れ。親が許してもくれないよ」
と僕が言うと、リーシアはむっとした表情で首を横に振った。
「そんなの関係ないじゃない。許嫁とかそんなの、私は守りたくないもん。
『私も許嫁なんて嫌だった』と叔母様方も言うじゃない。私は守らないからね。
私が稼いでリフェトくんを迎えるの。それならいいでしょ? だから、10年後に迎えに来て」
あまりにも爽やかな物言いだった。
僕はヤレヤレと差し出された柔らかな手を握る。柔らかな地面を蹴り上げて立ち上がる。
瞬間、リーシアは真剣な表情で僕を見た。
「約束だよ」
「約束……か」
現実的には叶いそうもない願いだ。いや……僕が頑張って没落を阻止出来たら可能性はある。
しかし、それは針に糸を通すような難しく困難なことだ。
僕は運動神経が良いわけでも、頭がいいわけでもない。とりわけ優れた点はないのだ。
「僕の家は没落――」
「約束!」
リーシアは僕の唇に人差し指を当てた。ハッとした僕の眼前には、柔らかで親しみのある笑みが飛び込んできた。
心から様々な思念が解けてすーっと消えていく。
少しだけ試してみても良いって気持ちになってくる。
「分かった」
僕がそう言う頃には、リーシアは草原を駆けていた。時折、僕がまだ考えているのか面白いのか、笑いながら振り向いてくる。
敵わないな。なんだか、君を見ていると、前向きになれるんだ。
遠のいていくピンク色のワンピース姿を見つめながら、その当時の僕はそう思った。
それが今から10年前、僕が8歳の頃の話だ。
懐かしい思い出を頭の片隅に片付けると、僕は現実を再認識する。
地方都市ベステリアの少し高級なレストラン。
と言っても、別に大臣や大人が利用するような高級な店でもない。この店は、若者の間で話題になっているらようで、親の年代の人は少ない。
僕は今日この場所で、リーシアを迎えるつもりだ。
緊張する。渇いた喉を潤すために、コップをゴクリと飲む。その後に強迫観念にとらわれた僕は、本日三度目の持ち物チェックを実行した。
仕立てたばかりの服にヨレはない。卒業の印もテーブルの上にある。
指輪はあるかな?
ポケットを探る。硬い箱が確かにその存在感を示してくれた。
「完璧だ」
僕は安堵の息を心の中で漏らす。気が抜け、体を背もたれに預けると、ツンとした声が僕の耳に届いた。
「何が完璧なのかしら?」
「リーシア…‥?」
巻かれた銀髪。
リーシアは腕を組みながら、僕を見下ろすように立っていた。
「その通り。リーシア・ラ・ヴァロワよ。貴方は、リシュモン家の嫡男で間違いないわね?」
「あ、ああ」
僕は恐る恐る、高慢な態度の女を再度一瞥する。
背格好は異なるけど、顔立ちは間違いなくリーシアだった。
「リーシア、どうしたんだよ?」
「どうしたって何がよ」
座席に座ったリーシアは、怪訝そうに眉を顰めた。
「いや……とくには。ただ、何かあったのかと」
リーシアは、溜息をもらした。
「リフェトくんは、変わらないのね」
「僕?」
「そうよ。このレストランに入ってきたとき、一目でリフェトくんだと分かったわ。喋って見てもその感想は変らない」
「それはリーシアだって同じだ」
「嘘ね」
ツンとした声。リーシアは、間髪入れずにそう呟いた。
「私は変ったでしょ。見た目も、話方も。そう変わったのよ」
「僕にはまだ何とも」
「でしょうね」
最悪な再開だった。時折、リーシアから昔のような柔和な笑みがこぼれそうになっているのは確認できる。
しかし、それは一瞬の出来事。
すぐに敏腕商人の娘のような高飛車な態度を見せていた。
「まぁ、君はきっと君だ」
根拠もなくそう言い放つと同時に、店内から柔らかなガス灯の光が徐々に消えていく。
そしてまばらに残ったガス灯の光のみになった。
薄暗いレストランのカウンター付近。
そこからウェイターが、様々な料理を僕らの所に運んでくる。
ゆっくりと近づいてくる。そんな様子をリーシアは、複雑な表情で見ていた。
「ヴァロワ様。リシュモン様。おめでとうございます」
ウェイターはテーブルにベストリアを模ったケーキを置いた。そこには、僕とリーシアの砂糖菓子もある。
瞬間、レストランが拍手に包まれた。
僕は予定通りにポケットから箱を取り出すと、リーシアにそれを向けた。
「リーシア。渡したい物があるんだ」
「……今ここで?」
「ああ、今ここで」
「……高慢な女に?」
「それはさっき答えを出した」
僕がそう言うと、リーシアは俯いた。
「……リーシア?」
僕の呼びかけに、リーシアは無言で首を横に振った。
瞬間、僕の心臓は跳ね上がった。リーシアの奏でる一音一音が、僕の心臓をキュッと締めつける。
「今日、私は、婚約を破棄するためにここに来たの」
ゾワって騒めく。
僕の頭は真っ白になる。それでも、この状況を治めるのは、僕の役目だった。
もう昔の僕ではない。
そう言い聞かせながら、ウェイトレスに平常の営業するように言った。
灯るガス灯。リーシアの銀色の髪が白いドレスと顔を覆っている。
そんな彼女は、ただ「ごめんなさい」と繰り返していた。
「いいんだ。もう10年も前のことだから」
あのリーシアとは言え、10年前の約束なのだ。人の心は移ろいやすい。
僕は、嫌というほど中央貴族のそんな事情を目にしてきた。
僕は最初から分かっていたのかもしれない。
「ううん。ごめんね」
それでも、心にはドシンとくる重りのような物が落ちたような気がした。
「謝らなくてもいい。だから顔を上げてくれ」
「できないわ。だってリシュモン家を侮辱したのだから、この償いは必ずするから」
「そんなこと。誰も気にしない」
「私が気にするの!! そうじゃないとフェアじゃないでしょ」
「……フェアとか、そんなの僕と君の間柄で考えることか」
「優しすぎるのよ」
リーシアはそう呟くと、すぐに「お手洗い」と言い放ち席を立った。
空いた時間。僕にとっては、有難い時間だった。
再びリーシアが戻ってきたとき、僕はスムーズに対応することができたと思う。
「……理由を聞いてもいいか」
「……それが原因よ」
「は?」
「リフェトくん。王都で学んでいたと聞いたわ。周りの人は、とても善い人間だったのよね。それに、リシュモン家は昔の栄光を取り戻せるとも聞いた。説得を続ければ、お父様も納得すると思う」
「……リーシア、君は一体何の話をしているんだ?」
「私、童顔だから少し釣り目風のメイクをしてるの。そのほうが外交の場で効果的なのよ。髪型も伸ばすことで大人っぽくできる。腕組も癖。ヴァロワ家として格。女だからって舐められないようにね」
リーシアは唇をきゅっと閉じた。
「私の言いたいこと、リフェトも分かるでしょ? 私は変ったの。ヴァロワ家の跡継ぎとして使命を果たさなければならない。私は商人として汚れたわ。全てのモノをお金で考えるようになってしまった。それだけじゃないわ。その、……価値観が変わった。だから……」
『だから何だ。その続きを教えて欲しい』と、僕は問いたかった。
それでも、悲しい表情をしているリーシアを見て、思いとどまった。
「そうか。君は変ったんだな」
僕は、リーシアの言葉をなぞるようにそう呟いた。
「……ええ」
「その律儀なところを察するにそう思えないが。でも、変わったのだろう。10年だ」
大人の世界に入り様々な情報に触れた結果、普遍的な商人としての生き方を選択してきたということだ。
その始まりや変化が起こった時期がいつかは分からない。
いや……ヴァロワ家のことを考えると、僕が王都に発ってから数年内に変化が起こったのだろう。
「ごめんね」
リーシアは唇を噛みしめた後に、再び頭を下げた。
だから僕は慌てて、上げるように言う。
「僕も王都で色々なことを経験してきた。僕も現実の味くらい噛みしめているつもりだ
潤んだ瞳。閉じられた唇。後悔の念が押し寄せているような表情だった。
婚約を破棄したのに、そんな顔を見せるのかと思った。
「だから、そんな顔しないでくれ。僕だって実は君に隠していることがあるんだ」
「……え?」っとリーシアが言う。
「僕は王都で3日だけとある女の子の偽の彼氏になったことがある。ある目的のためとはいえ、あまり良いことではないだろ。これで相殺だ」
「…‥全然相殺になってないじゃない」
「いいんだ。ただ僕は……リーシア。僕は君に話したいことがあるんだ」
「まだ何かあるの!?」
リーシアは、むっとした表情で僕を見た。
「ごめんなさい。怒っているというわけでなく、私は、別に今でもリフェトくんのこと嫌いじゃないもの。幼馴染が取られるのは、あまり気分が良くないっていうか。これも商人としての悪い面ね。物や人に執着するというか。それが出たのよ」
リーシアは腕を組みながら、首を小刻みに縦に振っていた。
その動作はごく自然で、僕は体に染みついた動作だと感じた。
「そういうことか」
「ええ……」
「歯切れが悪いな。まぁ、僕はてっきり、僕のことも、気に入らないのかとも思っていたよ」
「そんなことはないわ! ……でも、時間だった経ちすぎたから」
「ああ。そうだな。10年だ。懐かしいな」
「そうね」
「昔のことは覚えてくれているんだろう?」
「ええ、もちろん。楽しかったわね」
リーシアは懐かしみのある笑顔を見せてくれた。
「あの頃は、僕が現実的な人間だったな」
「ませていると教会の僧侶に言われてましたね」
「それは君だろう」
「そうだったかしら」
「僕にぴったりくっついて、恥ずかしかったんだ」
「なら、やらなければよかった」
「恥ずかしいけど嬉しかったんだ。男心ってもんだよ。なぁ、ベステリア神祭の日を覚えているか?」
「懐かしい。人間の心の話になったとき、墓地に眠る英霊の心はこの日に蘇り、小さな子供の家々を巡ると言っとき、私は怖かった」
「俺もだ」
「あのときのリフェトくんの顔」
リーシアはクスクスと笑い始めた。
「顔?」
「当時の私でもやせ我慢をしていると分かったくらいです」
「僕だって小さかったんだ」
「ええ、嬉しかった。本当に懐かしいね」
昔話をしたところで、リーシアの表情は和らいだ。
これでようやくあの話を切り出せる。
僕は昔の話を続けることにした。
「最後のベステリア神祭の日」
「最後の?」
「あの日は僕が王都に旅立つ前日だった。僕らはギークさんに頼んで簡易的な結婚式をしたな」
「ええ、覚えてるわ」
リーシアは頷いた。
「ギークさんは、簡易的なんて言葉じゃ片付けられないほどの装飾をしてくれたわね」
「ああ……でも、僕は思い出話をするつもりじゃないんだ」
「リフェトくん。私は、婚約を絶対に破棄するつもりよ」
「絶対にか」
「絶対に」
リーシアは僕の目をじっと見つめてきた。
暫くして根負けした彼女は、唇をムズムズさせると窓の外を見た。
「絶対だから」
腕組をしたリーシアは、僕と目を合わせてくれない。
「さっき話してくれたことは、よく理解しているつもりだ。それでも、リーシア。あの日、僕らは神様に誓ったはずだ。10年後に必ず、リーシアを迎えに行くと」
「確かに神様に誓ったわ。それでも、天国に行ったら私を許してくれるはずよ」
「僕もそう思っている。でも、僕は合理的に物事を考えたい」
「……何の話??」
リーシアは僕の表情から情報を読み取りたいようで、正面を向いてくれた。
だから、僕は本題に入ることにした。
「ヴァロワ家は、南のオーベル領からの胡椒の貿易業に失敗したと聞いた」
「……!!」
リーシアは、鋭い視線で僕を見た。
「どこでそれを!」
テーブルに両手をつきそうな剣幕だった。だから僕は「落ち着け」とリーシアに言う。
「僕の家は、腐っても貴族だ。情報は流れてくる。それがヴァロワ家なら猶更だ。中央貴族の情報網は予想以上に優れている。ベステリア随一の大商人ヴァロワ家の包囲網は進められていたと聞く。安く大量に胡椒を入手した連合相手にヴァロワのそれは売れなかった」
「……一字一句。正しい情報だわ」
シュンとしたリーシア。
「一体何があったんだ。教えてくれないか」
「リフェト君には関係がない。それに私にもわからない。両親は教えてくれないもの。お前にできることはもうない。だから立て直しなんて考えずに高飛びしなさいってね」
「再建したいのか」
「そりゃー、そうよ。できるものなら。でも無理なのよ。逃げるなんて無責任なこともできない」
握りこぶし。リーシアの過去が垣間見える気がして、僕の中にも怒りの感情が沸き起こってきた。
しかし負の感情は何も生まない。眼前にいる幼馴染、リーシアのことに意識を集中した。
「リーシア、僕は君を助けられる」
「そんな偽善的なこと、リフェトまで言わないで!」
周囲に配慮した怒りの声だった。しかし、リーシアはすぐにハッとした表情で口を開いた。
「……その大きな声を出してごめんなさい。でも、ベステリア領の半年分の予算を損したの。分かるでしょ。迷惑をかけたくない」
「現実的に考えれば、返済は不可能だ」
「……そうね」
「でも、僕は助ける」
「私の話を聞いてくれていた? 半年分の予算よ!? 私の家も沢山の知り合いに融資のお願をしたわ。少額でもいいからって。親族、恩がある商人や貴族。そして、王族。誰も助けてくれなかった。それどころか、態度が一変したわ。これが現実よ。それほどのことなの」
「現実か。僕も分かるよ」
「……リフェト君には分からないでしょ」
「確かに僕は小さかったから、見える景色は全然違ったかもしれない。
でも、僕の家は没落していた。貴族とは名ばかりの質素な食事にボロボロの衣服。リーシアも分かるだろ。僕の父さんは、何度も親友や親族を頼っていた。
交渉の現場を何度目撃したことか。頭を机にこすりつけるほど低く下げたとしても、仲が良かったとしても、誰一人として助けてくれなかった。
父さんが自殺したとき、僕は思ったよ、強く生きなければいけないと」
「……ごめんね。分からないなんて言って」
「いいんだ。実際、僕よりも酷い事実に直面したのだろうから」
「いいえ、良し悪しなんてないもの」
リーシアは紅茶をゆっくりと口に含むと、意を決したように再び口を開いた。
「リフェトくんありがとう。でもね、立て直しはやっぱり無理よ。ヴァロワ家はね、私の代で終わり」
僕は、小刻みに左右に揺れていた。そんな現実的なことを、言うなと思ったからだろう。昔のリーシアは理想を語っていた。
そして、それを僕に何度も叩きこんだのは、君じゃないか。
「リーシア」
僕は……
「リーシアの無垢な笑顔に救われていたんだ。だから、僕は君に恩返しがしたい。それは、恋心ではなくてもいい。純粋な思いでそうしたいんだ。だから迷惑なんかじゃない」
小さい頃の思い出が次々と蘇ってくる。リーシアがいたからこそ、今の自分がある。
没落した家を立て直せたのは、リーシアがいてくれたからだ。
「いいえ……迷惑はかけられないわ」
「そんなの関係ない。体裁とか許嫁とかそんなの関係ない。そう言ってくれたのは、リーシアだろ」
「……でも」
「ちゃんとプランだってある。王都にいる間、無慮だったわけじゃない」
合理的で立て直し可能な計画くらい用意しいる。実行すれば中確率で共倒れするかもしれない。
でも、その時はそのときだ。
僕は嫡男の地位を捨てたのだから。
テーブルの上。卒業の印を、僕はリーシアに見せた。
「騎士リフェト・リシュモン。僕はこの領地を統括する貴族ではなくなった。僕は騎士階級としてスタートすることになっている」
「なんで!? なんでこんなことしたのよ!」
「僕としても後戻りはできない」
「こんなことしたって、誰も救われないわ。私は、リフェトには幸せになってほしいのよ。今からでも遅くないのよね」
「そんなことをしたら、僕は胸にこのことがつっかえて幸せに暮らせない」
「……なんでよ」
涙が溢れているリーシア。僕はポケットに入ったハンカチーフを手元に置いた。
「僕たちは幼馴染だろ? それ以上の関係性なんてこの世に存在するか? 僕は君の両親ですら知らないことを沢山知っているんだ。そんな大切な友達を僕が見捨てるわけがない」
「……リフェトは優しすぎるのよ。そんなのずるい」
リーシアは涙の粒を人差し指で払うと、グスンと鼻を鳴らした。
「泣いているとヴァロワの家の恥じゃなかったか」
「そんなの、どうでもいいわ」
「……どうでもいい?」
「ぐすん。どうでもいいの!」
「リーシア落ち着いて」
注目が再び集まる。
ヒソヒソ話が再び囁かれ始めた。
「あのリーシア嬢が泣いているわ……一体なにがあったのかしら」
「リシュモン様は王都で成長されたと聞く。きっと罰を与えたに違いない」
「リーシア嬢もあんな表情をするのか。所詮は女」
「ヴァロワは男子の血が途絶えたから、もう終わりだろう」
「ヴァロワ家の噂を知っているか?」
「か弱いリーシア嬢には務まるまい」
これはまずいと、僕は席を立ちリーシアを隠すように隣の席に座った。
「これじゃ、君の守ってきた像が台無しになるぞ?」
僕はリーシアにそう耳うちをした。
すると泣きじゃくっていたリーシアは僕の発言がおかしいのか、微笑んだ。
「リーシア。今は真面目な話をしているんだ」
「分かってるわ。でも、おかしすぎて涙が止まらないのよ」
「もしかして僕の顔に何かついているのか?」
「そうじゃないわ」
クスクスと笑いながら、リーシアは僕の心臓を指差した。
「リフェトの心臓がおかしいのよ」
「意味の分からないことを」
リーシアは様々なことが立て続けに起こったせいで、気分が高揚しているんだ。
僕はリーシアの口元を右手で覆った。
それでも、モゴモゴと動く。
「#〇△◇」
「ヴァロワ嬢は目にゴミが入ったようだ」
僕がそう言うと、リーシアは僕の手を剥した。
「リフェト。私は止めないわよ」
「強情だな。全く意味の分からないことを。これじゃ、昔の君じゃないか」
「ええ、そうよ」
リーシアはそう言うと、心のつっかえが消えたかのような笑顔をした。
僕は何が起こっているか分からず、幸せそうに笑う彼女に向けて小首を傾げた。
「リーシア?」
「リフェトくん。相変わらず鈍いわね」
「鈍い?」
「ええ。幼馴染とはいえ、全世界で貴方くらいよ。私はいいのよね?」
「ああ、全力で協力する」
「あー、もう。そうじゃない! リーシア・リシュモンになりたいって意味よ。もちろん、リフェトがこんな私でいいのなら、だけど……」
予想外の展開に僕はどう反応していいか分からずに、リーシアの顔をずっと眺めていた。
充血した目に、火照っている頬。柔和な口元。
曇った表情。リーシアは、「どうしたの? もしかしてやっぱり婚約は……」と問いかけてくるので、僕はようやく現実に戻ることができた。
「……君は価値観が変わったんじゃなかったのか?」
僕がそう言うと、リーシアは首を横に振った。
「迷惑をかけたくなかっただけ。……私みたいなのは嫌かしら?」
シュンとした声で言うから、思わずクスリと笑ってしまった。
「幼少の頃の自信はどうしたんだよ。僕が断ると思ってなかった、あの自信は」
「そんなこと言われても。色々あったから」
再びしおらしくなった。どうやら胡椒貿易の損失のことをまだ気にしているらしい。
そんなこと全く関係がないというのに。
「僕はあの頃の自信に満ち溢れた感じを、永続的に継続してほしい」
「そういうのが一番恥ずかしいわ!」
僕がそう言うと、リーシアは照れくさいのかそっぽを向いた。
暫く窓の外を眺めていたが、ぽつりとこう呟いた。
「ありがと。こんな私を好きでいてくれて。これからもよろしくね」
リーシアは、少し遠慮がちになったなと思う。
人は大なり小なり変るのだろう。
しかし、それでも、僕には今でもあの頃のリーシアの面影が見えている。
草原を駆けるあの幼きリーシア像を、僕は今あるリーシアに重ねた。
そして、僕は何も言わずに、彼女の前に指輪ケースを置くのだった。
(了)