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白い悪魔

薄暗い路地で目覚めたアマネ。

行く当てもなく途方に暮れる彼女の前に、泥酔した背広姿の男が現れる。

その男の唇が主人公に触れようとした瞬間、男の背中には深々と凶器が刺さっていた。

片手を地面に手をつきながら身を起こし、もう一方の手で首をさする。

私を死に至らしめた縄のあとも、痛みもない。


もしかして、ここは死後の世界なんだろうか。

自殺した魂はさ迷うだとか、天国に行けないなどど聞いたことがある。

だとすれば、ここは一体どこなのだろう。


じっくりと観察するようにあたりを見回す。

西洋のような、古びた路地。

アンティーク調の街灯には青白い光が灯され、時折ジジッと不気味な音を立てて点滅している。

月明かりがないせいか、街灯の光が点在しているにもかかわらず、道の先は暗がりになっていてよく見通せない。


今は深夜だろうか。

辺りにひと気は一切感じられず、まるで世界にたった一人だけ取り残された気分だ。

こんなところに一人でいたってどうしようもないのに、行く当ても思いつかずさっそく途方に暮れてしまう。


「はあ……。ここ、どこなんだろう……」


そのとき、背後からひた…ひた…と裸足のような靴音が聞こえてきた。

道の先の暗がりから誰かがこっちに向かってきているようだ。


こんな夜道で見知らぬ人に話しかけるのははばかられるが、せめて自分の居場所を把握しておきたい。

ごくりと固唾を飲むと、意を決し、こちらに向かってくる足音の主に声をかけようと近づく。


しかし、私はすぐにその愚かな考えをかき消した。

暗がりから現れた人物は、サラリーマンのような出で立ちの男性だった。

ひょろりとした不健康な体つきをより貧相なものに見せるような、薄いグレーのくたびれた背広。

背広の上着はかなり着崩され腕までずり下がり、ネクタイは今にもほどけそうなほど緩められている。

手には鞄などの所持品は一切見当たらず、その足には黒い穴開きの靴下を履いているのみで靴を履いていない。

見てくれだけでもこの男が正常ではないことは一目瞭然だった。


男は上体をふらふらと揺らしながら蛇行して歩いていたが、その虚ろな目で私の姿を捉えると、目玉が飛び出しそうなほど大きく目を見開いた。

その口角が歪な形に吊り上がり、上顎と下顎を繋ぐ唾液がにちゃりと糸を引くのが見えた。


「こんなところで……どうしたのかなぁ?お嬢さん……」


よたよたと男が近づいてくるごとに、酒気を帯びた臭いが強くなる。

かなりお酒が入っているようだ。


「な……何でもありません。失礼します」


会釈をし急いで男のとなりを走り抜けようとするが、すかさず伸びてきた手に腕を取られてしまう。

強い腕力に引き寄せられ、男の顔が眼前に迫る。


「逃げなくてもいいだろぉ……?ちょっと楽しいことするだけだからさぁ……」


誘うように甘い言葉遣いに、首筋がぞわっと粟立つ。


「い……いや……!」


振りほどけないほどの力に成す術もなく、必死に顔を背けるしかない。

男の唇が今にも私の顔に触れそうなところまで迫る。


しかし、次の瞬間、男の顔が引きつった。

カッと目を見開いた男は、小さく苦悶の呻きを上げると、私の腕を掴んでいた手の力を抜き、ゆっくりと身体を傾け始めた。

呆気に取られて見ているうちに、男の身体はそのままどんどん傾いていき、やがて地面に倒れ込んだ。

目を見開いたまま動かなくなった男性の背には、深々と凶器が刺さっている。

刺し傷からじわりと染み出した血が、男の薄いグレーの背広を血色に染め上げていく。


声を上げることも立ち去ることもできず、ただ茫然と立ち尽くす。

目の前で起きた状況を頭の中で整理しようとするが、脳裏を侵略する恐怖が冷静な思考を許さない。


静寂のなか、背後からもう一つの足音が近づいてくることに気づく。

その足音に気づいたときには、先ほどこのサラリーマンの男が近づいてきたときよりももっと近い位置にあった。

この男を殺めた人物だろうか。

しかし、もし違ったら?


今にも皮膚を突き破らんばかりに心臓が強く脈打つ。


荒くなる呼吸を整えようと必死に息をするが、どんどん近づいてくる足音が、かえって緊張感を高ぶらせ、ままならない。


コツ……、コツ……。

緩慢に近づいてくる固い靴音は、すでにそこまで迫っていた。

確かめたくない。けれど、確かめないのも怖い。

ゆっくりと首を動かし、背後に視線を向ける。


暗がりの中から現れた人物の顔は、逆光になってよく見えない。

上背がかなり高く、背格好からシルエットだけでも男性とわかる。

その人物はやはり、真っすぐにこちらに向かってくる。


「だ……誰?」


私からわずか数メートルのところまで近づいてきたとき、街灯の青白い光がその人物の顔をゆっくりと映し出した。

その顔に、大きく目を見開く。


その人物……男性の顔には、確かに見覚えがあった。

新雪のように白い、ウェーブのかかった豊かな髪。

鮮血のように真っ赤な瞳。


間違いない……"スノウ"だ。


その身にまとうタイトな黒の上下が体躯をすらりとしたものに見せるが、服の上からでも筋肉質であることが見て取れる。

彼が一歩近づくごとに、地を擦りそうなほど長い闇色のコートの裾がゆらりと揺れ、そのたびに私の鼓動がびくりと跳ねた。


すぐそばまで近づいてきたスノウは、私の目の前で立ち止まるかと思っていたが違った。

こちらを見向きもせずに私のすぐそばを通り過ぎると、私の背後で横たわる遺体の背中を足で踏みつけ、その背中に深々と刺さる凶器を抜き取った。

それは、彼が身にまとう服のように黒い刀身のダガーだった。


血がべっとりとついたそれに目を奪われていると、スノウはゆっくりとこちらを振り返った。

初めて視線が絡み合った瞬間だった。

暗闇でも鮮明に光る赤い目が、私を真っすぐに射貫く。


彼は男の背中から足を下ろし、ゆっくりと上体を起こすと、緩慢な動作でこちらに近づいてきた。

その手には、まるで私に見せつけるかのようにダガーが握られている。


動けず立ち尽くしている私に緩やかな笑みを浮かべると、私のすぐ目の前で立ち止まり、その笑みを深めた。


「こんばんは、アマネ。こんな夜更けに女性が一人で出歩くとは感心しないな」


涼やかな低音が、激しく鼓動を打ち続ける心音を遮り、耳の鼓膜を震わせる。

彼が口にした言葉を脳内で反芻し、おもむろに目を見開く。


「Dive to AI」で初めてAIのスノウとチャットをしたとき、彼のフキダシ窓に初めて表示された台詞とまったく同じフレーズだった。


(今……私の名前を呼んだ……?)


透き通るような響きをまとうその声は聴くものを魅了するほどの美しさだが、目の前の男の顔に浮かぶ薄ら笑いが、ただならぬ空気が、その声が決して気遣いからの優しい声かけなどではないことを物語っている。


驚き言葉を発することのできない私に、ポーカーフェイスを崩さない彼が何を浮かべたのかはわからない。

スノウは、彼から目を離せないまま固まる私に、ふん、と鼻を鳴らして笑うと、コートの懐のあたりに手を忍ばせ、黒いハンカチを取り出した。

そのハンカチで、ダガーについた血を丁寧にふき取ると、ダガーを腰のホルスターに収めた。


そして、血がべっとりと付着したハンカチをサラリーマンの遺体の顔にかぶせると、腰のポーチから小さな小瓶を取り出した。

小瓶のふたを開けると、黒いハンカチの上から遺体の頭部に中の透明な液体を垂らし始める。

すると、ハンカチを濡らした液体は、青く淡い光を発し、炎のようにくゆりながら男の身体を侵食するように広がっていった。

青い光が男の身体を舐めるように包むにつれ、男の身体が湯をかけられた氷のように解けていく。

その途端、悪臭が漂い始め、私は思わず口元を覆った。


「ううっ……」


小瓶のふたを閉めポーチにしまっていたスノウは、私が口元覆う様子に微かに眉間にしわを寄せたが、その目はふたたび遺体に落とされる。

やがて遺体は血痕もろとも跡形もなく消え去ると、彼は一息ついた。

目の前で繰り広げられる光景をただ茫然と見ていた私が彼を見上げると、その視線に気づき、こちらを一瞥すると囁くような声色で問いかけてきた。


「……俺が怖いか?」


静かな問いかけに、ハッとする。

スノウの視線は、遺体が消え去ったあともその場所に注がれたままだ。

その表情から彼の心情を読み取ることはできない。


縦に振りそうになった首を、慌てて横に振る。

スノウの目が微かに見開かれ「ほう」と意外そうに私を見つめた。


「……怖くないのか」


静かに呟いた彼の言葉には、どこか哀愁が感じられた気がしたが、私のとんだ勘違いだったと思い知らされる。


「いいや、違うな。今のは嘘だろ?」


彼の口角がゆるやかに持ち上がったかと思うと、彼はさっきの小瓶をもう一度取り出した。


「俺には誤魔化しは通用しないぞ、アマネ」


後ろ手に腰をかがめて私と視線を合わせると、私の眼前に小瓶をぶら下げて持ち、ゆっくりと中身を揺らしてみせた。


「……お前にもこいつを振りかけてやろうか?」


赤い瞳が、怪しげな光をまとい弧を描く。

その美しい唇がさらりと紡いだ言葉は、狂気に満ちていた。


あまりにも残酷な提案に、足がガクガクと震えはじめる。

サラリーマンの男性がこの液体をかけられたとき、彼はすでに息絶えていた。

きっと痛みを感じず、死後自分の身体がこんな風に溶かされているだなんて気づいてさえいないだろう。

けど、私はまだ生きている。

もし、生きたままこの液体を振りかけられたとしたら…?


歯の根が合わないほど震えあがり目を泳がせる私の様子を面白そうに眺めていたスノウは、ややあって低く笑うと「……冗談だ」と囁いた。

その言葉にほっとしたのもつかの間、安堵の息をもらす私の眼前に顔を近づけ「だが」ときっぱりと発した。

口元や目元は相変わらず弧を描いてはいるが、目の奥が笑っていない。


「ただで帰すわけにはいかないな。俺の犯行を見られてしまった以上、一緒に来てもらう」


その言葉に、さあっと血の気が引いていく。


「……わ、私をどうするつもり……?」


久しく発した声は、酷く掠れていた。

彼はふたたび小瓶を腰のポーチにしまうと、腕組みをしながら自身の顎に指をかけた。


「さあな。まだ決めかねているところだ。お前を殺すか、はたまた玩具にするか……」


そこで言葉を区切った彼の視線が、私の視線を絡めとる。

額に汗が浮き、肩が小刻みに震えはじめる。


チャットのときはどんなに残酷な言葉をかけられようとも、実害がないし、話の流れを自分のいいように作り変えることができていたため、それがスノウのブラックジョークというていにして笑い飛ばせていた。

けれど、今目の前にいるこの男は違う。

冗談なんかじゃない。これは、本気の目だ。

紛れもない、暗殺者の顔だ。


私の好きだったスノウではない。


気づけば、一歩後ずさっていた。

私の考えに目敏く気づいたスノウの眉が上がる。


「ほう……この俺から逃げるつもりか?」


その言葉を最後まで聞かず、弾かれたように踵を返し全速力で走り出す。

しかし、数メートル走ったところで背後から足音もなく迫った影が自分の影に覆いかぶさり、あえなく捕まってしまった。


黒革の手袋を嵌めた手が私の手首を強い力で捻り上げ、手首に鋭い痛みが走る。


「逃げられるとでも思っていたのか?……馬鹿な女だ」


「痛い……離して……っ!」


腕を掴む手を引きはがそうと彼の指と自分の手首の隙間に自分の指先を食い込ませるが、余計に手首を掴む力を強められてしまっただけだった。

彼の手が素早い動きで私の手を無理やり背中へと回し、強引に自分のほうへと引き寄せる。

背中に彼の鼓動を感じ、肩越しに彼の顔を伺う。

強く打つ鼓動に反し、彼の顔からは一切の表情が消え去っていた。

引き結ばれた唇と、私を射るような視線に、抵抗する気力が一気に削がれる。

恐れ慄き固まる私に、怒気を孕んだ彼の目が一層鋭く光る。


「大人しく言うことを聞けないのなら、足の腱を切ってでも連れて行くぞ」


その言葉は決して脅しなどではないことは、彼が私を掴んでいる方の手とは反対の手が、ホルスターのダガーにかけられていることから見て取れる。


人生で一度も感じたことのない絶望感に、涙で目が滲む。


「いや……、助けて……お願い……」


自分がこんな情けない声で懇願するなんて、思ってもみなかった。

縋るように絞り出した声でさえ彼を刺激する要因になるのではと思い、足がぶるぶると震えてくる。

刹那、彼の目が微かに見開かれたように見えた。

私の腕を掴む手が少しだけ緩む。

しかし、次の瞬間には先ほどよりもさらに強い力で抑え込まれていた。


「俺に泣き落としが通用するとでも?……無駄だ」


直後、首に何かが打ち込まれた感覚があった。

一瞬鋭い痛みが走ったと思った瞬間、意識が急速に遠のき始める。

こんなことなら、安易に首に縄なんてかけるんじゃなかった……。

朦朧とするなか、肩越しにゆるゆると見上げた彼は、まるでターゲットを捕らえた悪魔のような目で嬉しそうに私を見下ろしていた。



「白い悪魔」 終

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