聖女ララマリー
その日、ベルローザの聖堂騎士叙勲式が執り行われようとしていた。
大聖堂の裏手にある高台。
そこに、周囲をぐるりと泉に囲まれた厳かな建造物が建立している。
それは教国の神殿だ。
叙勲式は、教国の象徴たる聖女がおわすこの神殿で行われるのが慣わしである。
謁見の間に連れてこられたベルローザは、光彩の失せた瞳で、いつものように視線を虚空に彷徨わせていた。
式のために集まった枢機卿や、他の聖堂騎士たちの秘めたる言葉が、悪意となって彼女に届けられる。
『……なんだこの気狂いは。こんな者がララマリーに拝謁するだと? 聖女の威光を貶めるつもりか……』
『……これが俺と同じ聖堂騎士になる? 言葉も話さぬ廃人ではないか。悪い冗談はやめてくれ……』
『……この者がシンスベル家の長女か。いやはや噂に違わぬ異常者だな。このような厄介者を始末もせず、ようも飼い続けていたものだわ……』
◇
聖女ララマリーが姿を現した。
雑談に興じていた教国のトップたちが、ぴたりと静まる。
ララマリーの清廉な佇まいが、彼らの口を自然と閉じさせたのだ。
壇上の聖女がベルローザを眺めた。
首を傾げて呟く。
「……あれ? この方が、今日叙任されるっていう新しい聖堂騎士の方ですよね? もしかして……壊れてます?」
ぷっ、と誰かが吹き出した。
つられて他の誰かも笑い出す。
「ははははは! 壊れているとは、これまた言い得て妙ですなぁ!」
「ははははは! さすが聖女ララマリーだ。的確な表現ですぞ? たしかにこの者は壊れている!」
やがて笑い声は大きくなり、ベルローザを嘲笑する合唱となって謁見の間に響いた。
けれども聖女ララマリーはそんな雑音をひとつも気に掛けず、身軽な身のこなしでひょいと壇上から飛び降りた。
軽い足取りでベルローザに近づいていく。
御側付きの近衛騎士たちが慌てた。
「せ、聖女さま! 壇上にお戻り下さい!」
「その異常者に近づいてはいけません! 危険です!」
ララマリーが振り向く。
にこりと笑った。
彼女は可憐かつ天真爛漫な笑顔で、引き止める騎士の言葉を封殺したのだ。
ララマリーはベルローザのすぐ目の前で立ち止まった。
そして反応も返さずただ立ち尽くすだけの、壊れてしまった彼女をそっと抱きしめた。
聖女の内なる願いが、参の聖眼を伝ってベルローザに流れ込んでいく。
『……ああ、このひと、こんなになるまでずっと苦しんできたなんて。どれほど辛かったことかしら。可哀想。助けてあげたい……』
ララマリーの心は純白だった。
それはベルローザにとって、この世で初めて触れた無垢なる善意だった。
聖女が背伸びをし、ベルローザの額に手を添える。
「それじゃあ『直し』ますね」
聖女の手のひらから清廉な力が広がっていく。
ララマリーはいとも容易く奇蹟を起こした。
世に産み落とされてより暴走したままだったベルローザの聖眼が、あるべき姿に回帰していく。
壱の聖眼・色界眼による肉体強化の苦痛が収まる。
弐の聖眼・神通眼による魔力増大の負荷が収まる。
参の聖眼・他心眼による悪意の流入が収まる。
肆の聖眼・天眼による無秩序な視界が収まる。
伍の聖眼・宿命眼の定める運命が、正しい形を成していく。
いま、ベルローザを壊し続けた果てなき責め苦は、終わりの刻を迎えたのだ。
「…………」
ベルローザはまぶたを瞬かせた。
初めて自らの意思で世界をみた。
そこに広がる風景は、もう狂った天眼の視せるおどろおどろしいものではない。
すべてがキラキラと輝いて、美しかった。
聖女が微笑み掛けてくる。
「……どうですか? 多分これでもう直ってると思うんですけど。まだ調子の悪いところはありますか? あったら遠慮なく言って下さいね。すぐに直しちゃいますから!」
正気を取り戻したベルローザの瞳から、涙が溢れ出た。
「……ぁ、……ぁ、あ……」
ベルローザは初めて誰かに向けての言葉を発しようとした。
けれども言葉が口をつかない。
あふれでる感謝の想いが形にならない。
だから彼女は膝をついた。
自らを救ってくれた奇蹟に対し、自然と頭を下げる。
ベルローザは、聖女ララマリーに忠誠を誓っていた。
◆ ◇ ◆ ◇ ◆
聖堂騎士となったベルローザは、初陣を迎えた。
相手は序列七位の聖堂騎士でもあったシンスベル家先代当主を討ち取った、帝国の名将だった。
つまりその戦いは敵討ちになるのだが、ベルローザにそんなつもりは毛頭ない。
戦場に両軍の兵が集う。
ベルローザは配下の騎士たちが止めるのも聞かず、単身で敵将のもとへと向かった。
しかしこれは一騎討ちではなく戦争だ。
当然ながら相手は、軍で彼女を迎え撃った。
降り頻る雨のように魔法を飛ばし、矢を射掛け、槍でつき、集団で一丸となって襲う。
しかしベルローザはまったくの無傷だった。
これは色界眼と神通眼の力だ。
生まれてこの方、繰り返し殺されながら肉体を、魔力を増大させ続けたベルローザは強い。
正真正銘の怪物である。
雑兵程度がいくら束になって掛かっても、小指に毛ほどの手傷を負わせることすら敵わない。
ベルローザはまるで屋敷の庭を散歩するかのような気楽な足取りで、戦場を歩く。
どんな策を練ろうと、彼女の歩みを止めることはできない。
やがて敵陣深くに入り込み、ついには本陣までただ歩くだけで到着してしまったベルローザは、戦慄する敵将に自らの首を差し出した。
「どうぞ。わたくしを殺して下さいまし」
ベルローザの死にたがりは健在だった。
聖女は聖眼の暴走を直しはしたものの、精神までは治さなかった。
他者の精神に手を加えることを冒涜と考えたのだ。
「……? どうされたのです? さぁ、武器をお取りになって? 早くわたくしの首を落として下さいな」
ベルローザは地に膝をつき、白いうなじを晒しながら救済を乞う。
敵将は面食らった。
けれどもすぐに気を取り直し、ギロチンのごとき形状をした巨大な刀剣を持ち上げる。
その刃がベルローザの首をとらえようとした瞬間――
伍の聖眼の効果が発露する。
因果が逆流し始めた。
ギロチンの刃は、たしかにベルローザの首をとらえた。
しかしその刃は、ベルローザをとらえなかった。
それは矛盾だ。
けれどもその矛盾をすら成すのが宿命眼の力である。
敵将は躍起になって何度も攻撃した。
息を切らせ、肩を怒らせながら幾度となく凶刃を振るう。
しかし当たらない。
当たったはずが、当たらない。
ベルローザは、彼が遊んでいるのではないかと疑った。
相手を怒らせ本気を出させようと、剣を振るう。
それは技術もなにもない、ただ軽く剣を振っただけの攻撃だった。
速度もない。
当たるはずもない剣だった。
実際に敵将はベルローザの攻撃を、余裕をもって避けた。
けれども避けられなかった。
敵将が絶句する。
自らを襲った理不尽に困惑する。
しかし宿命眼をもつベルローザの攻撃が当たるのは当然の帰結である。
過程など関係ない。
ベルローザが剣を振れば、必ず相手に当たるのだ。
ベルローザは天眼で敵将と自分の未来を手繰り寄せた。
そして落胆する。
寄せ集めたビジョンのなかには、自らが対峙しているこの相手に殺される未来はひとつとてなかったのだ。
彼女はため息をつき立ち上がる。
膝についた埃を払い、茶番を終わらせる。
ベルローザが少し力を込めて攻撃するだけで、すぐに敵将は戦闘不能になった。
目の前に先代当主であった父を殺した相手が倒れている。
そうでなくとも首級をあげるチャンスである。
けれどもベルローザは敵将を討たなかった。
死にたくない、死にたくないと、他心眼を通じて彼から内なる願いが伝わってくる。
人間とは脆く儚い存在だ。
誰もが死に怯えながら生を願う矮小な存在だ。
死にたがりの自分とは違う。
彼女にとって、必死に生にしがみつく人間たちのその有り様は好ましく思えた。
愛しく思えた。
このような、手をひねれば簡単に死んでしまう赤子みたいな彼らを殺してはいけない。
ベルローザは人間を愛していた。
それは望まずとも破滅的な力を持ってしまった超越者が、壊れ物を優しく扱うような歪な愛情だ。
敵軍は『博愛』のベルローザを、化け物と罵りながら退却していった。
◆ ◇ ◆ ◇ ◆
…………。
ベルローザはベッドで身を起こした。
窓から差し込む陽光に、なめらかで美しい金の髪が輝く。
懐かしい夢を見ていた。
審問会に呼び出されて『彗星』のダスクールと対峙した日から、数日が経過していた。
ベルローザには戦地への遠征命令が下されていた。
向かう先は激戦の地である。
これは審問の場で彼女に軽くあしらわれた枢機卿たちの仕返しだった。
つまらない真似をするものだとベルローザは呆れる。
とはいえ聖女の勅命という形を取られている以上、無視するわけにもいかない。
戦地に発つまえに、ベルローザは神殿を訪れることにした。
ララマリーに謁見したいからだ。
聖女がお隠れになってもう長い。
彼女は旅立つ前にひと目だけても聖女に会っておきたかった。
◇
ベルローザは神殿にやってきた。
聖女が生活をする奥のエリアへと繋がる扉に足を運ぶ。
そこには聖女を守る近衛を代表する騎士が立っていた。
巨大なハルバードを手に仁王立ちをしている彼女の名は、アネモネ・シンスベル。
序列九位の聖堂騎士『掌握』のアネモネである。
その家名が示す通りベルローザの妹だ。
姉妹の会話が始まる。
「うふふ。お久しぶりですわねアネモネ」
「ベ、ベルローザ姉様……!」
事前の知らせもなく姿を現した姉に、アネモネは全身を緊張させた。
冷や汗を垂らしながら、平静さを取り繕う。
けれども彼女は知っている。
どんなに平静を装ったところで参の聖眼・他心眼により、いまも自らの胸の内は覗かれている。
アネモネは怯えていた。
彼女にとって姉であるベルローザは、具現化した恐怖そのものだった。
ベルローザがくすくすと笑う。
「肩の力をお抜きなさいな。そんなに怖がらないで。貴女がどう思っていようとも、わたくしは貴女のことを愛していますのよ?」
アネモネはぞくりと怖気がした。
やはり見透かされている。
怯えを振り払うようにして、アネモネはベルローザに問い掛けた。
「そ、それで姉様。どのような御用でしょうか。聖女ララマリーなら、ご存知の通り伏せっています。ですので拝謁することはかないません。どうぞお引き取りを」
ベルローザがアネモネの瞳をみた。
「本当に?」
呟いてから、じっと見つめる。
アネモネは内側を覗かれながらも、口を噤み、ただ耐えている。
ベルローザが小さく息を吐き出した。
「……どうやら本当みたいね。仕方がありません。わたくしは退散するとしましょう。どうぞ、聖女さまによろしくお伝え下さいましね」
アネモネの身体からどっと力が抜ける。
ベルローザはそんな妹の様子を気にもかけずに踵を返した。
◇
神殿をあとにしたベルローザは、肩を落としながら歩く。
彼女は気落ちしていた。
今度の遠征は長くなりそうだし、発つ前にせめてひと目、ララマリーに目通りしたかったのだが、伏せっているなら無理を通すことも出来ない。
これからどうしようか。
ベルローザは街路を歩きながら考える。
そして思い付いた。
そうだ。
子どもたちの顔を見に行こう。
ベルローザは孤児院に出資していた。
それは先々自分を殺してくれるかもしれない可能性を育てるための投資だ。
彼女は出立する前に孤児院に足を運ぶと決めた。
そしてベルローザは訪れた先で、ついに待ち侘びた怪物との邂逅を果たすことになるのだった――




