博愛のベルローザ
聖エウレア教国。
慈愛の聖女を頂きにしたこの国は、枢機院が政治を担い、また13人の聖堂騎士が軍事を担う宗教国家で、みなが当代の聖女を信奉している。
掲げている宗教はエウル教。
これは北の大帝国、ロマノ神聖帝国でおきた新興宗教で、初代聖女だったエウレアを救世主と崇め奉る教えだ。
この国はまだ国家としての歴史は浅く、建国から百年そこら程度しか経っていない。
けれども目覚ましい発展を遂げつつある新興国である。
◇
聖エウレア教国は、かつてロマノ神聖帝国で弾圧され、北方から南方へと逃げ延びた信徒たちが興した国である。
当時、彼らの追いやられた南方の地は、照り付ける強烈な日差しがただひたすらに暑く、草木一本生えない乾燥した荒野に過ぎなかったという。
しかし初代聖女エウレアが幾度となく奇跡を行使し、荒れた大地を緑豊かで実りある地へと変えていったのだ。
一説によると聖女エウレアは、上位の樹の精霊と人間の混血だったのだとか。
◇
聖エウレア教国は聖女の奇跡で急速に豊かになり、人口も増え産業も発展し、経済的に成長した。
それに伴い、軍事力も増した。
やがて自然と戦端が開かれる。
聖エウレア教国は、かつて自分たちを迫害したロマノ神聖帝国に宣戦布告し、聖戦と銘打った侵攻を開始したのである。
以降、両国は何度もぶつかり合うことになる。
そしていま現在も、聖エウレア教国は13聖堂騎士の過半数を北方へと遠征させ、聖地ルルホト奪還を掲げてロマノ神聖帝国との激しい争いを繰り広げている。
◆ ◇ ◆ ◇ ◆
大聖堂の奥まった場所に、枢機院の使う審問室がある。
その部屋に、清楚なロングドレスと華美な白金の胸当てを纏った、ひとりの女騎士が呼ばれていた。
見目麗しい女性だ。
すっと背筋の通った、凛とした佇まいをしている。
彼女の名はベルローザ・シンスベル。
当代の聖女から『博愛』の二つ名を授けられた、序列十三位の聖堂騎士である。
彼女は現在、審問台に立たされていた。
対面した枢機卿が、場を代表して言葉を投げかける。
「シンスベル卿よ。此度はなぜ御身が聖堂騎士という尊い立場にありながら、斯様に審問を受ける羽目になったか、理解しておりますな?」
「…………えっと、はい?」
ベルローザは頬に人差し指をあて、小首を傾げる。
その拍子に絹のように滑らかなロングの髪が、ふわりと揺れた。
淡い蝋燭の光を受けて、金色に輝く。
「お茶のお誘いですかしら?」
「……そうではない」
「ああ、なるほど」
彼女がポンと手を打った。
くすくすと笑いだす。
ベルローザは誰もが目を奪われるような妙齢の美女だというのに、その微笑みはまるで童女みたいにあどけない。
「ふふふ、申し訳ございません。わたくし、てっきり今日はお茶のお誘いでも頂いたものかと思っておりましたの。けれども違うのですね。それなら合点がいきました。さっきから何か変だなと思っていたのですよ。だってお茶を楽しむにしては、この部屋は暗くてじめじめしていますし、何というか辛気臭いでしょう? ああ、これって審問会だったのですねぇ」
ベルローザは飄々としていた。
そこには悪びれた様子など、まったく見られない。
彼女の態度に、集まった枢機卿たちが苛立たしげに舌打ちをした。
別の枢機卿が声を荒げる。
「ええい、白々しい受け応えを! 先の遠征で、御身が帝国の猛将『千人斬りのカールマン』を捕らえながら、敢えて逃したことは分かっておるのだ! なぜ斯様な真似をする? あの者には何度、我らの遠征軍が煮え湯を飲まされてきたと思っているのか!」
叫んでるうちにヒートアップしてきたのだろう。
枢機卿は激しく唾を飛ばしながら、ベルローザを糾弾する。
「しかもこれが初めてではない! シンスベル卿よ、貴女はこれまでにも何度も敵の勇将名将を捕らえては、これを討たず、また捕虜ともせず、その場で解放している。これはなぜだ⁉︎」
枢機卿の言ったことは事実である。
ベルローザは敵を殺さない。
いや彼女は誰をも、その手で殺めたことはなかった。
戦闘不能まで叩きのめすことはあっても、命は奪わない。
なぜなら人は誰しもが過ちを犯すが、改心も出来る。
心底からの悪など、この世には存在しない。
だから自分は誰も殺さない。
それが彼女の信念であり、また『博愛のベルローザ』がその抜きん出た最強に拠らず、聖堂騎士の末席たる序列十三位に甘んじている所以だった。
ベルローザは応える。
「千人斬りのカールマン? ……ああ、あの全身傷だらけで筋骨隆々な割に、存外か弱かったおじ様ですか。彼を逃した理由はなぜかって、たしかあの時は、彼が殺さないで欲しいと膝をついてお願いしてきたものですから」
悩ましげに眉をよせたベルローザが、頬に手のひらを添えて、ふぅと艶めく吐息をはいた。
「だって聞いて下さいな。あのおじ様、帝国で孤児院を営んでいるのですって。それで自分が死ぬと、かわいい孤児たちが明日をも知れぬ身になると。わたくし彼の話にほろりと貰い泣きをしてしまいまして。だってわたくしも、彼と同じく孤児院に出資していますでしょう? だからお話に共感してしま――」
◇
「ええい、もうよい!」
豪を煮やした枢機卿が叫んだ。
「なんだこの茶番は! とにかく枢機院の名において御身に命を下す! 敵将を勝手な判断で逃がされるな! この命に反してこれからも同様の所業を繰り返されるのなら、いかな貴卿の行いと言えど利敵行為と見做さざるを得ませんぞ!」
枢機卿は顔を真っ赤にして叫ぶ。
「うふふ。どうぞご随意に」
彼とは対照的にベルローザは余裕の笑みを崩さない。
だがしかし――
「こ、これは聖女ララマリーへの背信だ!」
枢機卿の誰かが叫んだ。
その一言で、空気が変わった。
ベルローザは、当代の聖女ララマリーに心酔している。
知ってか知らずか、この枢機卿の言葉は虎の尾を見事に踏み抜いてしまったのだ。
ベルローザの顔から微笑みが消えた。
ぼそりと呟く。
「……わたくしが、いつ……」
途端に場の空気が重くなる。
まるで質量でも持ったかのようだ。
重圧が枢機卿たちに襲い掛かった。
「……わたくしが、いつ、聖女さまに背信したというのです……?」
ベルローザが問うた。
しかし応えられる者など、この場にいようはずもない。
静かに怒れるベルローザから漏れ出した重圧が、枢機卿たちにのし掛かり、彼らの口を塞いだのだ。
「……もう一度尋ねます。……このわたくしが、いつ、聖女さまに背信したのかと聞いているのです。……返答いかんによっては、ご覚悟なさって」
審問に当たっての武装解除に応じず、帯剣したままだったベルローザが、剣の柄に手をかける。
一触即発の雰囲気だ。
けれどもその時、暗がりからひとりの騎士が歩み出た。
「待て」
現れたのは精悍な青年だった。
彼の名はダスクール・ウィルソン。
この彼こそは一騎当千と名高い聖堂騎士おいても、なお抜きん出た実力を備えた筆頭騎士。
聖女から『彗星』の二つ名を授かった、序列一位の聖堂騎士こと、彗星のダスクールである。
ダスクールは枢機院の依頼を受け、審問会に立ち合っていたのだ。
その彼がベルローザと向き合った。
物静かな口調ながら、力強さを感じさせる声で話しかける。
「柄から手を離せ。もし貴女がこの場で剣を抜くのなら、俺も同じく、剣を抜かなければならなくなる」
ベルローザが笑う。
「まぁまぁ、勇ましいですわね。さすがは勇猛果敢な聖堂騎士の筆頭たるお方ですこと。……でもダスクール様? 貴方にわたくしが止められまして?」
「無理だろうな」
即答だった。
しかし弱気は感じられない。
博愛のベルローザは掛け値なしの最強だ。
たとえば序列一位から十二位までのすべての聖堂騎士を集めて勝負を挑んでも、万に一つの勝ち目もない。
だから彼は、ただありのままに事実を応えただけである。
彗星のダスクールは、博愛のベルローザをしかと見据えたまま話を続ける。
「いかな俺とて貴女を相手に戦えば、敗北は避けられまい。もって数秒というところだろう。だがそれでも、貴女がここで剣を抜くのなら戦うしかない」
ふたりの聖堂騎士が対峙する。
視線が交錯した。
緊迫の時が流れる。
けれども先に目を逸らしたのは、ベルローザの方だった。
彼女は剣の柄から手を離し、ふっと微笑む。
「ふふふ、何もしませんわよ。だからそんな熱の籠った視線を向けないで下さい。照れてしまいます」
ベルローザは降参とばかりに、胸の前で両手を開いた。
「それにダスクール様。もって数秒だなんて、それは謙遜のし過ぎというものです。貴方は紛れもなく当代きっての剣聖。貴方ほどの方ならば、このわたくし相手でも、十合までなら打ち合えましょう」
ベルローザから発せられていた重圧が潜まった。
緊張から解放された枢機卿たちが、どっとその場に倒れ込む。
額から大量の汗をかいて息も絶え絶えだ。
そんな彼らに向けてベルローザが話しかける。
「それで、わたくしを呼び出したご用はもう済みましたかしら?」
枢機卿たちは疲労困憊していて、誰も応えられない。
ベルローザがため息をつく。
そして身を翻した。
「では、わたくしはこれにて。よければ今度こそお茶会にお誘い下さいましね」
その場に集ったものたちは、何も言えない。
立ち去っていく彼女を、ただ見つめていた。




