師弟、戦場を駆ける。
今、大地は揺れている。迫り来る足音とともに分厚い層を成した敵が大波のように押し寄せようとする。晴天はまるでこの戦を贔屓して祝福するかのように陽光を向けて敵の白刃を光らせた。
フレデリカは、息を吞んでいた。
騎士フレデリカは馬に乗っていなかった。今は徒歩の一兵士として戦場に立っている。隣の師は矢面に立たせたかったらしかったが、バッフェル家、つまりフレデリカの家が、いや、親がそこまでは許さなかった。
だが、実際それで良かったと安堵する己に気付く。それだけで最前列の兵士達の気持ちが伝わってくるようだ。フレデリカは震え、小便をしたくなった。彼女の膀胱はクルミ大にぐらいにまでしぼんでしまったのだろうか。
肩を強く叩かれフレデリカは我に返った。
師であるサーディスがこちらを見ていた。黒い鎧兜に身を包んでいる。兜は目と口だけが露出していた。
「お前、今、俺が何を言ってたか分かるか?」
「え?」
その答えにサーディスは溜息を吐いた。
「ごめんなさい、サーディス」
「ったく。実戦の中で教えてやるよ」
将の声が上がる。兵の鬨の声の唱和が続く。
最前列同士がぶつかり合った。
呆気なく吹き飛ぶ者、槍に串刺しにされる者、する者。早くも槍は役目を終え、剣による打ち合いが行われていた。
フレデリカは自分が十列目にいることを知った。一列に二百人がいる。それが安々と崩され、次々敵の牙は食い込んで来た。
彼女は緊張と尿意を忘れた。ここまで来たらやるかやられるかだ。
「良い顔だ、お嬢さん」
サーディスが隣で言った。
と、矢が降って来た。
「フレデリカ様、盾を!」
従者が革張りの木の盾を渡す。
「盾なんか捨てちまえ、代わりにこうやるんだよ!」
サーディスは両手剣を振り回し、次々矢を弾き落した。
「見えない、私には見えない、サーディス! 盾なんか捨てたら」
「戦場に来るってのはな、命を捨てたのと同じことなんだよ! 兵士の真似事をしているがお前は騎士だろう? 雄々しく戦場で散れ! フレデリカ!」
サーディスの言葉は熱い。フレデリカの頑なな臆病心を吹き飛ばした。
彼女は盾を二度と拾うものかと言わんばかりに放り捨てた。
「お嬢様!」
従者が声を上げる。
「目を見開けフレデリカ! 矢の悪意を読め! それで叩く!」
「叩く!」
フレデリカは唱和し、目を皿のようにして瞬きもせず晴天の虚空を染めるイナゴの群れのような矢の影を見詰めていた。
一本の矢がこちらへ下りて来る。猛禽が獲物を見つけたかのようだ。
「私は縮こまっているカエルじゃない!」
重々しく空気を破る音を聴きながら眼前迫ったそれに向けてフレデリカは両手持ちの剣を振るった。刃に矢が当たり甲高い音を立てて弾き飛んだ。
「できた!」
一瞬の瞠目の後フレデリカは思わず歓喜した。
「油断するな!」
サーディスがフレデリカを目掛けて落ちて来る矢を剣で打ち払った。
「次は前だ!」
サーディスが声を上げて気付いた。ギョッとした。敵の列が九段目を突破し、こちらへ襲い掛かってきていた。
「サーディス!」
フレデリカは思わず師の手を握った。
「甘えるな! 華々しく散れ、フレデリカ!」
サーディスは彼女を敵勢へと突き飛ばした。
「お嬢様!」
従者の声が聴こえた。が、そんなもの遠くのもののように思えた。
目の前には血染めの鎧兜に身を包んだ敵兵が層を成して歩んで来ている。剣を振り上げた。
「ここで食い止めろ!」
味方の将がの声が轟き、フレデリカは他の兵士と共に叫んでいた。
「おおおっ!」
戦場を支配するのは良い。だが、戦場に吞まれるな。
サーディスが教えてくれた言葉を思い出し、彼女は冷静に剣を構えた。
敵兵が突撃してきた。どんどん肉薄し大きく見えて来る。
そういう時は、名乗りでも上げてみたら良いんじゃないか。戦場では独りだ。どんなに仲間がいようとな。だから、奮い立たせるのは自分しかいない。
サーディスの言葉が思い出され、フレデリカは声を上げた。
「我が名はフレデリカ・バッフェル! いざ、勝負!」
気持ちが軽くなった。握った剣が、踏み締めた足が、直立する腰と背が、目が脳が、感覚を思い出させてくれる。
フレデリカは駆けた。
「うおおおおっ!」
敵兵は剣を振り下ろした。フレデリカは避け、横合いから敵の首を突いた。
磨きに磨いた剣は、練りに練った技を受けて最高の結末を齎した。剣が半ばまで敵の首を刺し貫いていた。
敵兵は前のめりに倒れた。もう起き上がらないはずだ。だから、新手を探し、仕留める。
フレデリカの銀色の鎧は紅に染まった。
刃が鎧に当たった時もある。だが、動ける! ということは戦えるということだ!
フレデリカは咆哮を上げて剣を振るい尽くした。
こういうのは記憶に残らないものだと思ったが、フレデリカの脳は鮮明に反芻している。一人目は首を貫き、二人目は腕を落としてから、刃を脇の下に入れて殺した。三人目は剣を三合打ち合い、よろめいたところを剣を突き出し、首を貫いた。四人目は――。
「上等!」
この戦場の音の中、サーディスの声がよく聴こえた。なので、彼女は戦場の鬼から解放され彼を振り返った。
「戦場に呑まれちまったようだが、よくやった! 下がろうぜ!」
「分かった」
フレデリカは肩で息をしていた己に気付いた。
列は交代され、最後尾に歩んで行った。このまま師の隣で彼に寄りかかって眠りたかった。
「何人やったか覚えてるか?」
「十八人」
「よく覚えてたな!」
サーディスは嬉しそうにフレデリカの背をバシリと叩いた。
だが、その途端、フレデリカは股の間を温かいものが流れて行くのを感じた。
「あ」
「どうした?」
「いえ、何でも」
フレデリカは慌てて応じ、まだ戦は続いているのに師の隣に来て気が緩んでしまった己を反省した。
「そら、来るぞ、来るぞ。また出番だ!」
サーディスが声を上げる。
フレデリカは崩れて行く自軍の列を見ながら、剣を握り締めた。
将が声を上げ、列は交代した。フレデリカは大音声で勇躍し、敵へと斬りかかった。