西へ
「我が赤鬼傭兵団は三日後、先行して西へ赴く。各自準備や心残りがあるようなら済ませて置くように」
酒場で城へ呼ばれた赤鬼団長に代わってロッシ中隊長が告げた。
元月影傭兵団も加え、赤鬼は七百人まで膨れ上がった。カティアの印象だと月影もまた古強者が多いようだが、ゴッセルやオースティンのような突出した人物は見当たらなかった。
カティアは浮かれていた。西へ行けばベルファウストととの戦いが待っている。そこには恋人の年下の青年オズワルドがいる。身に顔に幾重にも刃の古傷の目立つ若者で勇猛だが、温厚誠実だった。
カティアは四十歳。オズワルドとの子が早く欲しかった。そのためにも戦争を早く終わらせなければならない。
傭兵達はロッシ中隊長の言う通り、準備に心残りに忙しいようだった。ここで恋人を見つけたという者もいれば、武器や防具の調整と整備に動く者もいた。
団員達が飛び出した後、ロッシ中隊長も出て行ったため、カティアは酒場に一人になった。昼から酒は飲まない。ぬるくなった紅茶を啜り、サーベルに砥石を走らせる。
そうやっているうちにカティアはフレデリカのことを思い出した。ベルファウストは騎士としてのフレデリカの故郷だ。出奔したとはいえ、顔見知りや故郷の兵士と剣を交え、戦火を巻き起こす。彼女のような繊細な女性がそのことを考えないわけでは無いだろう。声を掛けるべきだろうか。だが、何を言えば良い? 静かな酒場には砥石の走る音だけが木霊した。
2
ローランドは仲間に娼館に誘われたが、固く辞退し、街をぶらついていた。
ここは生まれ故郷。だが、もう自分の知っているハイバリーでは無い。どのように生まれ変わったのかは分からない。リョウカクは税率は以前のままとした。民は最初は安堵したようだが、結局支配者が変わっただけで恩恵も無く、国への尊敬は薄れていた。
腰の皮袋にペケサンの体温を感じる。ペケサンはメスだった。そのペケサンが異国の環境に慣れるかどうかがローランドの一つの不安だった。
気持ちを察したかのようにペケサンが飛び出してきた。ローランドの服に足の爪を掛け肩まで一直線に這い上がって来る。
「ペケサン、これから俺達は西へ向かうんだとさ。少し環境が異なるかもしれないけどついて行くかい?」
そう言って撫でていたはずのペケサンの姿が無かった。まるで煙のように消えてしまった。
不意に前方に人影があった。
薄緑色のワンピースを着た、ローランドの窮地を救ったこともあるあの女性だ。
砂色の前髪が長くて目を隠している。謎めいた雰囲気を纏っていたが、線が細く美しかった。
「あんたは」
ローランドが軽く驚いて言うと相手は薄い唇の口を開いた。
「ついて行く」
「え?」
それはまたもやいつ消えたのか分からなかった。目の前に女性の姿はなく、ペケサンが駆け寄って来てローランドの脚を上り皮袋に収まった。
「疲れてるのかな」
ローランドは一人苦笑し、酒場へ戻った。
3
ルクレツィアの素振りは見事なものだった。このまま老いれば確実にフレデリカが遅れを取る。
フレデリカはサーディス流を彼女に教えたが、何故か弟子とは思えなかった。彼女はまるで妹のようだった。頑なで勝気で男勝りだが、フレデリカは彼女が可愛く思えた。
二人で揃って素振りをしていると、何者かの気配を背後に感じ、手を休めた。
そこにはリョウカクと少し離れたところにミティスティが立っていた。
リョウカクは猛禽の様な鋭さを引っ込め、温厚な態度で言った。
「フレデリカ殿、相変わらず精が出ますね」
そこでルクレツィアも気付いて手を休めた。
「リョウカク殿」
フレデリカはいつものように邪険にはできなかった。何故なら心配事があったからだ。
「我々の次なる目的地はベルファウストで間違いないでしょうか?」
「ええ、その通りです。ベルファウストはハイバリーや東国都市国家連合と違って、支城もあり、騎士団もいます。一筋縄ではいかないでしょう。頼りにしてますよ」
リョウカクがニッコリ微笑む。
「そうですね。現在はどうなっておりますか?」
「ベルファウスト戦線に興味が御有りのようですね」
「……傭兵として」
「ふむ」
リョウカクは頷いて口を開いた。
「現在はこちらは防衛が主です。聖銀騎士団を筆頭に防衛戦の維持に努めてます。我らが合流すれば戦況も多少は好転するでしょう。あとは、あなた方、傭兵がどれだけ活躍してくれるかにかかってます。ハイバリーから徴収した兵は練度が低い。矢面に立たせて盾とする以外使い道がない」
そこでルクレツィアが飛び出した。
「無駄に人を死なせるつもり!? あんた、偉い人みたいだけど、前線には立ったことは事はある? 頬を矢が掠めた経験は!? 親しかった人が死んだ経験は!? あるの!?」
彼女はリョウカクに詰め寄ったが、リョウカクは微動だにしない。その目が冷ややかなものとなりルクレツィアに向けられる。
「前線に立ったこともあれば、矢が頬を掠めた経験もある。だが、親しい友などを持たぬ私に、喪失の悲しみは理解できない」
「このぉ!」
ルクレツィアが平手打ちをしようとしたのを止めたのはミティスティだった。腕を掴んで、こちらは同情的な目でルクレツィアを見ていた。
「放しなさいよ! 家族や友達を失った経験の無い奴にはこの心の傷みは分からない!」
「分からんな」
リョウカクは再び冷めた態度でルクレツィアを見下ろした。
「ぶっ殺してやる! 偉い奴なんか、人の命を何とも思わない! 私がここで死への恐怖を教えてやる!」
ルクレツィアが我を忘れて絶叫すると、リョウカクは頷いた。
「殺して見せよ」
「何っ!」
ルクレツィアが声を上げる。驚きか怒りかは分からない。
だが、フレデリカにはリョウカクの目が殺気を帯びているのが分かった。戦場で一番に駆け、多くの敵兵を殺戮したあの時もこんな目をしていたのだろう。リョウカクの裏の顔はだんだん表になりつつある。もし、ベルファウストが負ければ、多くの身分ある者が連座して処刑されるだろう。我が、バッフェル家も。
「ミティスティ、手を放してやれ」
「しかし」
「良い、放せ」
リョウカクが鋭い声で命じるとミティスティは手を放した。自由になったルクレツィアが剣を振り上げ、下ろした瞬間だった。
目にも止まらぬ斬撃が襲い、ルクレツィアは剣を弾き飛ばされ、尻もちをついた。
「小娘、これが修羅の剣だ」
リョウカクはそう言ったが剣を見て少しだけ瞠目していた。
「剣だけは良いものを使っているようだな。刃こぼれした」
「こ、このぉ!」
ルクレツィアが立ち上がるがフレデリカが手で制した。
「落ち着きなさい、ルクレツィア」
「偉い奴は! 偉い奴は! 人が死ぬ悲しみなんて分からないんだ!」
ルクレツィアが声を上げると、リョウカクは小さく溜息を吐いた。
「ミティスティ、戻るぞ」
「はっ」
「フレデリカ殿、また機会を見てお会いできれば良いですね」
そうしてリョウカクとミティスティは去って行った。
「くそおっ!」
ルクレツィアが文字通り悔し気に声を張り上げた。剣に当たらないところは褒めるべき点だとフレデリカは思った。そして妹分の彼女を背から抱き締めた。
「あなたの無念は分かる。あなたの家族を殺したのは我々だからだ。矛盾はしているが、あなたが以前言ったように、戦を早く終わらせるための戦をしてゆきましょう」
「フレデリカは、誰かを失った経験はある?」
その問いにフレデリカの脳裏を黒い鎧兜に身を包んだ男の影が過ぎった。
「ある」
「……ごめん」
「いや、気になどするな。私の方こそ、あなたの家族を亡き者にしてしまったこと、赤鬼を代表して謝罪する」
「うん……」
ルクレツィアは神妙な顔でフレデリカの謝罪を受けると剣を拾った。
「フレデリカ、邪魔が入ったけど、続き、しよう」
「そうだな」
フレデリカは逆にルクレツィアに慰められたような気がした。彼女はサーディスの贈りものに違いないと思っている。大切に大切に育てなければ。
二人は声を上げ素振りに励んだのであった。