旅の途中で
傭兵カティアは弟を探す旅を続けている。ひとまず傭兵の村というところを目指していた。
だが、未だ情報は入って来ない。サーディスが生きているのかさえも分からないのだ。この旅はもしかすれば無意味なもの、徒労に終わるかもしれない。カティアはそんな思いを振り切った。あの時、さらわれた中にサーディスはいなかった。村の死体の中にも姿は無かった。
サーディスは生きている。
カティアは代名詞でもある刺突用の剣の切っ先を布で磨くと、程なくしてその足で酒場に向かった。
酒場は旅人や村の者達で賑わっていた。
カティアは奥の席に着くと、この喧騒では考え事などできないだろうと気持ちを切り替えることにした。路銀を少し稼いでおいた方が良さそうだ。短いスカートをした大胆な格好をした給仕が現れた。
「肉が良い。炙った肉を。それとパンとワインを貰おう。ニンニクもあればスライスして焼いてくれ。それと」
カティアは少ない路銀から銀貨を一枚出して給仕に受け取らせた。
「この辺りで手っ取り早く金を得る方法は無いか?」
給仕は少し悩んだ後、頷いた。
「実はこの村の鉄鉱石が取れる洞窟にクマが住み着いていて、坑夫達の仕事が止まったままなんです。人食い熊で、犠牲者もたくさん出ています。狩人達も総出で出ましたが、犠牲を払ってしまい、採掘活動は行われておりません。でも、貴方のような女性に仕事を任せて貰えるかどうか」
「クマか。ありがとう」
カティアはその日は早めに寝て、翌朝、宿の主から村長の家を教えてもらい、訪れた。
村長は見たところ五十過ぎ程で体格が良く、入り口には大斧が置かれていた。木こりだろうと、カティアは思った。
「何の御用かな?」
「クマについて聴きたいのだが」
村長の目が険しくなり彼はかぶりを振った。
「あなたのような女性に話す様なことは無いですよ」
そう言われるのを予測はしていた。男なんてこんなものだ。男のメンツを潰されないために、頑なに女には無理だと決めつける。男にも無理で女にも無理なら誰が片付けるのか? 世の中には色々いるが、結局は男か女かしかない。
「私は旅の傭兵だ。馬鹿で向こう見ずな旅人が一人ぐらい犠牲になっても村には何ら損害はあるまい。死体はクマが喰らうのだから、私とあなただけしか知らない秘密が漏れることもない」
カティアが言うと村長は腕組みし、喉を唸らせた。その目が腰に提げられた刺突用の鋭い剣と、太く広いノコギリ刃を持つ短剣を見ている。
「正直、クマには困っていたところだ。やれるものならやって見ればいい。向こう見ずな旅の方よ」
「報酬は約束してくれるだろうな」
「ああ、たんまりと用意しようじゃないか」
「たんまりじゃ聞こえがいいだけだ。具体的な額を述べてもらおうか」
その言葉に村長は明らかに嘲笑って応じた。
「金二十枚」
「その言葉を忘れないように」
カティアはそう言うと村長宅を後にした。
狩人もやられているのだ、油断はできない。鉄の胸当てを叩く。軽快な音が跳ね返って来た。これをクマは裂けるだろうか。
カティアは村を出て、右手の小道に入った。その道の入り口には、「この先鉱山。関係者以外立ち入り禁止」と記されていた。
「関係者だ」
カティアは誰ともなくそう言い、歩んだ。
一つ誤算があったとすれば鉱山までまる二日も掛かるとも思わなかったことだ。
荷車や穴掘りの道具がそこら中に散らばっている。鉱山の奥へはレールが敷かれ、トロッコが乗せられていた。クマは鉱山に住み着いたということだ。入るしかあるまい。カティアはカンテラに火を灯す。新しく村で買ったのはこれだけではない。一振りの山刀も手に入れていた。自分が持つのは刺突に特化した剣と、防御にこそ使える短剣のみだからだ。クマを斃せたのは良いが、証拠の首を落とすには他の武器が必要だった。
カティアは愛用の刺突用の剣を手にし、洞窟の闇の中へと入って行った。
2
坑道にはレールが一セットだけ敷かれていて、他の分岐点にはレールは無かった。帰りたければレールの後を追うだけで良い。その点は安心した。ガラス越しにカンテラの灯が暗がりを照らす。カティアの革のブーツが砂利を砕く静かな音だけが聴こえている。
カティアはまずは最初の分岐点で足を止め、レールの通っていない右手の方角へ歩み入った。
クマについてもう少し情報を集めるべきだったろう。だが、男どもは意地悪く濁すだけだろうし、やはり情報などもらえやしなかったのかもしれない。少し寂しかった。自分も男なら良かったのか。
いや、クマを討ち取って女の誇りを見せてやろう。戦場でだって多くの男どもを斃してきたし、尊敬の眼差しを向けられたでは無いか。そうだろう刺突のカティア。
行き止まりに遭い、カティアは引き返した。三十分ほど無駄にした。
カティアは溜息を吐き、引き返す。やはりこういうのは奥にいるものだろうか。
カティアはレール沿いに一番奥まで行ってみようと思った。
ふと、カンテラの灯りが前方の壁を照らし出した。
「行き止まり?」
どういうことだろうか。横穴があったのだろうか。自分らしくなく背筋に冷たいものを感じた。迷って出られなくなるのか。鉱山という地形を侮ったのかもしれない。
カティアは戻ろうと背後を振り返った時、彼女の鼻が妙なにおいに気付いた。
これはまるで、雨に濡れた犬のようなにおいだ。
途端にカティアは後方に飛んだ。
風の唸りが眼前を掠めた。
これは壁ではない。クマだ。
「グルルル、グワアアッ!」
クマの咆哮が洞窟中を震撼させた。頭上から土埃が落ちた。
私のにおいを嗅ぎ付けたのだろう。行く手は塞がれている。背水の陣か。だが、分が悪い。視界があまり効かないのだ。
クマが四つ足で歩んで来る。カティアはその脇を駆け抜けた。クマが立ち上がり後を追ってくる。戦場で背後を晒したことはあったが、これほど恐怖を感じたのは初めてだった。クマはどれぐらいで走れる? 追いつかれるか?
坑道の入り口が見えた。カティアは駆け抜けた。
そして陽光が照らす洞窟の外に出るとカンテラを置いて入り口の右手で剣を手にし、クマを待ち受けた。
獣の咆哮が響いた。
物凄い速さで灰色の影が抜けて行った。カティアの待ち伏せは失敗に終わった。
クマは四つ足から立ち上がり、ゆっくりこちらを振り返った。
体長三メートルはあるだろうか。重い巨体に太い四肢、その先には鋭く太い爪があり、円い顔は怒りに歪み、口の端からよだれをダラダラ垂れ流している。
こいつは化け物だな。人を食っただけのことはある。そしてこいつは私を心の底から食いたいと思っているのだ。
湿った獣のにおいが充満している。
クマは完全に振り返り、二本足で近付いてきた。
この剣で奴の皮と脂肪を通り抜け心臓を貫くことができるのか?
ここまで来たら迷いは無用。食うか食われるかだ。
「お前、くさいが美味そうだな」
カティアは自ら鼓舞するようにそう言うと、刺突用の剣、エストックを構えた。左手には防御のソードブレイカーを持っている。いつものスタイルだ。傭兵には通用したが、果たして。
カティアは駆けた。
クマが立ち止まる。
突こうと左肺の下を狙ったが、クマの腕の方が早かった。
ソードブレイカーで防御したが、物凄い力で吹き飛ばされた。
地を少し滑り、カティアは立ち上がる。クマは眼前だった。陽光が生え揃った爪を妖しく照らした。
それが振り下ろされ、カティアは後方に飛んで避けた。そして空を切ったクマの腕に鋭い刺突を見舞った。
刃はクマの右肘から先を貫いた。固い感触があったが、それは骨だろう。骨を砕いて貫いたのだ。
やれる。
カティアは意気を取り戻し、クマを挑発するようにエストックを左右に揺らめかしたり、突く振りをした。
だが、クマはまるで乗って来ない。
諦めたその瞬間、クマが左腕を振り上げた。
カティアは避け、緩慢な動作の敵の背後に回り込んだ。
「喰らえ!」
カティアはクマの心臓付近に力いっぱいの刃を繰り出した。
固い感触を感じ、ソードブレイカーを鞘に収め両手で柄を握り締め、突きの力を入れる。刃は貫いた。
クマは甲高い声で鳴いた。
「よし!」
剣を戻し、鮮血に塗れた切っ先を振り払うと、クマがこちらを振り返った。
灰色の毛皮の左胸から血が滝のように零れ出ていた。
死ぬは時間の問題だろう。死ぬのはな。
クマは咆哮を上げて四つ足になり突進してきた。
カティアが避けると、クマは木の幹にぶつかり、木は薙ぎ倒された。
破城鎚の代わりにクマを使うというのもありかもしれない。飼い慣らせればの話だが。
クマの生命力が衰えるまで、カティアは戦った。おびただしい出血を見れば、死はもうすぐそこだということが分かった。
「弱肉強食。お前が悪いわけでは無いが」
カティアはクマの振り下ろされる両腕を避けようとした。
不意に聞き覚えのある風切り音がし、カティアは慌てて避けた。矢はクマの腹に突き立った。
「何者!?」
カティアは振り返った。
黒い毛皮の外套を纏った猟師風の男がクロスボウを番えていた。
「ちいっ、外したか」
「貴様、手柄を横取りしに来たか!」
「旅の女ごときに村の問題ごとを解決されちゃ困るんだよ!」
「村の者か!?」
カティアはそう叫び、クマの荒い吐息が頭上に聴こえ、咄嗟に横に飛び退いた。
クマは斃れた。
「手を引け、女」
村の壮年の猟師はクロスボウを向けて言った。
「引くわけがない。クマは斃れた。後は首を斬り落とすだけ。私の邪魔するのなら貴様の首も斬り落とすぞ」
怒りで凄んで見せると、猟師の表情に焦りが見えた。
「この女!」
矢が放たれた。
カティアは左手で短剣、ソードブレイカーを抜いて矢を弾き返した。その矢が空で弧を描き運悪く男の方へ向かい首に突き刺さった。
「ぐっ!?」
男は片膝をついた。
「た、助けて」
「動脈を傷つけている。助からんよ」
カティアは屈んで男の具合を見てそう言った。
「そ、そんな……そんな……」
それが男の最後の言葉だった。
カティアは同情した。村長がこいつをけしかけたのだろう。何せ、カティアがクマ退治に赴いたのは彼と二人だけの秘密だったのだから。
カティアはソードブレイカーとエストックを鞘に収め。山刀を引き抜きクマの亡骸へと歩み寄った。
クマの首を持ち帰ったカティアを見るのは畏怖の表情だった。誰一人喜びやしない。
カティアは村長宅に踏み込むと、驚く村長の前に血の滴るクマの大きな首をテーブルに叩きつけて言った。
「金二十枚いただこう」
「ラリーは?」
「あの狩人ならしくじった。奴には運が無かったとしか言いようがない」
村長は驚愕の顔を引き締め言った。
「お前に渡す金などない! この殺戮者! 出て行け!」
その瞬間、カティアはエストックを引き抜き、切っ先を村長の首に突き付けた。
「クマの血と脂で切れ味は少し劣る。苦痛に藻掻いて死ぬか、金を渡すか、返事は?」
「は、払おう」
村長はそう言った。
カティアは村長と諍いを起こしたため、この村には個人的に居づらくなり、夕暮れの帳が下りるのも構わず街道へ出た。今頃、村では不幸なラリーとかいう狩人が相討ちでクマを討ったということにでもなっているだろう。村の尊厳を守るために。
男だ、女だ。余所者だ。くだらない。強い者が勝つだけだ。
それでも称賛されない自分が少し悔しかった。
あの村長を抜かせば夕日だけが真実を知っている。その帯は優しく慰めるように彼女を照らし、カティアは新たな地を目指して流れて行ったのであった。