廃村での出会い
かつての家の道などとうに忘れてしまっていた。フレデリカにとって、それほど外にいた時間は長く有意義なものだった。戦場という戦場を経験し、傭兵という職業で生活の糧を得るべく身をやつし、サーディスの教えを二人の弟子に説く。この上ない充実した日々だった。
フレデリカは二人の弟子と共に街道を歩んでいた。
今夜は野宿かもしれない。陽が暮れ始めたオレンジ色の空を見上げて彼女はそう思った。野宿ならもう慣れた。フレデリカは旅の夜が好きだった。カイとプラティアナと共に焚火を囲んで寝る。カイがプラティアナの寝顔を見て嬉しそうな顔をしているのも傍から見れば楽しいものだ。
だが、野宿らしい野宿とはならなかった。何故なら前方に石壁と家屋の影が見えたからだ。
「村でしょうか?」
プラティアナが訝し気に尋ねる。
「村は村かもしれないが」
フレデリカは言い淀んだ。
「師匠、はっきりしないな」
カイがからかうように言って来た。彼は生意気盛りの十五歳になっていた。プラティアナは二十二歳だ。カイがもう少し大人になれればフレデリカは二人の結婚を祝福しただろう。カイは何度かフレデリカの目を盗んでプラティアナに愛する告白していた。プラティアナは受け止めはしたが、もっと他の女性を知るべきだと彼を諭していた。
世界の女性は私だけじゃないのよカイ君。
プラティアナはそう言っているが、彼女はカイのために気を遣っているのがフレデリカには分かった。プラティアナは口ではそう言いながら、カイが他の女性に惚れてしまうのを恐れている。
「では、カイ、村に灯りが一つも見えない理由は何だ?」
フレデリカが問うとカイは気付いたように声を上げた。
「本当だ、灯りが無い? 誰も住んで無いってことかな」
「行ってみなければ分からない。ゴロツキがいるかもしれん。それなりに警戒しろ」
「はい」
フレデリカの言葉にプラティアナが応じた。
カイの方はさっそく大剣を引き抜いている。その剣を操るにはカイにはもう少し背丈と筋力が必要だ。弓なら鎧を貫通するほどの力を持ち合わせているし、素質もあるのだが、彼は自前の剣にこだわっている。
三人は手に手に剣を握り正面に来た。
鉄の門扉は閉まっていた。
誰かがいるな。
フレデリカの勘がそう告げた。あるいは、ここで一夜を過ごすのは危険な行為なのかもしれない。だが、危険なほど良い。勘が磨かれるからだ。襲うなら襲ってくれば良い。
フレデリカは両開きの扉の右側を押し開けた。蝶番は錆びた音を上げ、引っ掛かりながら、開いた。
そろりとカイが飛び出し、周囲を見回す。
「暗くて分からねぇ」
彼はそう漏らした。
その通り、ここまで来る間に日は沈んでしまった。
「こういう雰囲気の本読んだことがあります。吸血鬼が潜んでそうな雰囲気ですね」
プラティアナがいうと、カイがゾクリと身を震わせて振り返った。
「マジかよ、吸血鬼って鋼の身体を持ってるんだろう? 火とか銀とかしか効かないんだろう」
「木の杭を心臓に打ち込んで斃すのよ」
プラティアナが面白そうに言った。
「ニンニクもないし、師匠どうする?」
「カイ、吸血鬼なんか存在しない。妙な想像で臆病風に吹かれるな。吸血鬼ではない人間の何者かが潜んでいる可能性があるのだからな」
フレデリカは半ば呆れながら弟子に言った。
「扉が閉じてましたからね」
プラティアナが言い、フレデリカはまさしくと頷いた。
村の中は静かだった。静寂という言葉が相応しいだろうか。殺気も感じない。
「調査は明日にして、家屋を利用させて貰おう」
フレデリカは手近の家へ歩み出した。入り口に近い方がいざ逃げるとなれば有利だ。そんな事態になるとは思ってはいないが。
家の中はかび臭かった。木造の一階の家屋だ。土間の他に部屋が三つある。
カイが家の裏手から薪を持ってきた。奇麗に積み重ねられ、雨を凌ぐ屋根の下にあったと彼は言った。
暖炉に火が灯り、一気に家の中に光りを投げかけた。浮かび上がる三人の影はまるで亡霊にも思えた。
ふと、フレデリカは素早く右手を振り返った。
そこにはぽっかりと窓が開いているだけだが、誰かが覗いているような気がしたのだ。
弟子二人は食事の用意に取りかかっていた。まだまだ勘が鈍いのか、それとも自分の思い違いかは分からない。一つ言えることはこの弟子二人をやらせはしないと心に決めていることであった。
なので、簡素な旅の食事を終えると、フレデリカは歩哨に立った。
カイとプラティアナが自分達がやると言ったが、フレデリカは譲らなかった。思春期のカイには思い人と一緒の部屋というのはある意味では厳しい試練かもしれないが、二人は一緒の部屋で休ませた。
月も覆い隠す厚い雲の下、フレデリカはフクロウの声もない廃村の民家の入り口に立ち尽くしていた。常に感覚を研ぎ澄ませている。潜んでいる者が動けばその網に掛かるだろう。そうでなければ勝てない相手だということだ。
夜は深くなって行く。
不意に屋根から砂が落ちてきた。
フレデリカが見上げると、そこには影が立っていた。
「出たな、何者だ?」
語気を鋭くして問うと相手は跳び下りて来た。
そのまま刃が走るのを見ると、フレデリカは鋼の鞘で受け止め、剣を引き抜いた。
篝火もない。真っ暗な中だった。相手が男なのか女なのかも分からない。だが、男だろうと思った。鼻息の音が少々荒かったからだ。
相手は無言で躍りかかって来た。
フレデリカは剣で受け止める。火花と鋼の音色が木霊した。お互い良い剣を持っている。フレデリカは相手が職業戦士の経験があると踏んだ。傭兵か、兵士かのどちらかだ。
相手の猛撃にフレデリカは順応し刃を打ち鳴らす。その都度に幾重にも火花が散り、柄を握る両腕には痺れが走った。これは強敵だ。口を開いて尋ねたいの堪える。そんなことすれば命が無いだろう。殺気が大きくなったと思った瞬間、相手はフレデリカの懐に下から飛び込んで来た。
首を狙い突き出された剣をフレデリカは間一髪回避する。動きながら、打ち合う。これほどの使い手がいるとは思わなかった。
打ち合い、闇の中で命の取り合いをしていると、不意に相手が剣を下げた。途端に奇麗に殺気は消え失せた。欠片も感じない。
「何故、戦うのを止めた?」
フレデリカは相手に尋ねた。剣は握ったままだ。相手が手練れなら殺気無しでも殺す手段を取る可能性がある。
「予想以上に強いからだ」
男の声が言った。奇麗な声だった。
相手は剣を鞘に収めると、短い棒のような物を取り出した。それが松明だと分かったのは火打石の音の後に炎が灯ったからだ。
兜はかぶっていない。彫りの深い顔立ちをした三十過ぎのフレデリカよりも更に上、三十八歳ぐらいだろうか。目の色は炎を反射して分からなかったが、優しい目をしていた。
こんな眼差しを持ちながら、あそこまで剣を操るとは。腕前は自分以上だと彼女は思った。
「あなたは傭兵か?」
相手が問う。
「いかにも。そちらは、ゴロツキか?」
「そうかもしれない。一応は傭兵だが、しばらく休んでいた。今日、久々に腕を振るわせて貰ったよ。ダグラスだ」
「私はフレデリカ」
「お互いの素性と技量が知れたところで、もうこんな真似はする必要も無いな。明日の朝、もう少し詳しく話そう。フレデリカ殿」
「分かった」
フレデリカが応じるとダグラスは背を向けて村の奥の方へと歩んで消えて行った。
今日はもうこれ以上、何も起こらないだろう。
「眠っても良いぞ」
フレデリカが言うと、家の扉が開いてカイとプラティアナが飛び出してきた。
「信じられるのか?」
カイが問う。
「信じられる。あの男の眼差しは、どこか情け深さを持っている様に見えた。我々が敵じゃないとすれば剣を振るう理由も無くなるだろう」
フレデリカは答えた。二人の弟子は、はいそうですか、と言ってさすがに引っ込まなかった。フレデリカは自分がそう鍛えて来たのだから仕方が無いと溜息を吐いて、二人を諭し説得した。
フレデリカも眠るということになって二人を納得させることができた。
2
陽光が露わにする廃村の様子は、夜の不気味さが嘘のように、どこか趣のある風景だった。木造の木の壁にむした苔に、弦を伸ばす蔦などが、そう思わせた。
三人が食事を終えると、村の奥の方から一人が歩んで来た。
背の高い男で、革製の鎧を着ている。腰には両手持ちの剣と大振りの短剣がぶら下がっていた。
無精髭も無く、奇麗な顔立ちをした相手は三人の前に立つと言った。
「昨晩はすまなかった。そこは私が普段寝泊まりしている家だったからな。村の奥へ行って戻って来て見たら君達が居た」
「だから、薪が奇麗に積まれてたんだな」
カイが納得したように言った。
「フレデリカ殿は知っているな。私はダグラス」
「プラティアナです」
「カイだ」
紹介を終えるとプラティアナが尋ねた。
「ダグラス殿、ここにはあなたが一人で住んでいるのですか?」
肯定だというようにダグラスは頷いた。
「夕べ話を聴かせてもらいましたが、元傭兵のようですね。今は世捨てのような暮らしをされているのですか?」
「いや、今も傭兵のつもりだ。私はここをもう一度発展させられないかと思って、住んでいる。故郷でも何でもないが、誰かの故郷になればと思ってな」
ダグラスが答えた。目の色は透き通ったブルーだった。
「発展? 村を再興させたいわけか?」
カイが問う。フレデリカは彼が、「再興」という言葉を知っているのを聴いて少し感心した。
「そうだな、そうなる。どうだろうか、これも何かの縁。協力して貰えないだろうか?」
「人を呼びこんで欲しいということか?」
フレデリカが問う。
「その通りだ」
ダグラスは頷いた。
「人が集まれば自然と市が成り立ち、暮らしの形態ができてくる。特に私はここを傭兵達の村にしたいと考えている。強く逞しく戦争でも生き残れる村だ」
「何で傭兵の村なんだ?」
カイが尋ねた。
「それは、私自身が故郷を失った傭兵だからだ。だから似たような境遇の者達の集う第二の故郷にできないかと思っている」
ダグラスは応じた。
その優しく真っ直ぐな目にフレデリカはしばし時を忘れて射貫かれていた。我に返ったのはカイに二度呼ばれたからだ。
「師匠?」
「私達は流れの傭兵だが、そうだな、酒場にでも寄った時に話を広めてもらうことならできるだろう」
やや、狼狽しフレデリカは答えた。
「そうしてくれるとありがたい」
ダグラスは微笑んだ。その優しい笑みがフレデリカのいつの間にか固くささくれ立った心を少しだけ溶かしたのを彼女自身悟った。
こうしてダグラスと約束しフレデリカは、二人の弟子と共に旅立った。
だが、フレデリカの心は乱れていた。自分はダグラスという男に惹かれてしまった。サーディスを愛していたし、これからも愛していたい。しかし、サーディスはもう戻って来ない。幻影でさえも姿を見せない。フレデリカはこの村にはもう戻らない方が自分のためだと思い、歩みを進めたのであった。