ルクレツィアと黒衣の戦士1
白い羽毛のような雪は止むことを知らず、天からヒラヒラと舞い降りて地面に積み重なる。
溶ける間すら与えずそれはやがて一つの柱となる。
この分では敵も行軍できず、味方も駆け付けられまい。だが、テトラ達はこの中を帰って行った。今は味方だ。フレデリカの腕を落としたとしても、戦場で斬った斬られたは恨みっこなし、戦場に課せられた唯一無二のルールだった。
先の見通しの利かないほどの視界の中、ロイトガルの兵は外で調練している。一方、ローランド達、傭兵はまるで兵に代わってか、城内を徘徊し警備にあたっていた。中には仮の宿舎へ引き上げている者もいた。ローランドはカードゲームで賭け事に興じて暇を潰すよりは城を探検する方を選んだ。
中庭に辿り着いた時、そこは除雪され、二人の戦士が馬に跨り互いにランスをぶつけ合っていた。いずれも甲冑姿で黒い方はまさしくブリック王、もう一人はルクレツィアであった。
「何度も言わせるな、突く瞬間目を背けているぞ。それに重心が定まっていない」
ブリック王の厳しい言葉にルクレツィアはランスを持ち上げ突き出す。
「止め」
王は短くそう言った。怒っているような口調では無かった。
「ルクレツィア、お前にはまだ馬上戦は無理だ。脚も腕も腰も背も筋力がまるで足りていない」
「だったら何だって言うのよ」
「無駄死にすると言っている。お前は傭兵を辞めるべきだ」
再び厳しい言葉を浴びせられるとルクレツィアは涙を拭い始めた。
「泣いても何も解決しない」
「分かってるわよ! 弟弟子のあんたにあれこれ言われるのが悔しいんじゃない。自分の不甲斐なさが悔しいの! 私は大陸を平和にするために戦うつもりで来たの。それが、ただの騎馬戦だって満足にできないなんて悔しい」
「意気込みと無念さは認める。ルクレツィア、傭兵を辞めて歩兵大隊に来ないか?」
「え?」
「その方がお前の実力を発揮できる」
ブリック王はそう言うと従者に馬を預けた。
「冬の間、考えておけ」
王はそう言うとローランドを一瞥し待機していた近衛と回廊へ出て行った。
ローランドはルクレツィアに声を掛けようとした。だが、腰の皮袋が動き、ペケサンが飛び出して行った。
ここはアニマルセラピーに任せるか。ペケサンは賢い。ローランドが何処に居ても戻って来る。ローランドは安心して回廊へ引き返したのだった。
2
「泣いている暇はないぜ、お嬢さん」
ルクレツィアは不意に掛けられた声に驚いて顔を上げた。
「リョウカ……クじゃない」
黒い甲冑は似ている。だが、鉄仮面の露出している両眼と口元は違った。
「あんた誰?」
「思い出せるものなら思い出してみろ。一度お前とは会ってる」
そう言われ、ルクレツィアは思い出そうと脳裏を巡らせた。
黒い皮手袋が彼女の目元をなぞり、涙を拭き払う。
「傭兵、続けたいんだろう?」
その問いにルクレツィアは即答で頷いた。
「あたしは赤鬼のルクレツィアだもん」
「よろしい。この俺が扱いてやる。幸い外は大雪だ。鍛え甲斐がある。俺の訓練を受けるか?」
「リョウカクをあっと言わせることができるなら、フレデリカを驚かせることができるなら、あんたの訓練を受けてみたい」
黒衣の戦士は笑った。ルクレツィアはここまで良い笑い声を聴いたことが無かった。鎧兜のせいで歳は分からない。二十後半か三十代前半というところだろう。それ以外は謎だ。ただし、もう一つ分かるのは、彼がとてつもなく強いということだけだった。
「行こうか、お嬢さん」
黒衣の戦士と共に廊下を歩いているが、不思議なことに警護の兵士も動き回る侍女も、暇を持て余している同僚とも会わなかった。
厩舎にも管理人は居らず、黒衣の戦士は上等な馬を二頭選んで片方の手綱をルクレツィアに渡した。
「ねぇ、遭難しちゃうんじゃないの?」
「強くなりたいなら遭難なんて大歓迎だ。そのぐらいの意気を見せてみろ。ロイトガルの兵は外で調練に励んでるぞ」
黒衣の戦士と連れ立って、膝丈より上まで積もった雪原を踏み締める。
相手が馬に跨ったのでルクレツィアも真似した。
「全力で飛ばすぞ。ついて来い」
黒衣の戦士は降りしきる雪の中、よく目立った。相手が駆けて行くと、ルクレツィアも馬腹を蹴った。
馬は雪に脚を取られながらそれでも走っている。
「重心を安定させろ!」
前方で黒衣の戦士が声を上げた。
「うん!」
フレデリカは雪でしっちゃかめっちゃかの馬の揺れを制御しようと踏ん張った。そしてなるほどと思った。これ以上に良い馬上訓練は無い。後は槍さえ持てれば、赤鬼傭兵団の突撃に加われる。
城の影が見えなくなった頃、黒衣の戦士は引き返して来た。
「頑張りは認めるがまだまだだな。肉をたくさん食ってミルクを腹を下す寸前まで飲んで良く寝ろ。明日の朝食後、また付き合ってやる」
黒衣の戦士は言った。
「そら、帰りも訓練だ! 姿勢を正せ、フレデリカ!」
「フレデリカ?」
だが、黒衣の戦士は雪の中を颯爽と駆けて行ってしまった。
ルクレツィアは慌てて後を追った。
姿勢を正す、姿勢を正す。馬の不安定な馬脚に負けぬようにルクレツィアは両腿を鞍に締め付け、手綱をしっかり握り、背筋を伸ばそうと努めた。
その頃には必死なあまり、相手が、フレデリカの名を口にしたことをすっかり記憶の隅っこに追いやっていた。
こうしてルクレツィアと奇妙な戦士との雪の中での訓練が始まったのであった。